遠い、ということ
——雨のつづいた週の、人の少ない日に
雨が続いて、集まりは十人ほどだった。堂師さまは、かえって嬉しそうだった。
顔ぶれは、たいてい同じである。畑に出られない日でも来る人と、雨の日だから来る人がいる。後ろの隅にひとり、いつも同じ場所に座る人がいて、この日もいた。
「今日は、遠い話をします。人が少ない日のほうが向いています」
祈りは御使いに運ばれ、流れを遡り、環に至る。一夜の祈りは、一歩にあたるという。届くまでに、幾年もの歩みがいる。
「これを神々の薄情と呼ぶ方がおられますが、それは、教えを知らないのだと思います」
遠さは、不在ではない。
「星には触れられません。それでも、夜の旅人は星で道を知りますね」
触れられるものだけを信じる者は、手の届くところより遠くへは行けない。
「触れられないものを頼りにするのは、こわいことです。……こわくないと言う方は、たぶん、まだ遠くへ行っておられない」
夜の海を渡る船人は、星で舵を取るのだそうだ。手も届かず、近づくこともできず、話しかけても返事のないものを、頼りにして進む。
「あれが信仰の形にいちばん近いのだと、わたしは思っております。……星に文句を言う船人は、おりませんね」
そして遠さは、信仰をたしかめる距離である。一日で届くものに、誠実はいらない。
「早さで買えないものを受け取ろうとしてくださっている。……そう読むのだと教わりました」
——ここで、後ろのほうの人が口を開いた。この人は、いつも隅に座っている。
五年祈っていますが、まだ何も、と言った。
堂師さまは、少し黙ってから答えた。
「祈りは、届く前から働いております」
え、という顔をした人が何人かいた。
「幾年も祈った方が、届くころには、もうその願いを必要としなくなっていることがあるのです。それでも応えは届きます。……歳月がその方を作りかえたこと、それが最初の応えなのだと教えは言います。加護は、二度目の応えです」
二度目まで、待たなければいけませんか、と隅の人が言った。
「待たなくてよいのだと思います。一度目は、もう来ているのですから」
五年前の自分と今の自分と、どちらが好きですか、と堂師さまは訊いた。
隅の人は、しばらく黙っていた。それから、今のほうです、と言った。
「では、もう半分は届いております」
祈りは、神を動かす手続きではない。受け取る側の器を作る歳月なのだ——そういう話なのだと受け止めた。
雨の音がしていた。
堂師さまは、そこで自分の話をした。
「わたしにも、長く祈っているものがあります。二十年ほどになりますか」
届きましたか、と誰かが訊いた。
「分かりません」
正直な答えだった。
「届いたのかもしれませんし、わたしが変わっただけかもしれません。……見分けがつかないのです。見分けがつかないのが、たぶん、いちばん正しいのでしょうね」
それから、教えの句の話になった。
求めよ、ただし急ぐな。
「そのあとに、もう一句つきます。……早く応えるものを、疑え」
この一句は、もとは名も残らぬ写字生が、写しの欄外に書きつけた落書きのようなものだったという。それを何代もあとの編み手が、本文へ引き上げた。
「書いた方の名は流れて、書かれた言葉だけが巡ったわけです」
読み方は、一つに定まっていない。急いた祈りを戒める句だ、という読みが多い。
「わたしもその読みで教わりました。ただ、教団は決めておりません」
早く応えるものを疑え、というのは、ずいぶん厳しい言い方である。隅の人が、そこを引っかかった。すぐ応えてくださる神さまのほうが、ありがたくないですか、と。
「ありがたいでしょうね」
堂師さまは、あっさり認めた。
「わたしも、そのほうがよいと思うことがあります。……ただ、早く来たものを、わたしたちはたいてい、そのぶん早く忘れます」
五年待ったものは、五年ぶんの重さで残る。二十年待ったものは、二十年ぶんで残る。
「遠さは、そういう仕組みなのだと思います。……好きになれとは、教えも言っておりません」
それから、雨戸のほうを見て、こう言った。
「環から注ぐ雨は、祈った畑と祈らぬ畑を分けない」
聖典の言葉である。よく祈った方の畑にだけ多く降る、ということはない。
「では、なぜ祈るのでしょうね」
しばらく待って、自分で答えた。
「贈りものとして受け取れる畑に、なるためなのだと思います」
同じ雨に当たって、片方は当たり前だと思い、片方は贈りものだと思う。畑の土が違うのではない。受け取る側が違うのである。
「今日の雨は、たぶん、いい雨です。……三日目ですけれど」
十人が笑った。少ない笑いだったが、堂には十分だった。
帰りぎわ、隅の人が戸口で立ち止まって、傘を持たずに来たことに気づいたようだった。堂師さまが自分のを渡していた。要りません、と隅の人が言い、堂師さまが何か言い返して、二人とも笑った。
何を言ったのかは、聞こえなかった。たぶん、今日の話のどこかだったのだと思う。受け取ることも務めである、あたりだろうか。
結局、隅の人は傘を持って帰った。