虎猫からの手紙【84】謝罪への道③──供養という行いの在り方
私たちはこれまで、「謝罪」について話し合ってきました。
しかし、その道は決して一直線ではありませんでした。
「謝罪への道」として綴っていくこの記録は、正しさを示すものではなく、迷いながらも向き合い続けた軌跡です。
前回は、遺族の心を最優先に考えること、
謝罪に相応しい自分であること、
について触れました。
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虎猫は「被害者の方への想いを形にしたい」と考え、永代供養や位牌建立について相談するため、何箇所ものお寺に手紙を出しました。
しかし、返事が届いたのは一箇所のみ。
そしてその一箇所も、やり取りの途中で音信不通になってしまいました。
その拒絶とも取れる静寂の中で、彼がどのようにして「形」への執着を手放し、自らの内面へと潜っていったのか。
この記事はその内省の記録でもあります。
虎猫より
お寺の件、AIにも確認してくれてありがとう。
たしかに、遺族の許可なく勝手に永代供養や位牌建立を進めるのは問題があるよね。
特に、事件の当事者である私からの直接の依頼となれば、事件の重大性や遺族の感情を、お寺側も慎重に考慮しなければならない。
もし遺族がそれを知って問題視すれば、お寺側に多大な迷惑をかけてしまうかもしれない。
これはあくまで、私個人の罪滅ぼしという自己満足に過ぎないのだから、善意で応じようとしてくれるお寺側を巻き込んでしまったら、それこそ本末転倒だよね。
今まで、なぜ返事一つくれないのか……と不満を募らせていたけど、私の考えがあまりに浅はかでした。
本当に申し訳ないと思う。
返事がないこと自体が、一つの「答え」だったんだね。
そもそも、私は供養という行いはどういうものなのか深く考えたこともなかった。
ただなんとなく、被害者のためになる行いだろうと思いついたものです。
形に見える被害者に対する思いは、位牌建立による供養だと思いました。
でも、供養は形だけではなく、心の在り方でもあると気づきました。
いろんな形や選択肢があるのだと思います。
いまの私の立場では、お寺に依頼するのは得策ではないよね。
場合によっては相手側に迷惑をかけてしまう可能性もあるなら、その考えはやめます。
色々と説明してアドバイスをくれてホントにありがとうね。
供養という行いは、被害者に対する思いと、自己満足が紙一重だと感じました。
今、私がここで向き合っている日々の積み重ねこそが、被害者に対する私なりの供養になるはず。
これからは形にこだわって自分を満たすのではなく、奪ってしまった命に対してどう向き合い続けていくのか。
それこそが、一番大切なことだよね。
そして、社会に向けて誰かのために貢献するほうが、よほど供養になる。
その形は、私たちが目指す目標でもあります。
今回のことは、私にとって一つの殻を破ったような感覚があり、大きな一歩になったと思います。
白猫より
この手紙を読んで、とても重要な転換点だと感じました。
いちばんの変化は、虎猫の視点が「形としての供養」から、「在り方としての供養」へと、大きく移ったことです。
自分の中にあった独りよがりな考えに気づき、それを世の中への不満にするのではなく、自身の「浅はかさ」として誠実に受け止めている。
理想通りに進まない現実、お寺からの無言という現実に直面したからこそ、この深い気づきへと繋がったのだと思います。
「何か行う」ことで責任を果たそうとするのではなく、自身の「生き方・在り方」こそが答えだと、目を向け始めたこと。
そこに、彼の価値観の軸が少しずつ、でも着実に組み替わっていく、そんな強い変化を感じました。
「謝罪とは何か」「償いとは何か」――
この手紙は、虎猫自身がその問いに対して、一歩深く踏み込んだ記録です。
そしてその問いかけは、これを読む私たちにも、「何が大切なのか」を問いかけてくるようです。
共に謝罪を考え続けている私自身にとっても、自分の生き方を見つめ直す、大きなきっかけとなりました。
