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音楽四季暦05|春にして君を離れ

25ans Culture Club
「クラシック四季暦」 
第5回 春にして君を離れ

Mai Takano | Text
first published in 2024

忘れられない、春の香りがある。

その家は、海沿いの隣町にあった。そこは全体が岬のようになっていて、庭先から棕櫚の木や松林をくぐって下っていくと浜辺に出ることができる。家の人たちは、ごくたまにしか別荘にはやってこない。時折、雇われた人が、庭の木々を手入れするのを見たことがあった。

中学1年生の春、そこに移り住んできた老婦人から、ピアノを習うことになった。

祖母よりもずっと年上の先生の、やさしい微笑みや、ゆったりした話しぶりが好きだった。その家で過ごすと、物事を善意でのみ受け取るような彼女の性格もあって、いつのまにか心が解きほぐされていく。音楽の才がなかった私は、レッスンのあとご馳走になった紅茶とお菓子や、皿の模様や、時折かすかに漂ってくる香りに夢中だった。

その香りは、途切れ途切れに、意識の合間をかいくぐってくる。ある日、おそるおそる聞いてみた。
「これはなんの香りですか?」
「なんでもない、部屋のための香りよ。お客様がくる少し前に、ソファやカーテンの隅に、ちょんちょんとつけておくの」

聞いたことのない、香水専門店の製品だった。ヴァンドーム広場の角の店で買うのが決まりで、結婚してからずっと変わっていないという。自分のための香水は結婚したとき、そして夫が死んだときに変わりましたけどね。彼女はさりげなく言った。

香りは、自分の存在証明だ。これだという香りを見つけたのに、あえて変えたのはなぜか。そのくせ、部屋のための香りだけ変えなかったのはなぜか。穏やかな人だけに、その内面はとても推し量れなかった。しかし、幼かった私にも、不躾に尋ねていいものではないとわかっていた。

その後も先生からは、たくさんのことを教わった。書斎から持ってきてくれた本は、すべて私の素養と思考の源になった。打ち解けてから、この家に一人でさびしくないの、と聞いたことがある。すると先生は、窓外の海を見ながら言った。

「孤独は人を自由にさせるし、自由は人を強くさせるのよ」

ふっと一点を見つめる柔和な眼差しと、香りが重なって見えた。


故郷の町に戻ってから、私は時々、あの午後の海を思い出す。

春にして君を離れ。教えてくれたアガサ・クリスティの小説のように、複雑な結婚生活を送った人だったと知ったのは、大人になってからのことだった。それでもあの日、私はたしかに、人生の知らない一面を感じていた。

永遠に旅立ってしまった彼女を思い出すたび、今もあの香りが、鮮やかに立ちのぼる。




※本稿は、『25ans』2024年月号に掲載された「こころに刻む四季の物語」に加筆・修正したものです。

(2024/3/28初出、2026/5/31加筆修正)

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高野麻衣 読んでいただきありがとうございます。新しい「物語」のため、大切にします。