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松浦信寔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松浦 信寔(まつら のぶさだ、生没年不詳)は、幕末期の江戸幕府旗本目付南町奉行などを歴任し、幕末外交・江戸町政に関与した。通称は平吉郎、与次郎、八兵衛。受領名は越中守

概要

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松浦信好(松浦信桯の子)の次男として生まれ、のちに旗本松浦啓の養子となった。旗本として1000石を知行した[1]

嘉永4年(1851年)7月11日、部屋住の身分から召し出されて小姓組番士となる。文久3年(1863年)6月9日には小納戸、元治元年(1864年)5月24日に小姓に任ぜられた。慶應元年(1865年)には御目付衆となり、同年9月26日に目付に就任した[1][2]

慶應元年(1865年)10月、朝廷が安政条約を勅許する一方で兵庫開港の繰上げを認めない方針を示したことを受け、幕府は勅許写しを奉持させるため、目付であった松浦を大阪へ派遣した。松浦は10月7日、老中本荘宗秀・外国奉行山口直毅らとともに汽船で兵庫に赴き、英国軍艦上において英・米・蘭三国の外国公使と会見し、条約は勅許されたが兵庫開港繰上げは認められない旨を正式に通告した[3]

慶應3年(1867年)2月12日、家督を相続。慶應4年(1868年)3月5日には、旧幕府江戸町奉行黒川盛泰が留守居に転じたのに伴い南町奉行に任ぜられたが、同月18日、病を理由として同職を免ぜられた[4]。同年6月12日には通称を八兵衛と改めている[5]

また、明治期に編纂された『旧事諮問録』において、元小姓取坪内定益や御小姓・御目付を務めた松浦の談として、御三家をはじめとする諸大名が端午・重陽などの節句や歳暮に献上した葵紋付の時服は「納戸払い」として幕臣に下賜される慣例であったこと、ならびに当時拷問は極めて稀で、年に一度あるかないか程度であったことが記されており貴重な資料となっている[6]

脚注

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参考文献

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  • 『旗本三嶋政養日記 幕末維新期を生きた旗本みずからの記録』徳川氏旗本藤月三嶋氏四百年史刊行会、1987年。 
  • 『中央区年表 江戸時代篇 下』東京都中央区立京橋図書館、1987年。 
  • 『大武鑑 巻10』大洽社、1936年。 
  • 『徳川慶喜公伝 第三巻』竜門社、1918年。 
  • 「旧事諮問録」『日本医学史雑誌』第21巻第4号、日本医史学会、1975年。