第二話 「軽作業」という名の、底なし沼。
魂を軽くした先に、現場はあった。そして現場には、言葉のマジックが待っていた。
派遣という世界に足を踏み入れると、最初に洗礼を受けるのは怒鳴り声でも理不尽でもない。求人票である。
かつての派遣業界は、いま思えばなかなかの"原始時代"だった。
今でこそ各社は、応募者のご機嫌を伺うように便利なアプリを競い合い、懇切丁寧な案件情報をスマホへ届けてくれる。「選ばれる派遣会社」になるべく、彼らは必死だ。
しかし昔は、違った。
登録時にどれほど熱心に「希望職種」を伝えても、届くのはなぜか絶妙に、かつ決定的にズレた案件ばかりを詰め込んだメール。
「これは一体、どの私に向けたメッセージなのか?」と自問したくなる支離滅裂なラインナップ。
マッチングというより、もはや事務局による闇鍋——しかも、具材の選定基準が最後まで謎の。
そこへ颯爽と投げ込まれてくるのが、「プラカードスタッフ募集」だの「サンプリング配布」だのという、やけに横文字で洗練された案件たちだ。
名前だけ聞けば、どこか軽やかでスマートな、都会の風を感じる仕事に思えなくもない。分類も「軽作業」ときた。
軽作業。
この二文字の前に立つと、人はなぜか一瞬だけ、貴族的な夢を見る。
だが、検索して一枚ベールをめくれば、正体はすぐに割れる。
「プラカードスタッフ」=看板持ち。
「サンプリング配布」= ティッシュ配り。
言葉のマジックとは、恐ろしい。
ほんの少し言い換えるだけで、労働の体感温度を5度は下げ、過酷な現場をどこかアーティスティックな空間へと錯覚させてしまうのだから。コピーライターの才能の使いどころ、それでよかったのか。
とはいえ、不思議なもので、当時の自分はそれでも「ちょっとやってみるか」と平然と応募していたりする。
いま振り返ると、その無謀ともいえる挑戦心——というか、あまりに楽観的な「自分への過信」——には、むしろ軽い尊敬すら覚えるほどだ。あの頃の自分、今どこにいる。
看板持ち(プラカード)編
仕事内容は、いたってシンプル。
椅子なし。スマホなし。ただひたすら、立つ。
以上。
だが、この「シンプル」という言葉には、底なしの沼が隠されている。
人類はいつの時代も「シンプル」という言葉に騙され続けてきた。私もまた、その系譜に静かに名を刻んだ。
まずは、見た目の問題から。
スーツ着用が義務付けられた現場では、夏場ともなれば開始早々、私の周囲だけが亜熱帯のような湿気と熱気に包まれる。
手に持ったプラカードは、見た目の軽やかさに反してじわじわと重力を味方につけ、数時間後には「これ、実は高密度の鉛が詰まっているのでは?」と疑いたくなる重量感で腕を削りにくる。
翌朝にしっかり刻まれた筋肉痛だけが、私が昨日「ただの置物」ではなく「重力との格闘者」であったことを、静かに証明していた。
さらに厄介なのが、「無」を強要される鉄のルールだ。
携帯禁止。読書禁止。イヤホン厳禁。
五感を社会から遮断された結果、開始30分で退屈の臨界点を突破する。
そこから先は、時間の流れが不穏なほど歪みはじめる。
1秒が永遠のように引き延ばされ、5分が30分に、1時間が半日に感じられる。8時間勤務ともなれば、精神的な体感時間は48時間を超え、もはや立派な「時間感覚崩壊症候群」の発症である。
自己申告できる医療機関があれば、すぐにでも駆け込みたかった。

とはいえ、人間とは恐ろしいほど適応する生き物らしい。
やがて私は、極限状態での「脳内エンターテインメント」を編み出しはじめた。
洋楽の歌詞を頭の中で必死にサルベージする。
これまでの人生の失敗図鑑を1ページずつ丁寧に読み返す。
さらには、通行人の服装や歩き方から「この人の昨日の夕飯はカレーだったはずだ」などと、根拠のない心理分析(という名の妄想)を展開しはじめる始末。
気づけばそこは、路上という名の「強制的な内省の場」と化していた。だれも望んでいなかった場所で、人はいちばん深く考える。
しかし、この一見不毛な仕事から得られたものは、意外にも小さくない。
人間観察力は嫌が応にも研ぎ澄まされ、相手の佇まいから背景を読み取る「野生の勘」のようなものが、わずかに芽生える。
そして何より——強制的な沈黙は、普段は喧騒に紛れて後回しにしている「自分自身の棚卸し」を、容赦なく迫ってくる。
退屈によって時間の概念が溶けていく中で、「この瞬間をどうやり過ごすか」ではなく「どう味わい尽くすか」へと思考がシフトしたとき、妙な変化が起きた。
過去への執着も、未来への不安も、すうっと消えた。
ただ「今、ここに立っている自分」だけがある。
どこか禅めいた、あるいは高僧の修行にも似た境地に、ほんの指先だけ触れたような気がした——プラカードを握ったまま、真夏の路上で。
第一話で、私はプライドという荷物を道端に置いてきた、と書いた。
看板持ちの現場は、その続きだったのかもしれない。
荷物を降ろした体で立つ修行。
身分も経歴も関係ない、ただの「立つ人」として、8時間、路上に存在すること。
意外にも、それは悪くなかった。
結論として、
「看板持ち」という案件は——見方を変えれば、なかなか優秀な自己研鑽の場、あるいは 路上で行うメンタル・リトリートである。
……もっとも、もう一度その門を叩くかと聞かれれば。
私は仏のような微笑みを浮かべ、静かに、しかし迷いなく首を横に振る。
<著者注>
このシリーズは、五十代後半から約十年間、あらゆる派遣仕事を経験した筆者の実話を元にしています。シリーズとして続きを書く予定です。いつか一冊にまとめ、Kindleで出版できればと思っています。読んでくださる方がいる限り、書き続けます。
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