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山口直毅

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山口 直毅(やまぐち なおき、天保元年9月25日1830年11月10日) - 明治28年(1895年12月10日)は、幕末旗本、明治時代の官吏、漢詩人。。通称は五郎次郎、別名は直亮。官途は従五位下信濃守、駿河守。号は泉処、夬堂。

来歴

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槍奉行林内蔵頭元賓(帰山)の子として江戸に生まれた。母は武川讃岐守恒前の娘。山口勘兵衛直養(なおかい、家禄2500石)の養子となった。

昌平黌出身。学問吟味及第。安政3年(1856年)12月甲府の徽典館の学頭となった。翌年山口直養の養子となった。安政5年(1858年)学問所教授方となった。

万延元年(1860年)12月目付となる。文久2年(1862年)閏8月目付となり、9月徳川慶喜の上洛に従う。文久3年(1863年)講武所奉行並騎兵奉行兼帯。慶応元年(1865年)11月に江戸南町奉行外国奉行となり、慶応2年8月に歩兵奉行となった。慶応3年(1867年)6月、外国奉行兼陸軍奉行となった。慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦いでは将軍慶喜に付き従い、大阪城から開陽丸で江戸に帰還した。1月23日若年寄格外国事務総裁となるが、4月14日幕府瓦解により免職となった。

維新後は新政府の神祇局に勤務した。同じ幕臣だった向山黄村を盟主とする詩会「晩翠吟社」にて漢詩の詩作に勤しむ。明治28年に66歳で没した。著書に日記『山口直毅日簿』、詩集『江戸年中行事詩』がある。墓所は東京都文京区蓮光寺

逸話

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御蔵島に、島の恩人とされる栗本鋤雲(外国奉行としては山口の後輩)の石膏胸像が大切に安置されている。元々栗本の家にあった像を明治27年頃に鋤雲から貰った御蔵島島民の栗本俊吉(同姓ではあるが鋤雲の親族ではない)が、島に持ち帰った。現在日本各所にある栗本鋤雲の像は、これが元になっている。この石膏像を作らせたのは栗本鋤雲の弟子にあたる犬養毅だとされているが、実制作をしたのは美術学生の「山口直毅の養子」と伝わっている。ただしこの養子とされる人物の、経歴および実名は不詳である。


関連項目

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参考文献

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  • 『日本史大辞典』(講談社刊)