③従来型道徳授業の強みがもたらす惜しさ
従来型の道徳授業は、子どもにとって分かりやすく、共感を育てやすいという強みをもっています。
しかし、その一方で「登場人物の視点に依拠しすぎる」ことから、いくつかの課題や惜しさが生まれています。
① 視点の限定性 —登場人物により過ぎてしまう―
従来型の道徳授業は、登場人物の気持ちや行動に寄り添うことを大切にします。これは共感を育てる点で大きな意義があります。
しかしその分、子どもたちの思考が「主人公の立場」に集中しやすくなります。
他の登場人物や第三者、さらには社会的な観点に目を向けようとすることは、教師が意識的に工夫しない限り、意識されにくくなるのです。
たとえば「友達との遊びの約束のために早く帰るか、困っている下級生を助けるかで迷う主人公」が登場する教材では、「主人公はどんな気持ちか?」「どんなことを考えたか?」と発問します。
そうすると子どもたちは、「どうしたらよいか迷ったと思う」「困っている下級生を助けたいと思ったと思う」「下級生だから助けないかもしれない」と答えます。これは共感を育てる点で大きな意義があります。
しかし、「何も知らずに約束の場所でずっと待っている友だちは、どんな気持ちだと思うか?」「下級生が困っているのに知らぬふりをして通り過ぎたとして、それを見た人はどう思うか?」などの登場人物以外からの視点は、教師の発問がない限り、なかなか出てこないでしょう。
登場人物の気持ちやその場の状況を深く考えようとすれば、人物の気持ちを想像する「共感する力」を育てることはできます。
しかし、登場人物の気持ちにより過ぎてしまうと、思考が主人公に固定されやすくなり、「物事を広い視野から考える」ことは難しくなってしまうのです。
② 「自分ならどうするか」という問いの限界
「自分ならどうするか」と問う活動(自我関与)は、子どもが自分の生活と結びつけて考えやすく、授業を自分事として受け止めるきっかけになります。
たとえば先ほどの例で、「自分だったら困っている下級生を助けますか?」と聞かれれば、多くの子どもが真剣に考え、「助けたい」「助けると思う」「下級生だから通り過ぎてしまうかもしれない…」と答えるでしょう。
しかし、その回答の理由の多くは、「自分は、そんな時は放っておけなかったな」「自分は関係ないと思って通り過ぎたことがあるな」と自分のこれまでの生活経験を想起して述べられることがほとんどでしょう。
子どもたちは、それまでの経験の範囲、それまでの自分の様子に依拠して考えを述べることになるのです。
こうした状態では、助け合いで成り立つ現実社会を考えること、人助けの大切さについて考えを深めること、社会的な広がりや価値の本質に迫る深い探究をすることは難しいと思われます。
つまり、自我関与は授業を自分事として考えるきっかけにはなるものの、「よりよく生きるための道徳的な課題」に深く迫るには限界があるのです。
③ 価値理解が「場面依存的」になりやすい
具体的な教材場面を通じて学ぶことで、子どもは価値を実感的に理解できます。これは従来型の大きな強みです。
しかし同時に、その価値が「その場面でのみ有効なもの」として受け取られてしまうことがあります。
たとえば、「良くないことをしている友達に対して、主人公が勇気を出して注意できた」という場面で学んだ子どもが、「でも、実際に自分がやるのは難しい…」と感じることがあるでしょう。
「どう思ったか」「どんな気持ちか」という活動で終わってしまうと、子どもたちは一時的に価値を理解しても、「なぜそうしたほうが良いのか」「注意しないとどんな結果になるのか」という「判断する理由」についての理解は浅いままになってしまいます。
そのため、「注意するのは大切だけど、自分にはできない…」と考えてしまい、道徳の時間に学んだことを自分の生活に活かす、日常生活に応用するという深い学びにはつながりにくいのです。
④ 発問構造の限定性 —教師の問いが一本道になりやすい—
従来型の授業は、多くの場合、「状況把握」「葛藤」「価値確認」「内省」などの機能をもった2~4の発問で構成されており、授業の流れが分かりやすいという良さがあります。
しかし、その発問は「登場人物の気持ち」や「あなたならどうする(自我関与)」に集中することが多く、授業は「心情理解(こんな考え、こんな気持ちだろう)→ 行動評価(それを、良いと思う・良くないと思う)→ 自分の生活への適用(自身の行動を振り返り、内省する)」という一本道になりやすくなります。
これは、話し合って得られる結論が見通せてしまうことにつながります。
そうすると子どもたちは、教師が想定する「正しい答え」を探そうとする方向に考えるようになり、子どもたちの発言は教師の意図する意見に誘導されがちなります。
こうした授業構造では、多様な角度から考える発問、価値の意味そのものを問う発問、価値を相対化して考える発問、複数の解決策を比較する発問は、どうしても不足してしまいがちになってしまいます。
そして、教師の問いが一本道に近い状態になることで、子どもたちの思いがけない発言や主体的な思考の広がりは生まれにくくなってしまうでしょう。
これでは、事象を多面的に捉えて、価値を比較・検討しながら考えるような学びはできなくなってしまいます。
授業の流れが分かりやすいことは、話し合った結論が見通しやすいことにもつながり、多面的な思考を促すこととは逆の方向、教師の意図した意見を出そうとする方向へと授業が流れてしまうことになるのです。
新しいタイプの授業の必要性
今日の道徳教育に必要なのは、従来型の良さを継承しつつ、子どもの思考を広げて価値を探究できる授業です。
従来型の道徳授業は、子どもの共感を育て、生活実感とつなげ、価値を実感的に理解させるという大きな良さをもっていました。教育史的にも、その役割は大変に重要でした。
しかし同時に、登場人物の視点に依拠しすぎることから、子どもの思考が狭まり、価値を広く探究し、生活全般に生かす学びにつながりにくいという惜しさを抱えてしまいます。
今日の道徳教育には、「心情理解」だけでなく、子どもが多面的・多角的に事象をとらえ、価値を比較・検討し、自分の生き方を考える力が求められています。
だからこそ、従来型の強みを土台としながらも、複数の立場や社会的な観点を取り入れ、価値を整理・考察・俯瞰して探究することを可能にする新しいタイプの授業が必要なのではないでしょうか。その方向性こそが、「考察探究型の道徳授業」と言えます。
