笑いと僕 第3話:靴
高校という小さな箱庭の頂点に君臨した僕を待っていたのは、あまりにも広大で、誰も僕のことなど見ていない大学という荒野だった。
入学式を終え、キャンパスへ。ほとんど受験勉強もしなかったのだが、それなりの、良くもなければ悪くもない東京の大学に滑り込めてしまった。都会のキャンパスというだけあって、行き交う学生たちは皆、小綺麗で、どこか醒めていた。
彼らの話題は単位取得に関するものが主で、誰一人として教室の空気を変えようなどと必死になっていなかったし、もちろんそれをされることも期待していないようだった。僕はそれでも、高校時代の貯金を切り崩すかのように、新しく出会った人たちに声をかけ、場を盛り上げ、乱し、再度人気を獲得しようとした。高校時代と同じように、口を開けば人は笑ってくれた。
だが、制服を着ていた頃とは何かが決定的に違っていた。
「あいつ、面白いよね」「でも、ちょっとヤバくない?」
そう言われて、終わり。当然、誰も僕を高校時代のようにカリスマとしては見上げない。ちょっと頭のおかしなやつとして僕のことを見る。どれだけ面白いことを言って場を沸かせても、女の子はすっと一歩引いた笑顔を浮かべ、隣の「ただ背が高くて無口なイケメン」の腕を掴んでどこかへ消えていく。男たちもキャンパスライフを共に快適に送れる、無難な人間同士でつるむ。
ウケる。だが、誰一人周りに人が集まらない。 笑いを取れば取るほど、僕の人間としての価値がただすり減っていくという感覚が、大学というまとまりのない空間ではより露骨に浮き彫りになった。そんな中でも過去のやり方にこだわり続ける僕は、例えるなら餌を渇望し、必死に回し車の中を走り続ける哀れなハムスターだった。
何より、僕自身の内側でも変化が起こっていた。 中学で一度プライドを砕かれ、必死に道化を演じて這い上がった。高校でもう一度、ゼロから笑いの帝国を築き上げた。でも僕は、今までのように人から認められるために人生で何度も同じ成功を繰り返さなきゃいけないのか?
想像するだけで果てしない徒労感だった。この先就職したり、新しいコミュニティに入るたびに「僕は面白い人間です」と服を脱いだり、大声で歌ったり、奇妙な動きを繰り返さなくてはいけないのか。笑いを取れるということ以外の人間的価値を持たなかった僕にとって、他の証明方法は持ち合わせていなかったが、それを続けることにひどく疲れてしまっている自分がいた。
その焦りと消耗の裏で、僕はお笑いという名の劇薬をさらに濃く摂取するようになっていた。 深夜番組の『ゴッドタン』や『ざっくりハイタッチ』を見漁り、劇団ひとりやおぎやはぎ、千原ジュニアのような脱力した天才たちに憧れた。くっきー。やとろサーモン久保田など、クレイジーな芸風にも痺れた。だが、画面の向こうのプロたちが緻密な計算と人間力の上で成立させているそれを、18歳の生半可な素人が日常に持ち込めばどうなるか。 ただの「危険人物」になるだけだ。
事件が起きたのは、入部した野球サークルでの新歓の飲み会だった。 どこかノリが合わないと感じつつも、舐められたくない一心だった僕は、その場の空気を一撃で破壊して主役の座を奪おうとした。座敷の向かいで、僕に対して露骨に冷たい視線を投げてきた女子の前に詰め寄り、全力で壁ドンをブチ込んでやったのだ。
常識を打ち破る、とびきりのボケのつもりだった。
だが、目の前の女子は笑わなかった。恐怖に顔を歪ませ、そのままボロボロと大粒の涙をこぼした。 次の瞬間、僕を中心に座敷中の人間がサーッと潮が引くように距離を取った。
誰からも「ハハハ」という警報音は鳴らない。代わりに返ってきたのは、「なんてことをするんだ」という周囲の驚愕と、女子からの張り詰めた悲鳴だけだった。
こんなおもしろい自分が受け入れられないはずがない。そんな肥大化した過信が、現実の倫理観までも麻痺させ始めていた。焦りのあまり、ついに女の子を泣かせるという、大学のコミュニティでは絶対に許されないことをしてしまった。
明確に追い出されたわけではない。だが、腫れ物に触るような空気に耐えられず、僕はサークルから逃げるようにフェードアウトした。半年も経つ頃にはなんとなく、講義に出る理由が分からなくなった。そして、行く気がないのにお金を両親に払わせるのが嫌だったから、一年でキッパリ大学を中退することを決めた。そう、僕は史上初、壁ドンをきっかけに大学を辞めたのだ。
そして、大学を捨て、とうとう本格的にお笑いの世界へ飛び込もうとしたあの日。 僕は、中学・高校時代をずっと共にしてきた二人の親友に、LINEでその決意を打ち明けた。
「俺、大学辞めてお笑い目指そうと思うわ。売れるまで、絶対に辞めない。」
あいつらなら応援してくれるはずだと思った。「お前ならいける」「あの海老反りを、TOKYOをもう一度見せてくれ」と、背中を押してくれる言葉が返ってくるものだと疑わなかった。
だが、その返答は予想していたものとは違うものだった。
『やめた方がいい』
なんと二人とも、僕を止めたのだった。
当時の僕は、猛烈な怒りと苛立ちを覚えた。高校であれだけの実績を残し、学校全体を揺らすほどの笑いを取ってきた自分を、なぜ一番近くにいたはずのこいつらが引き止めるのか。俺の才能を信じてくれないのか、と。
だが、すべてが終わり、泥水を啜った今になって、少し思うところがある。
彼らは一番近くで僕の剥き出しの姿を見てきたからこそ、僕という人間の「精神的な脆さ」や「打たれ弱さ」を、僕自身よりも正確に見抜いてくれていたのかもしれない。 道化を演じていなければ立っていられない僕の危うさを、笑い以外の他の事から露骨に目を背けた僕の弱さを彼らは知っていて、親友として引き止めようとしてくれていたのではないだろうか。あるいはただ、僕が別の世界に行くのが寂しかったのかもしれない。本心は分からない。今となっては何を言っても、ただの憶測に過ぎない。
しかし、当時の狂気に憑りつかれた僕には、そんな静止の声すら、ただの雑音にしか聞こえなかった。あらゆる言葉に反抗し、甘い言葉をかけてくれる人たちにすがるようになった。
そんな荒んだ日々のなかで、唯一の救いだったのが高瀬だった。 彼はその追い出された野球サークルでできたお笑い好きの友人だ。高瀬とだけは好きなお笑いの波長が完璧に合い、各々が面白いと思っている芸人について熱狂的に語り合えた。
特に二人で心酔していたのが、キャッチャーミットというコンビだった。 新宿の地下深くにある劇場「バティオス」へ、彼らの漫才を高瀬と見に行った。 パイプ椅子がぎっしり詰まった薄暗い地下の劇場。マイクの前に立ったキャッチャーミットは他の芸人達と比べ明らかなスター性を放っていた。飄々と、社会を嘲笑うかのような漫才はロックであり、僕達を痺れさせた。
終演後、冷たい夜風が吹き抜ける劇場の外で、僕と高瀬は出待ちをした。ボサボサの腰まで伸びた長髪を揺らしながら出てきたツッコミの友利さんを見つけ、心臓を早鐘のように打ちながら駆け寄った。
「あの、僕、お笑い始めるんです…。」
衝動のままに口から飛び出した言葉。横から高瀬が、少し誇らしげに口を挟んだ。 「そうなんすよ、こいつ、そのために大学辞めちゃったんすよ」
友利さんは煙草を指に挟んだまま、漫才そのままのひょうきんなトーンでぼそりと言った。
「……あら! もったいない」
さらに高瀬が調子に乗って畳み掛ける。 「こいつ、めっちゃ頭いい高校だったんすよ」
友利さんは煙草の煙を吐き出しながら、大きな目で僕を抉るように見て言った。
「そんな勉強できるのに自分ー。わしゃ足し算が分からんかったさかいに芸人なったんじゃ」
なぜか、その言葉に胸の奥を鋭い刃物でえぐられた感覚がした。辞めとけ、今なら引き返せるぞと言われた気がした。 大好きな芸人からの熱い激励を期待していた僕に、その言葉はあまりにもズシリと響いた。今考えれば、彼の芸風そのままのなんてことはない発言であるが、本物のお笑いの世界で生きている人からの軽い洗礼のジャブは、19歳の僕にとってはあまりにも重い一撃であった。
だが、引き返すことはできない。もう退路は断っていたから。
新宿の街で見つけた「一度ライブを見れば受けられる」という老舗芸能事務所のオーディションに、僕は単身で乗り込んだ。
会場は、パイプ椅子が無機質に並ぶ広いホール。 周囲を見渡せば、ピリピリとした殺気を放つ20代中盤から後半あたりの芸人志望たちが、壁際でブツブツとネタを呟いている。19歳の僕にとってそれはある種、異様な光景だった。ライバル同士、お互いのネタには基本的に誰一人として笑わない。普通のボケなどは何一つとして通用しない、鉛のように重い空気。 前の組が次々と舞台に上がっては、静まり返った客席を前に滑り散らかして降りてくる。
僕は道に迷ってしまいギリギリのエントリーとなったため、出順はトリの一個前だった。喉から手が出るような極度の緊張で視界が狭まり、心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと鳴り響いていた。
「次の方、どうぞー」
スタッフの声に押されるようにして、僕は舞台へ飛び出した。 その瞬間。
ドッ!!
客席から、突如として大きな笑いが沸き起こった。
(……え? なんだ? まだ何も喋ってないのに…)
呆然と立ち尽くす僕の背後から、舞台袖のスタッフが鬼の形相で何かを言っている。
「靴! 靴脱いで!!」
その瞬間、すべてを察した。最初の説明で「舞台には絶対に靴を脱いで上がってください」と強く言われていたのを、緊張のあまり完全に失念していたのだ。靴を履いたまま、神聖な板の上に土足で上がり込んだ僕の間抜けな姿に、客席が湧いていただけだった。
「笑わせた」のではなく「ただの失敗で笑われた」だけだった。言わば、その場のしきたりすら知らない未熟者への嘲笑だった。
顔から火が出るほど恥ずかしい思いで靴を脱ぎ捨て、マイクの前に立つ。 僕が用意していたのは、付け焼刃で考えた「一人漫才」というものだった。
「……僕は友達がいないので、一人で漫才をします」
自分でボケて、自分でツッコミを入れる一人二役。 さっきの笑いは完全に消え去り、客席に座る作家や他の芸人の視線は、僕を見極めるものへと変わっていた。だが基礎も何もない、付け焼刃のネタ。彼らの表情に浮かんでいたのは、「痛い子供がなんか必死に頑張ってるな」という、憐れみ混じりの生ぬるい目線だった。
焦れば焦るほど、声は上ずり、小さくなっていく。 そして、ネタの最後に用意していた渾身のオチを口にした。
「……飼い犬は、自分で食べてあげる。それが愛なのかもしれません」
静寂。 あまりにも素っ頓狂な台詞に、パラパラとした気まずい失笑だけが、広いホールに響いた。
(終わった…。)
背中にはびっしょりと汗をかき、逃げるように舞台を降りた。 穴があったら入りたいという言葉が生ぬるいほど、屈辱と恥ずかしさで視界が歪んでいた。
トボトボと劇場の出口へ向かって歩いていると、不意に後ろから、誰かに声をかけられた。
「あれ…」
振り返ると、そこに立っていたのは高校の一個上の庄司先輩(仮名)だった。 高校時代、「あの人、お笑いやるらしいよ」と噂になっていた人。聡明な、それでいて少し頑固そうな、独特な雰囲気を纏ったその先輩がまさか同じオーディションの会場にいるなんて、思ってもみなかった。SNS上でのつながりがあり、お互いを認知していたのだ。
「…じゃあ、せっかく会ったことだし、飯でも食いに行こうか」
慣れない一人舞台に放心状態の高校の後輩を気遣うように、先輩は近くのゴーゴーカレーに連れて行ってくれた。 銀皿に盛られた黒いカレーを前に、惨めさで縮こまっている僕の話を、先輩は穏やかに聞いてくれた。僕は同郷の人に出会ったことで、先ほどの舞台での惨状は何のその、だんだんと楽しくなってきてしまった。自分の笑いに関する持論、はたまた松本人志の凄さについて、一方的に熱弁を振るった。
庄司先輩は銀のスプーンを動かしながら、「ふーん、なるほどね」と一つ大人な相槌を打っていた。 そして、僕は靴を脱がずに舞台に上がってしまい、意図せずして笑いを巻き起こしたことも話した。
「あぁ、だからウケてたのか…。」
続けて庄司先輩は、耳を疑うようなことを平然と言ってのけた。
「それやった先輩、前に死ぬほど殴られてたよ。」
地下お笑いの世界の、不条理で過酷な現実だった。 僕の入ろうとしている世界はそれほどまでに厳しく、バイオレンスな世界なのか。みぞおちの辺りがキュッと冷たくなった。別れ際、僕は必死に虚勢を張るように言った。
「絶対売れましょうよ!俺と先輩で、いつか冠番組持ちましょう!」
先輩はどこか冷めた、しかし優しい笑顔を浮かべて、一言だけ返した。
「……そうだね」
庄司先輩は今、まさにその老舗芸能事務所に所属し、徐々に日の目を浴び始めている。かなり再生の回っている若手大喜利のライブに固定で出演しているし、超人気YouTuberのチャンネルにも聡明さや趣味のクイズを活かして定期的に登用されている。
あの日のゴーゴーカレーのテーブルを挟んで、僕たちの道は既に決定的に分かれていたのだろう。 お笑いの世界を肌で感じながら本当に入り込んでいった人間と、過去の栄光だけを勲章に口先だけで怪物の影に怯えているだけの、ただの青二才にと。
次回:最終話 DREAMER
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