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なぜ「昨日、自慰をした」と言えないのか - 性的な情報だけが、日常会話から切り離される理由を深掘る

ラーメン食べた、は言える。自慰は言えない。

職場、学校、趣味の集まり、どこでもいい、なんとなしの雑談をするシーンを思い描いてほしい。

「昨日ラーメンを食べた」とは言える。

「最近、寝つきが悪い」とも言える。

「この枕、かなりいいよ」とも言える。

けれど、「こうやって自慰をするとはかどるよ」とは、なかなか言えない。

この落差は、考えてみるほど奇妙である。食事も睡眠も身体の欲求であり、自慰もまた身体の欲求にかかわる行為である。しかも性交と違って、自慰は原則として一人で完結する。他人の身体を必要としない。妊娠も起こらない。性感染症のリスクも、少なくとも一人で行うかぎりはほとんどない。同意、嫉妬、恋愛関係、家族関係、権力差といった、性交が抱えこむ大きな問題の多くを取り除くことができる。

それでも私たちは、自慰を語ることに強い抵抗を感じる。

もちろん、職場の昼休みに突然そんな話を始められたら困る。聞き手を本人の意思なく性的な文脈へ巻き込むのは、たしかに暴力的になりうる。だから「どこでも、誰にでも、性的な話をしてよい」という話ではない。

しかし問題は、そこで終わらない。私たちは、成人向けサイトを見てもいい。性教育の記事を読んでもいい。医師に相談してもいい。匿名掲示板や専用アカウントで性の悩みを語ってもいい。にもかかわらず、その話題が日常会話や一般的なSNSのタイムラインへ移動した瞬間、急に「それはここで言うことではない」という空気が立ち上がる。

性は、禁止されているのではない。

日常会話から切り離され、医療、教育、成人向けサイト、匿名コミュニティのような「それを扱ってよい文脈」だけへと振り分けられている。

これは「当たり前」の話だ。しかし、なぜそれが「当たり前」であると私たちは考えているのか、その問いを立てることこそが、現代の性タブーを考えるための入口となる。

行為は普通になった。発話はまだ普通ではない。

まず確認しておきたいのは、自慰そのものは、現代の医学や性科学では基本的に正常な性的行動として扱われているということだ。性教育や性的健康に関する公的・専門的な情報では、自慰は身体を知る手段であり、妊娠や性感染症のリスクを伴わない安全な性的行動として説明されることが多い。もちろん、生活を大きく損なうほど制御できない性行動は別の臨床的問題になりうる。しかしICD-11の強迫的性行動症の議論でも強調されているように、性的関心が高いことや、青年期に一般的に見られる自慰そのものを、ただちに病気とみなすわけではない。道徳的な罪悪感だけでも、診断の根拠にはならない。

つまり、少なくとも医学的には、自慰はかつてのような「有害な悪習」ではなくなっている。

行動の実態を見ても、それは珍しいものではない。日本性教育協会の「青少年の性行動全国調査」は、1974年からほぼ6年ごとに続けられてきた、日本の若者の性行動に関する貴重な長期調査である。第9回調査は2023年度に全国の中学生・高校生・大学生12,562人を対象に行われ、その分析をまとめた『「若者の性」白書』が2025年に刊行された。

そこで見えてくるのは、単純な「若者の性離れ」とは少し違う風景である。高校生の性交経験率は、2005年調査では男子26.8%、女子30.3%だったが、2023年調査では男子12.0%、女子14.8%まで低下している。一方で、自慰経験率は低下していない。男子では高水準を保ち、女子では長期的に上昇傾向が見られる。第9回調査についても、すべての学校段階・男女で自慰経験率が上昇した、という整理が示されている。

国際的に見ても、自慰は珍しい行動ではない。英国のNatsal調査では、16〜44歳の「過去1か月以内の自慰」経験が、1999〜2001年調査から2010〜2012年調査にかけて男女とも増加している。米国のNSSHBのような大規模調査でも、自慰は幅広い年齢層に見られる一般的な性行動として扱われる。ただし、国際比較や企業調査の数字は、調査方法や質問文の違いによって大きく揺れる。ここで大事なのは細かな順位ではなく、少なくとも自慰が例外的な少数行動ではない、という大枠である。

ここから「性交の代わりに自慰が増えた」と直線的に結論するのは早い。相関と因果は別である。性交経験率の低下には、恋愛関係の変化、経済状況、スマートフォン以後のコミュニケーション、性教育の充実、リスク意識の高まり、調査時期の社会状況など、複数の要因が絡む。自慰経験率の上昇も、実際の行動変化だけでなく、回答しやすさの変化を含んでいる可能性がある。

それでも、安全に言えることはある。若者から性的関心が丸ごと消えた、と考えるには無理がある。対人的な性行動は慎重化している一方で、自己完結型の性的行動は維持され、あるいは可視化されている。性はなくなったのではない。配置が変わっている。

そしてここで、もうひとつのねじれが見えてくる。

行為としての自慰は普通になりつつある。けれど、発話としての自慰は普通になっていない。

私たちは「してもよい」と「話してもよい」を、同じ速度で更新してこなかった。

この差は、かなり大切である。自慰に対する羞恥には、「すること」への羞恥と、「それを話すこと」への羞恥がある。前者は医学的情報や性教育の更新によって弱まりやすい。後者は、それだけでは消えない。なぜなら発話は、行為を自分の身体の内側から取り出し、他人の前に置くことだからだ。問題は自慰そのものではなく、自慰という情報が日常の文脈へ持ち込まれる瞬間に発生している。

性は「禁止」よりも、「場面」で管理されている。

性のタブーを考えるとき、私たちはつい「禁止」を思い浮かべる。性をしてはいけない。見てはいけない。話してはいけない。だが現代社会は、実際にはそこまで単純ではない。

ポルノは大量に流通している。セクシュアルウェルネスやフェムテックの商品も増えている。マッチングアプリは巨大な市場になった。性教育、避妊、性感染症、同意、性的多様性についての情報も、以前よりははるかに手に入りやすい。もし現代社会が性を徹底的に抑圧しているだけなら、このような市場や情報環境は説明しにくい。

むしろ現代社会は、性を許容しながら、流通する場所と相手と形式を細かく分ける。

成人向けコンテンツは成人向けサイトへ。性教育は学校や医療や啓発サイトへ。性的健康はクリニックや専門メディアへ。性的な雑談や体験談は匿名空間や専用アカウントへ。プラットフォーム規約も同じ方向を向いている。Xは成人向けコンテンツを条件付きで認めながら、ラベル付けや表示制御を求める。AppleのApp StoreやGoogle Playも、露骨な性的コンテンツや性的満足を主目的にするコンテンツを一般的な配信空間では厳しく制限し、年齢制限や教育・医療・芸術などの例外条件で扱いを分ける。

ここにあるのは、「性をなくす」管理ではない。

「性が流通してよい文脈を決める」管理である。

このように、性をなくすのではなく、年齢、場所、媒体、相手に応じて流通経路を分ける仕組みを、ここでは「性情報のゾーニング」と呼ぶ。

だから、現代の性タブーはこう言い換えられる。

自慰してはいけないのではない。

ポルノを見てはいけないのでもない。

性について知ってはいけないのでもない。

ただし、それを日常会話や一般SNSへ、そのまま持ち込むな。

この規範は、かなり強い。性の話題は、専用の文脈に入ったあとなら許される。けれど、食事の話題のように文脈を横断することは難しい。ラーメンの話は職場、旅行、SNS、家族、友人、ほとんどどこへでも移動できる。睡眠の話もそうだ。寝具の広告が出ても、さほど気まずくない。だが性的な広告がブラウザに出た瞬間、私たちは自分の閲覧履歴まで露出したように感じ、慌てて画面を切り替えたくなる。

性の情報は、行為の情報であると同時に、自分自身の情報として読まれる。

この差が、問題の核心に近い。

「三大欲求」という言葉は、少し雑すぎる。

そもそも、食欲・睡眠欲・性欲を「三大欲求」と並べる言い方も、少し疑ったほうがいい。これは日本ではよく使われるが、生理学の厳密な分類というより、通俗的な整理に近い。

食欲と睡眠欲は、個体の維持に直接関わる。食べなければ死ぬ。眠れなければ心身は破綻する。だから「お腹がすいた」「よく眠れない」は、相互ケアの言葉として自然に聞こえる。周囲も「何か食べなよ」「休んだほうがいいよ」と返しやすい。

性欲は違う。重要な欲望であることは間違いない。人間の生活に深く関わり、快楽、親密性、自己認識、生殖、権力、承認など多くの意味を帯びる。しかし個体の生命維持に必須のホメオスタシス的欲求ではない。外部刺激、想像、記憶、関係性、報酬系によって動く誘因動機付けの性格が強い。

だから食や睡眠の話は、身体のメンテナンスとして共有されやすい。自慰の話は、身体のメンテナンスであると同時に、意図的な快楽追求の話として聞こえてしまう。この差は、性を低く見るためではなく、三つの欲求を雑に同列化すると見えなくなる差である。

性はなぜ「人格情報」になるのか。

「家系ラーメンが好きです」と聞いても、私たちは相手の人格の核心を知ったとは思わない。せいぜい味の好み、生活圏、健康意識、食文化の趣味が少し見えるくらいである。

しかし「こういう性的空想で興奮します」と聞いたとき、印象はまるで違う。そこには、性的指向、恋愛観、身体感覚、過去の経験、欲望のかたち、場合によっては道徳性まで、相手の深い部分が露出したような感覚が生まれる。たとえ自慰という行為が一人で完結していても、その方法や対象や空想は、その人の内面を語る情報として受け取られてしまう。

なぜ性は、これほど「その人そのもの」に近い情報として扱われるのか。

ここで思い出されるのが、ミシェル・フーコーの『性の歴史』である。フーコーは近代社会を、単に性を沈黙させた社会としては見なかった。むしろ近代は、医学、精神医学、教育、宗教、法律、人口管理を通じて、性について膨大に語り、分類し、記録し、告白させる社会だった。性は隠されたのではない。人間の真実を読み解く鍵として、ますます重要なものにされた。

もちろん、フーコーだけで現在のすべてを説明することはできない。性規範には宗教、家族制度、法、ジェンダー、資本主義、メディア環境、プラットフォーム規約などが重なっている。さらに、性的情報が食や睡眠よりどれほど強く人格判断に結びつくのかについて、直接比較する実証研究はまだ十分ではない。だからここは、断定というより強い仮説として扱うべきだ。それでも、「性がその人の真実を語る」という近代的な感覚は、私たちの日常の反応のなかに、かなりしぶとく残っている。

だから自慰について話すことは、単なる行動報告に見えない。

「昨日ジョギングした」とは違う。

「昨日ラーメンを食べた」とも違う。

「昨日自慰した」は、自分の身体と快楽と欲望を他人の前に置く言葉になる。さらに「どう自慰するか」まで話すなら、そこには性的な想像力の開示が含まれる。聞き手は、知るつもりのなかった相手の深部を知ってしまったように感じる。話し手は、自分の輪郭を必要以上に渡してしまったように感じる。

アーヴィング・ゴフマンのスティグマ論を使えば、これは「情報管理」の問題として見える。人は他者からどう見られるかを管理し、望ましくない属性や誤解されやすい情報を隠したり、出す相手を選んだりする。ただし自慰の場合、少しややこしい。自慰経験そのものが、現代社会で全面的な逸脱とされているわけではない。むしろ多くの人が「まあ、あるだろう」と思っている。

それでも話さない。

つまりここで起きているのは、単純な逸脱の隠蔽ではない。私的情報の境界管理である。サンドラ・ペトロニオのコミュニケーション・プライバシー・マネジメント理論がいうように、人は自分に関する情報を「自分が所有するもの」と感じ、その開示範囲を相手・文脈・リスクに応じて調整する。性的情報は、そのなかでも境界線が厚い。いったん渡せば、相手もその情報の共同所有者になってしまうからである。

性的自己開示の研究では、開示が親密さや性的満足を高める場合がある一方で、拒絶、嘲笑、印象悪化への予測が開示を強く抑えることも示されている。恋人や医師との会話であれば、避妊、痛み、同意、身体の悩みといった実質的な利益がある。だが昼休みの雑談で自慰の具体的な方法を語ることには、その利益がほとんどない。あるのは、相手を気まずくさせるリスクと、自分の印象を変えてしまうリスクである。

性のタブーは、いまや「するな」ではなく、「誰に、どこで、どの粒度で渡すのか」という境界の技術になっている。

「聞かされる側」の自由という、もっとも合理的な反論。

ここまで読むと、こう反論したくなる人もいるだろう。

性的な話題が避けられるのは、聞き手を巻き込むからではないか。

これは正しい。かなり正しい。

公共空間で性的な話をすることには、食事や睡眠の話とは違うコストがある。相手がその話題を望んでいない場合、性的な発話は、聞き手を本人の意思なく性的コミュニケーションへ参加させてしまう。とくに相手との権力差がある場面、逃げにくい場面、年齢差がある場面、身体や欲望への言及が相手に向かう場面では、それは不快どころか加害になりうる。

だから、性の話を「もっとオープンに」と言うだけでは危うい。

性の解放は、公共空間を性的表現で満たすことではない。

むしろ重要なのは、話す自由と同じくらい、聞かされない自由、参加しない自由、拒否する自由を大きくすることだ。

ただし、この反論だけでは、やはり自慰の謎は解けきらない。なぜなら、聞き手が自分から検索する場合、性教育の記事を読む場合、匿名で相談する場合、性的情報を求める人同士が集まる場合でさえ、性情報はなお専用の文脈へ振り分けられやすいからである。問題は、ただ「他人を巻き込むな」だけではない。

性的な情報は、求める人に向けて出すときでさえ、通常の情報流通とは別のタグを付けられる。

そこには、身体の私秘化も関係している。排泄、月経、病気、分泌物、身体内部の感覚など、私たちは身体の生々しい情報をしばしば「TMI」、つまり聞きたくない私生活として扱う。ノーベルト・エリアスが『文明化の過程』で論じたように、近代社会は排泄、痰、裸、食卓での身体所作を、少しずつ他者の視線から遠ざけてきた。メアリー・ダグラスの有名な整理を借りれば、身体の境界を越えて出てくるものは、しばしば「あるべき場所を外れたもの」として不快を呼ぶ。

その意味で、性だけが特殊なのではない。身体の奥行きが露出する情報全般に、羞恥や嫌悪や気まずさが発生する。

けれど性には、そこへさらに別の層が重なる。性は身体情報であると同時に、欲望の情報であり、関係の情報であり、人格情報である。だから、同じ「身体の私秘化」でも、性的情報はとくに強い反応を呼びやすい。

これは、性を汚いものと決めつける話ではない。

むしろ性が、あまりに多くの意味を背負ってしまっている、という話である。

SNSは性の文脈を壊す。

現代の性情報のゾーニングを考えるうえで、SNSは避けて通れない。

SNSのタイムラインは、奇妙な場所である。家族、友人、同僚、取引先、学生時代の知人、趣味仲間、匿名のフォロワー、たまたま流れてきた他人が、同じ画面に集まる。本来なら相手ごとに話し方を変えていた文脈が、ひとつの場に折り畳まれる。

メディア研究では、これを「コンテクスト崩壊」と呼ぶ。ダナ・ボイドやアリス・マーヴィックらが論じたように、ネットワーク化された公共圏では、投稿者は実際に誰が見ているのかを完全には把握できず、「想像上の観客」に向けて発話することになる。そこでは、最も安全な相手にも、最も気まずい相手にも、同じ投稿が届きうる。

性的自己開示は、このコンテクスト崩壊と非常に相性が悪い。

「今日はカレーを食べた」は、たいていの観客に耐える。

「昨日自慰した」は、耐えない。

たとえ匿名やハンドルネームのアカウントであっても、日常の投稿、仕事の話、政治的意見、趣味、友人関係のなかに突然性的な自己開示が混ざると、空間の意味が変わってしまう。だから人はアカウントを分ける。裏垢、性垢、エロ垢、匿名相談、成人向けコミュニティ。そこでは性が語られている。かなり語られている。

しかし、その事実は「性が完全に解放された」ことを意味しない。

むしろ逆である。

性について語るために、人格を分け、アカウントを分け、文脈を分けなければならない。その分割の技術こそ、現代的なタブーの形である。

性情報は消されているのではない。きわめて活発に流通している。ただし、日常の自分から切り離された場所で。

私たちは性を語らないのではない。

性を語るための別人格を作っている。

若者は性から離れているのか、それとも別の形へ移しているのか。

ここで、最初の問いは若者論へ接続する。

近年、「若者の性離れ」という言葉が何度も語られてきた。実際、日本性教育協会の調査では、高校生の性交経験率は2005年のピークから大きく下がっている。国立社会保障・人口問題研究所の2021年の出生動向基本調査でも、18〜34歳の未婚者について、恋人と交際中の割合は男性21.1%、女性27.8%にとどまり、未婚者の3人に1人は交際を望んでいないと報告されている。

だが、これを「若者の性欲が弱くなった」とだけ読むと、見誤る。

性交は、欲望だけでは成立しない。他者を探す必要がある。関係を作る必要がある。断られる可能性がある。断る必要もある。妊娠、性感染症、同意、評判、金銭、時間、感情労働、コミュニケーション、別れのコストがある。恋愛関係そのものが、自由を広げることもあれば、自由を拘束することもある。

自慰は違う。低コストで、自己完結的で、相手を傷つけにくく、拒絶もされにくい。現代の若者が「他者との性」を避け、「自己完結型の性」を選びやすくなっているとしても、それは性欲の消滅ではなく、リスクとコストに対する合理的な調整かもしれない。

もちろん、ここでも因果を急いではいけない。性のタブーが強いから性交経験率が下がった、と断定する材料はない。逆に、性交経験率が下がったから性がタブーになった、とも言えない。社会経済的条件、学校文化、家庭環境、SNS、ポルノ、マッチングアプリ、ジェンダー規範、包括的性教育、コロナ禍前後の生活変化など、多くの要因が交差している。

それでも、ひとつの仮説は立てられる。

現代社会では、性行動の自由化と、性言説の自由化が同じ速度では進んでいない。

性をする自由は広がった。性について知る自由も広がった。だが、自分の性について普通に語る自由は、まだ狭い。とくに、その語りが日常の自分と結びつくとき、私たちは急に口を閉ざす。

このことは、性教育の問題ともつながる。WHOやUNESCOが整理する包括的性教育の研究では、質の高い性教育が性行動を早めたり増やしたりするというより、むしろ性的開始を遅らせ、避妊やコンドーム使用を高め、リスク行動を減らす方向に働くことが示されている。性について語れることは、性を煽ることと同じではない。

むしろ、語れないことがリスクを高める場合がある。

「それは嫌だ」と言えない。

「今日はしたくない」と言えない。

「避妊はどうするの」と聞けない。

「これは暴力だったのか」と相談できない。

「自分の身体はおかしいのか」と一人で悩む。

性の沈黙は、人を守ることもある。しかし同時に、人を孤立させることもある。

性を「公」にするのではなく、「普通」にする。

では、性はもっとオープンになればよいのか。

答えは、簡単ではない。

性をオープンにする、という言葉には危険がある。それはしばしば、公共空間を性的な表現で満たすこと、誰もが自分の性的経験を語ること、恥じらいを捨てること、性に積極的になること、と誤解される。しかし、性の自由とは、そんな単純な方向にはない。

性を普通にするとは、性をどこにでも持ち出すことではない。

性について知る自由を増やすこと。

必要なときに語る自由を増やすこと。

語らない自由を守ること。

聞かされない自由を守ること。

参加しない自由を守ること。

拒否する自由を強くすること。

自分の身体と欲望を、過剰な罪悪感なしに理解できるようにすること。

そして、他人の身体と欲望を、自分の都合で消費しないようにすること。

ここにあるのは、性の公共化ではない。性の普通化である。

普通化とは、すべてを日常会話に流し込むことではない。むしろ、性を扱う文脈を丁寧に設計し直すことだ。いまの社会は、性を日常空間から切り離すことで、ある程度の安全を作ってきた。年齢制限、注意表示、医療相談、性教育、匿名相談、成人向け表示は、どれも無意味な壁ではない。だがその仕組みは、ときに閉じすぎる。必要な情報へたどり着く道筋が見えにくくなり、相談したい人を、入口の手前で立ち止まらせてしまう。

必要なのは、性の話題を無差別に一般空間へ流し込むことではない。

アクセスしやすい経路を増やし、信頼できる情報の所在を明るくし、必要な人が必要な文脈で話せるようにすることだ。そして、そこで語られた言葉が、ただちに人格のすべてを暴露するものとして読まれない社会を作ることだ。

「昨日自慰した」と誰もが言う社会が理想なのではない。

言っても、言わなくても、その人の尊厳が大きく揺らがない社会。

性の話題が出たときに、笑いで潰すしかない、説教で封じるしかない、ポルノの文法で消費するしかない、という選択肢の狭さから抜け出す社会。

それが、性を普通にするということである。

藤子・F・不二雄の短編「気楽に殺ろうよ」は、食欲と性欲のタブーが逆転した世界を描いた。食事が恥ずかしいものになり、性が開放的に扱われる。その思考実験が鋭いのは、私たちの常識が自然ではなく、配置の問題だと教えてくれるからである。

私たちはいまも、性に関する情報を日常会話から切り離している。

問題は、文脈を分けることそのものではない。

その文脈に、誰がアクセスできるのか。

そこでは何が語れるのか。

そして、そこで性について語った人を、私たちはどんな目で見るのか。

「昨日自慰した」と言えない理由を考えることは、性の話だけをしているのではない。私たちが、身体を、欲望を、他人との距離を、そして自分自身の内面を、どのように社会の中へ置いているのかを考えることなのである。(了)

この記事は「われわれはいつ性を隠すようになったのか - 自慰タブーの歴史と、羞恥が身体に残るまで」に続きます。

主要参考文献・参照資料

藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」(1972年)。

日本性教育協会編『「若者の性」白書―第9回 青少年の性行動全国調査報告―』小学館、2025年。

日本性教育協会「第9回 青少年の性行動全国調査」調査紹介ページ。

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