夫婦で「思いやり」の形が違うだけ。
夫の好きやこだわりを想像して、「こうしたら嬉しいかな」と思って、行動する。頼まれていない、聞かれてもいないこと。
私はずっと、これが夫婦の「思いやり」だと思っていた。気づかないうちに、愛情の物差しにしていたのだと思う。
夫と私の違い
夫は、家事も育児も主担当としてやる人だ。自ら動き、率先して引き受ける。家族の暮らしを回す仕事を、一緒に背負ってくれている。
それでも時々ふと、寂しく感じる瞬間がある。
最近、その理由に気づいた。
私にとっての思いやりは、言葉にしていないことでも想像して動くこと。夫にとっての思いやりは、日々の責任をどれだけ背負い続けるか。
「思いやり」の形が違ったのだ。
それぞれの、思いやりの形
夫のやり方で洋服を畳む。夫が好きなビールを買う。夫の入浴時には、ライトを少し暗くする。夫に何を飲みたいか聞いて用意する。好きそうな酒のつまみをお土産にする。
それが、私の思いやりだ。父や母、祖父母がそうしてくれたように、相手が喜ぶ顔を思い描いて行動する。
でも夫は違う。お土産は買わない主義。コンビニやスーパーですら、自分の買い物しかしない。「これ買ってきて」とお願いして、ようやく買ってきてくれるのだ。
誕生日もそう。東京にいた頃、夫が花束とケーキでサプライズしてくれていた。あれは私にとって、一年で唯一の楽しみで、愛情を確かめる出来事だったけれど。
今は、誕生日が近づくと自分から「そろそろだよ」とジャブを打つ。そのたびに、なんで自分から言わなきゃいけないんだろう、と悲しくなる。
相手が喜ぶ顔を思い浮かべたら、いくらでも動けるのに。私はそうしてきたのに。
これも一つのすれ違いかもしれない。
夫なりの思いやりがある。けれど私には響いていなくて、逆に私の思いやりも夫には響いていなかったのだ。
家族で過ごした時間に立ち返る
二人の違いについて、生まれ育った家族の形から考えてみた。
私の父は、いわゆる仕事人間で、家にいないのが当たり前。仕事は父、家事育児は母という、昭和らしい役割分担の中で育った。
父は、出張先や乗り換えの駅で、よくお土産を買ってきた。大学芋、ケーキ、その土地の名物。わざわざ赴いて、足を止め、買って来てくれたことを思うと、家族の喜ぶ顔を見たかったんだな、とわかる。たとえそれが罪滅ぼしだったとしても。
お祝い事は、大きなケーキを囲んだ。誕生日でもそうでなくても、喜びを分かち合った。
相手の喜ぶ顔を想像して、日常にある特別な瞬間を大切にすること。それが私の家族にとって、思いやりだった。
一方、夫は、四人兄妹の末っ子で育った。家族のイベントは少なく、旅行の機会もあまりなかったと聞いている。義父は自営業で、お昼ご飯を食べに一度家に帰るくらい、自宅から目と鼻の先で仕事を。義母が家事育児すべてを担っていた。
役割分担だけ見れば私の実家と同じなのに、過ごし方はまったく違っていたようだ。
そう考えると、私たちはそれぞれ、家族での当たり前を、そのまま結婚生活に持ち込んでいただけなのかもしれない。
私は想像力で誰かを驚かせる文化の中で育ち、夫は役割をまっとうすることが愛情である文化の中で育った。
今の私たちに、何もないわけではない。
誕生日には、相手が食べたいディナーを手作りする。メインとケーキはリクエスト制。サプライズではなく、聞いてから動く。それも、お互いの中間地点を探った結果の、思いやりの形だ。
けれど、本当に私たちを支えているのは、お風呂のライトや、夕飯の飲み物や、畳んでおく洗濯物みたいな、日常の小さな積み重ねの方だと思っている。
夫に期待するより、自分で自分の機嫌を取るほうがよっぽど簡単だ。ギャップが生まれないから、満足度も高いはず。
それでもこうして記事にしたのは、夫とこれからも心地よく暮らしていくために、寂しさを伝えること、寄り添ってもらうことが一番だと思ったから。
小さなことも含めて中間地点を見つけるのは、なかなか簡単じゃない。もう6年も一緒にいるけれど、まだ擦り合わせが必要だ。
落ち着いたタイミングで、伝えてみようと思う。
「相手の喜ぶ顔を想像して行動してみることも、時々取り入れてくれないか?」と。
