性はもっと「普通」になれるのか - 特別な配慮は必要だが、特別な羞恥から離れるために
この記事は「われわれはいつ性を隠すようになったのか - 自慰タブーの歴史と、羞恥が身体に残るまで」の続きです。
「もっとオープンに」と言われると、少し身構える。
性について、もっとオープンに話せる社会が必要だ。
そう言われると、多くの人は、半分うなずき、半分身構えるのではないか。
うなずくのは、いまの社会にたしかに窮屈さがあるからだ。避妊について聞きにくい。性感染症について相談しにくい。痛みや違和感を言い出しにくい。性的同意について話すと、空気が重くなる。自慰や性的欲望については、なおさら言葉が詰まる。多くの人が経験しているはずのことなのに、自分だけが異常なのではないかという孤独が生まれる。
しかし身構えるのも、当然である。
性をもっとオープンにする、という言葉は、すぐに別の不安を呼び込む。職場や学校やSNSが性的な話題で満たされるのか。聞きたくない話を聞かされるのか。語りたくない人まで語らされるのか。恥じらいを捨て、積極的で、快楽に前向きで、性的に自己開示できる人間であることが、新しい「正しさ」になるのか。
この不安を、古い道徳心の残骸などと呼んで片付けるのは乱暴すぎる。
性には、語る自由だけでなく、語らない自由が必要である。知る自由だけでなく、見ない自由も必要である。求める自由だけでなく、拒む自由も必要である。性的な話題は、相手を本人の意思なく性的な文脈に巻き込むことがある。とくに権力差がある場所、逃げにくい場所、未成年がいる場所、相手の身体や欲望に直接触れる場面では、それは不快を超えて加害になりうる。
だから、性の未来を考えるとき、最初に切り分けておきたいことがある。
必要なのは、性をどこにでも持ち出すことではない。
性を「公」にすることでもない。
必要なのは、性をもう少し「普通」にすることだ。
では、性が普通になるとはどういうことか。
それは、誰もが自分の性生活を語る社会のことではない。街やタイムラインが性的表現であふれる社会のことでもない。そうではなく、必要なときに情報へアクセスできること。相談したいときに相談できること。話しても人格全体を裁かれないこと。話さないことも同じように尊重されること。快楽を知る権利があり、快楽を求めない自由もあること。身体や欲望について、過剰な羞恥や恐怖ではなく、適切な言葉で扱えること。
性を普通にするとは、恥をゼロにすることではない。
恥じなければならない、という強制を弱めることである。
自慰は「健康法」ではなく、まず「普通の行動」である。
性を普通にするために、まず医学的な前提を確認しておきたい。
この全3回にわたる性にまつわる記事の入り口は自慰だった。ここでも自慰を取り上げてみる。現代の医学や性科学において、自慰そのものは疾患ではない。自慰をしたという事実だけで、身体や精神が壊れるわけではない。思春期の発達の一部としても、成人の性的行動の一部としても、それは広く見られる行動である。もちろん、生活を大きく損ない、本人が制御できず、苦痛や機能障害を引き起こす性行動は臨床的な課題になりうる。ICD-11の強迫的性行動症も、そのような制御困難と苦痛、生活上の障害を問題にする。高い性的関心や自慰それ自体を病気とみなすわけではない。道徳的な罪悪感だけでも、診断の根拠にはならない。
ここまでは、かなりはっきり言える。
しかし、ここから先は慎重さが必要である。
近年、自慰や性的快楽をめぐって、「ストレスに効く」「睡眠に効く」「免疫力にいい」「前立腺がんを予防する」といった言い方が増えている。性を罪や汚れから解放するために、健康という言葉が使われる。その意図は理解できる。性が悪いものではないと伝えるために、健康上のメリットを示したくなる。
だが、ここで急ぐと、別の誤りに落ちる。
自慰が医学的に普通であることと、自慰が誰にとっても明確な健康増進法であることは、同じではない。
たとえば、オーガズムのあとにリラックスを感じる人は多い。睡眠に入りやすくなるという自己報告もある。性的緊張の解消がストレス低減につながる場合もあるだろう。しかし、これらを「自慰は睡眠障害を治す」「ストレス治療として有効である」とまで一般化するには、研究の質や対象が足りない。前立腺がんとの関連についても、射精頻度が高い男性ほどリスクが低いという大規模観察研究はあるが、それは因果関係をそのまま証明しない。生活習慣、健康状態、性的活動性、回答の偏りなど、さまざまな要因が絡む。
一方で、より限定された場面では、自慰が臨床的に意味を持つことがある。たとえば女性のオーガズム障害に対する治療やカウンセリングの文脈では、自分の身体反応を知るための方法として、指導された自慰が使われることがある。これは「全員が自慰すべきだ」という話ではない。特定の悩みを持つ人にとって、身体を知る手段になる場合がある、という話である。
この区別は大切だ。
性を普通にするために、「自慰は健康にいいからやりましょう」と言う必要はない。むしろ、それでは新しい義務が生まれてしまう。しない人は不健康なのか。性欲が弱い人は未成熟なのか。無性愛の人、宗教的・個人的な理由で自慰をしない人、トラウマや身体感覚の事情から性的快楽に距離を置く人は、何かを欠いているのか。
もちろん、そんなことはない。
自慰することは普通である。
自慰しないことも普通である。
大事なのは、どちらかを理想化することではない。自分の身体と生活にとって何が適切なのかを、過度な恐怖や羞恥なしに考えられることだ。性の普通化は、性を健康の名で推奨する運動ではない。性について、自分で判断できる余地を増やす営みである。
性的ウェルビーイングは、病気がないことだけではない。
では、性を普通にするための肯定的な言葉はどこにあるのか。
ここで重要になるのが、性的健康、あるいは性的ウェルビーイングという考え方である。
世界保健機関は、性的健康を、単に病気や機能不全がない状態とは見なしていない。身体的、感情的、精神的、社会的なウェルビーイングに関わるものとして捉え、性に対する肯定的で尊重あるアプローチを求めている。そして、性的健康のためには、安全で、快い性的経験が可能であり、それが強制、差別、暴力から自由であることが必要だとする。
この定義は、かなり大きな転換を含んでいる。
長いあいだ、性は「危険」の言葉で語られてきた。妊娠しないように。感染しないように。傷つけないように。被害に遭わないように。もちろん、それらはきわめて重要である。避妊、性感染症、同意、性暴力、権力差を抜きにして、性を肯定的に語ることはできない。
しかし、性を危険だけで語ると、別の沈黙が生まれる。
自分は何が心地よいのか。何が嫌なのか。どこから先は無理なのか。相手にどう伝えるのか。欲望がないとき、どう断るのか。快楽がないとき、どう相談するのか。痛みがあるとき、どこへ行けばいいのか。
リスクだけを教えられた人は、危険を避ける知識を持つことはできる。だが、よい関係をつくる言葉を持てないことがある。避妊具の付け方は知っているが、「今日はしたくない」と言えない。性感染症の名前は知っているが、検査に行くのが恥ずかしい。性暴力はいけないと知っているが、自分の経験が暴力だったのか判断できない。
性的ウェルビーイングという考え方は、性を無条件に称賛するものではない。むしろ、性を危険と快楽、権利と責任、プライバシーと関係性の交差点として扱うための言葉である。
世界性の健康学会が「性的快楽に関する宣言」で強調するのも、快楽を権利や健康の一部として扱う視点である。ただし、そこでいう快楽は、好き勝手に欲望を押し通すことではない。自己決定、同意、安全、プライバシー、尊重、コミュニケーションと結びついた快楽である。
ここにも、誤解してはいけない点がある。
快楽を語ることは、快楽を義務にすることではない。
「性は快楽であるべきだ」という言葉は、すぐに「快楽を得られない人は失敗している」という圧力へ変わりうる。オーガズムしなければならない。性的に自信を持たなければならない。パートナーと話し合えなければならない。自分の欲望を知っていなければならない。こうした新しい正しさは、古い禁欲主義とは違う顔をしているが、やはり人を苦しくする。
性を普通にするとは、「もっと快楽を得よ」と命じることではない。
快楽を求めてもいいし、求めなくてもいい。性に積極的でもいいし、距離を置いてもいい。重要なのは、選択の幅があり、どの選択も人格の価値を決める物差しにされないことだ。
性教育は、性行動を増やすのか。
性を普通に語ろうとすると、必ず出てくる不安がある。
そんなことを教えたら、子どもが早く性行動を始めるのではないか。
これは、性教育をめぐる最も根深い反応のひとつである。日本でも、学校教育の現場では長く「はどめ規定」が意識されてきた。学習指導要領では、児童生徒の発達段階を踏まえ、具体的な妊娠の経過などの扱いを制限する記述がある。文部科学省は、それをすべて教えてはならないという意味ではなく、学校全体の計画や保護者との共通理解、発達段階への配慮のもとで扱うことを求めている、と説明している。とはいえ現場では、性に関する具体的な説明が過度に避けられやすい空気が生まれてきた。
その結果、日本の性教育はしばしばリスク中心になる。
性感染症。妊娠。性被害。危険なインターネット。これらに対するリテラシーや対策は必要である。だが、それだけでは、自分の身体をどう理解し、相手とどう話し、嫌なときにどう拒み、必要なときにどこへ相談するのかという言葉が足りない。
国際的には、包括的性教育について多くの研究がある。UNESCOの国際セクシュアリティ教育ガイダンスは、質の高い包括的性教育が性行動を早めたり増やしたりするというより、性的開始を遅らせ、避妊やコンドーム使用を高め、リスク行動を減らす方向に働くことを整理している。もちろん、プログラムの質、地域、文化、年齢、評価方法によって効果は異なる。性教育なら何でもよいわけではない。快楽を含む教育についても、理論的な重要性に比べて、直接的な介入研究はまだ十分とは言えない。
それでも、大枠として言えることがある。
性について知ることは、性を煽ることと同じではない。
むしろ、知らないことがリスクを高める場合がある。
同意の言葉を知らなければ、断りにくい。避妊の知識がなければ、交渉しにくい。性的少数者について知らなければ、自分や友人の経験を孤立させやすい。自慰や月経や射精や身体の反応について言葉がなければ、自分だけが変なのではないかと悩みやすい。
性教育の目的は、子どもを性的にすることではない。
すでに身体を持ち、すでに他者と関係し、すでに情報環境のなかに生きている人間に、判断のための言葉を渡すことだ。
この点で、性の普通化は、家庭や学校や医療だけの問題ではない。友人同士の会話、SNSの情報設計、検索結果、広告、クリニックの行きやすさ、相談窓口の言葉遣い、成人向けコンテンツの年齢管理、プラットフォームのラベル付けまで含む。性について「正しい知識を持て」と言うだけでは足りない。正しい知識に、恥で潰されずにたどり着ける道が必要である。
「普通」と「オープン」は違う。
ここで、もう一度はっきりさせたい。
性を普通にすることは、性をオープンにすることと同じではない。
この違いは、非常に重要である。
オープンであることは、ときに解放になる。隠さなくてよい。相談できる。孤立しない。自分だけではないと知ることができる。性的少数者や性被害の経験者や身体の悩みを抱える人にとって、可視化は命綱になることがある。
しかし、オープンであることは、ときに圧力にもなる。
語らなければならない。自分の欲望を説明しなければならない。パートナーにすべて共有しなければならない。傷ついた経験を公にしなければならない。性的に成熟した人間は、自分の欲望を明るく語れるはずだ。そんな空気が生まれるなら、それは新しい抑圧である。
ミシェル・フーコーが『性の歴史』で批判したのも、近代社会が単に性を沈黙させたという理解だった。近代は性を黙らせただけではない。むしろ、性について語らせ、告白させ、分類し、診断し、人間の真実を性に結びつけてきた。性を語ることは、いつも解放であるとは限らない。語らせることもまた、権力になりうる。
だから、これから必要なのは、性をもっと告白させる社会ではない。
現状でも、私たちは多くの場合、他人の性的経験をむやみに聞かない。聞かれても、答えたくなければ濁すことができる。そこにはたしかに、相手への尊重が含まれている。友人だからといって性的経験を尋ねない。恋人だからといって過去や空想のすべてを求めない。そうした沈黙は、古い抑圧である以前に、人間関係を壊さないための配慮でもある。
問題は、その沈黙が何によって生まれているのかが、ほとんど区別されていないことだ。
相手を尊重して聞かないのか。場違いだから聞かないのか。性という言葉を出すのが怖いから聞けないのか。本当は相談すべきことまで、恥ずかしさによって閉じているのか。現在の社会では、これらがしばしば同じ「聞かない」に押し込められている。
性の普通化が目指すのは、この区別を取り戻すことである。
尋ねる必要がない場面では、尋ねないでいられる。尋ねる必要がある場面では、目的と必要性を明確にして、慎重に尋ねられる。答えたくない人は、理由を説明しなくても答えないでいられる。医療者や支援者が性的な情報を尋ねる場合でも、必要性を伝え、本人の同意と尊厳を守る。SNSで性的な話題を出すなら、相手が選べる表示設計や注意書きが意味を持つ。家庭で性を話すなら、子どもが逃げられる距離も必要である。
性の普通化とは、壁をすべて壊すことではない。
沈黙を、タブーの自動反応から、場面に応じた判断へ変えることである。
検索したい人は、信頼できる情報へ行ける。相談したい人は、専門家や窓口へ行ける。話したい相手とは、同意のもとで話せる。見たくない人は、見ないでいられる。答えたくない人は、答えずに済む。子どもは年齢に応じて守られながら、必要な知識から切り離されない。
性を普通にするには、境界をなくすのではなく、境界を誰のために、何のために置くのかを考え直す必要がある。
性のタブーは、人を守りもする。
性のタブーを批判するとき、忘れてはいけないことがある。
タブーは、人を黙らせる。
しかしタブーは、人を守ってもきた。
性的な話題を軽々しく出さないというマナーは、聞きたくない人を守る。性的な接触を公的空間から遠ざける規範は、安心して移動し、働き、学ぶために必要である。未成年に性的コンテンツを無制限に見せない仕組みも必要である。プライバシーの境界がなければ、身体と欲望はすぐに評価や消費の対象になる。
問題は、タブーがあることそのものではない。
タブーが硬すぎることだ。
硬すぎるタブーは、危険から人を守るだけでなく、助けからも人を遠ざける。性被害を受けても言えない。痛みがあっても病院へ行けない。避妊について切り出せない。ポルノで見たことが普通なのか判断できない。パートナーの要求がしんどくても、自分が冷たいのではないかと思う。性欲がないことを欠陥だと感じる。性欲が強いことを異常だと感じる。
ここで必要なのは、「性のタブーをなくせ」という単純な号令ではない。
守るための沈黙と、孤立させる沈黙を分けることだ。
たとえば、職場で同僚の性的経験を聞かないことは、人を守る沈黙である。一方で、学校で同意や避妊や相談先についてほとんど語らないことは、人を孤立させる沈黙になりうる。SNSで成人向け表現をラベル付けすることは、見たくない人を守る技術である。一方で、性的健康に関する教育的情報まで一律に排除することは、必要な人から情報を奪うことになる。
性の普通化は、タブーの全廃ではない。
タブーの機能を仕分けることである。
市場は、恥をやわらげる。同時に、別の恥をつくる。
近年、性をめぐる言葉は大きく変わっている。
アダルトグッズはセクシュアルウェルネス商品と呼ばれるようになった。女性向けプレジャーグッズは、デザインやパッケージを変え、化粧品やセルフケア用品のように並ぶことがある。フェムテック、フェムケア、月経管理、膣トレ、妊活、避妊、性感染症検査、オンライン診療。性と身体をめぐる市場は、以前より明るく、清潔で、購入しやすい言葉を得つつある。
これは悪いことではない。
買いやすいことは、相談しやすさにつながる。恥ずかしいもの、汚いもの、隠すものとして扱われていた商品や情報が、デザインや言葉の変更によってアクセスしやすくなることはある。とくに女性の快楽や身体の不調が長く周縁化されてきたことを考えれば、ウェルネスの言葉が沈黙を破る役割を果たすこともある。
しかし、市場は救済者ではない。
市場は、恥をやわらげながら、別の恥をつくることがある。もっと自分を知ろう。もっと快感を高めよう。もっとパートナーシップを改善しよう。もっとケアしよう。もっと整えよう。もっと美しく、もっと清潔に、もっと主体的に。
こうして、かつて「性を持つな」と言われていた人が、今度は「性をうまく管理せよ」と言われる。
これは、性の自己責任化である。
もちろん、商品やサービスを使う自由はある。自分の身体を知るために道具を使うこと、検査キットを買うこと、オンラインで相談すること、プレジャーグッズを生活に取り入れることは、十分に肯定されてよい。だが、それが「できる人が進んでいる」「買える人が健康的」「使わない人は遅れている」という空気になれば、普通化はまた遠ざかる。
性を普通にするために、私たちは市場の力を利用できる。
しかし、市場に普通を任せきってはいけない。
普通さは、購買力で測るものではない。性的ウェルビーイングは、商品を買うことだけで達成されるものではない。信頼できる教育、医療へのアクセス、相談先、貧困や暴力への支援、ジェンダー平等、障害のある人や性的少数者への配慮、年齢に応じた保護、プライバシー設計。そうした公共的な基盤がなければ、性の普通化は、余裕のある人だけのセルフケアになってしまう。
性を人格の試験紙にしない。
この問題を、もう少し深いところで支えている前提がある。
私たちは、性を、その人の人格を判定する情報として読みすぎている。
何に欲情するのか。どんな経験があるのか。何をしたことがあるのか。どんなポルノを見たのか。どのくらい性欲があるのか。そうした情報を知った瞬間、私たちは相手の「本性」を見たような気分になりやすい。
もちろん、性的行動には倫理がある。同意のない行為、暴力、搾取、権力差の濫用、未成年への加害、撮影や共有の侵害は、明確に問題である。そこを曖昧にしてはいけない。
しかし、欲望や空想や経験のすべてを、その人の人格の全体と直結させると、性について語る場はすぐに裁判所になってしまう。
空想と行為は違う。欲望と同意は違う。経験の有無と成熟は違う。性欲の強さと道徳性は違う。自慰をすることと、他者を尊重できるかどうかは別の問題である。自慰をしないことと、身体を否定しているかどうかも別の問題である。
性を普通にするとは、この線を丁寧に引き直すことだ。
問題にすべきなのは、他者の権利や安全を侵害する行為である。本人の同意なく暴露される情報である。権力差を利用した圧力である。拒否を無視する態度である。
一方で、個人の身体感覚や自慰や空想や性的関心は、それだけで人格の全体を裁く材料にしない。もちろん、誰もがそれを聞く義務はない。受け入れる義務もない。だが、本人が必要な場で語ったとき、異常者のように扱わない。
これは、性の話題を軽くすることではない。
むしろ、重くしすぎないための倫理である。
性を人格の試験紙にすると、人は嘘をつく。黙る。相談しない。隠れて危険な情報に頼る。自分の身体や欲望を、誰にも見せられない恥として抱え込む。
性を普通にするとは、性をどうでもよいものにすることではない。
性に、その人のすべてを背負わせないことである。
必要なのは、明るい性ではなく、扱える性である。
ここで、第三の道が見えてくる。
古い道徳は、性を隠せと言った。
一部の解放の言説は、性を語れと言う。
しかし、私たちが本当に必要としているのは、たぶんそのどちらでもない。
必要なのは、性を扱えることだ。
扱えるとは、明るく話せるという意味ではない。冗談にできることでもない。自分をさらけ出すことでもない。そうではなく、場面に応じて言葉を選べること。必要な情報へたどり着けること。相談先を知っていること。相手の同意を確認できること。断れること。聞かないことができること。聞かれたくないことに答えないで済むこと。自分の身体に起きていることを、過剰な恐怖なしに理解できること。
たとえば、こんな社会である。
学校では、年齢に応じて身体、同意、避妊、性感染症、性的多様性、デジタル性被害、相談先を学べる。快楽についても、露骨な刺激や実演ではなく、身体の自己決定、心地よさと不快、同意、拒否、相互尊重の言葉として扱える。
医療では、性的な悩みを言い出しても、笑われたり雑に流されたりしない。痛み、勃起、射精、月経、閉経、避妊、性感染症、性欲の変化、性暴力の経験について、必要な範囲で尋ねられ、必要以上には詮索されない。
家庭では、子どもが性的な質問をしたとき、怒鳴られたり茶化されたりせず、年齢に合った答えをもらえる。同時に、親が子どもの性的プライバシーを必要以上に暴かない。
パートナー関係では、「したい」だけでなく「したくない」も言える。避妊を話せる。検査を話せる。痛みを話せる。相手の沈黙を同意とみなさない。
SNSでは、性的健康情報と成人向け娯楽が一緒くたに消されない。成人向け表現には適切な表示制御があり、教育・医療・支援情報にはアクセスしやすい導線がある。見たい人と見たくない人の選択が、できるだけ両方守られる。
これらは、派手な理想ではない。
地味で、実務的で、しかし深く自由に関わる条件である。
性を普通にするとは、性を特別扱いしないことではない。性には特別な配慮が必要である。身体、快楽、脆弱性、関係性、暴力、プライバシーが絡むからだ。
しかし、特別な配慮が必要であることと、特別な羞恥を強制することは違う。
性は、丁寧に扱うべきものだ。
だが、怯えながら扱うべきものではない。
「昨日自慰した」と言う必要はない。
最初の問いに戻ろう。
なぜ「昨日自慰した」と言えないのか。
この問いを追いかけてきた私たちは、最後に少し意外な場所へたどり着く。
理想は、誰もが「昨日自慰した」と言える社会ではない。
そんな社会は、たぶん少し疲れる。
理想は、「言えること」が正義になる社会でもない。性的経験を語れる人が成熟していて、語れない人が遅れている、ということでもない。性的に積極的な人が自由で、消極的な人が抑圧されている、ということでもない。
本当に必要なのは、言っても言わなくても、尊厳が揺らがない社会である。
「昨日自慰した」と言わなくていい。
しかし、言った瞬間に人格全体を裁かれない。
「自慰したことがない」と言ってもいい。
その瞬間に未熟だと決めつけられない。
性的欲望が強くてもいい。
他者の同意を破らない限り、それだけで危険人物にされない。
性的欲望が弱くてもいい。
それだけで冷たい、欠けている、不健康だとされない。
性について知りたい人は、知ることができる。
性について話したくない人は、話さなくてよい。
聞きたい人は、同意のある場で聞ける。
聞きたくない人は、聞かされない。
この当たり前のようで当たり前でない条件を整えること。それが、性を普通にするということだ。
タブーは、ただ悪ではない。タブーは境界をつくり、人を守る。しかし、境界が硬すぎると、人は助けにも、知識にも、自分の身体にも近づけなくなる。
だから、性の未来は、タブーを完全に壊す方向にはない。
タブーを、扉のある境界へ変える方向にある。
性を「公」にする必要はない。
性を「普通」にできるか。
その問いは、実はかなり静かな問いである。誰かを挑発するための問いではない。日常のなかで、必要な言葉が必要な人に届くようにするための問いである。
性を普通にするとは、性を軽く扱うことではない。
むしろ、重すぎる意味を少しずつ下ろしていくことだ。
性を、罪でも、病気でも、人格のすべてでも、商品でも、告白の義務でもないものとして扱うこと。身体と関係と快楽と安全をめぐる、人間の生活の一部として扱うこと。
そこまで来たとき、私たちはたぶん、こう言えるようになる。
性は特別である。
しかし、特別すぎなくていい。
それが、性の普通化のはじまりである。(了)
主要参考文献・参照資料
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Michel Foucault, Histoire de la sexualite I: La volonte de savoir, 1976(邦訳『性の歴史I 知への意志』)。
Sandra Petronio, Boundaries of Privacy: Dialectics of Disclosure, State University of New York Press, 2002.
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文部科学省「学習指導要領」および「学習指導要領解説」保健体育・性に関する指導関連資料。
日本性教育協会編『「若者の性」白書―第9回 青少年の性行動全国調査報告―』小学館、2025年。
