オシャレに疲れたのではなく、自己表現に疲れてしまう理由
オシャレには、終わりがない。
もっと似合う服があるかもしれない。今の流行に合っているかもしれない。年齢や立場にふさわしい格好が、ほかにあるかもしれない。
オシャレだと思われたいと願う限り、服装は終わりのない更新競争になる。
ファッションが好きで、その試行錯誤自体を楽しめるなら、それでいい。服を選ぶ時間も、新しいものを探すことも、自分を表現することも、すべてが趣味になる。
でも、そこまで強い関心がない人まで、その競争に参加し続ける必要があるのだろうか。
清潔感とTPOだけでは、足りないのか
服装に無頓着になりたいわけではない。
清潔感は保ちたいし、TPOを逸脱した格好をしたいわけでもない。その場に違和感なくなじみ、相手に不快感を与えない程度の配慮はしたいと思う。
ただ、そこから先まで、毎回考え続けることには疲れてしまう。
今日は何を着るのか。この服は自分に似合っているのか。周囲からどう見えるのか。少し古く見えないか。年齢や立場に合っているのか。
服装には明確な正解がない。自分が好きな服と、自分に似合う服と、周囲から好印象を持たれる服が一致するとも限らない。
その正解のない問題を、毎朝解き続けることになる。
だから、向上し続けるのではなく、維持するという選択があってもいいのではないかと思う。
気温とTPOごとに、決まった服を持つ
毎日の服装を、自己表現ではなく生活の仕組みとして扱う。
気温とTPOに応じて、いくつかのパターンを持つ。その条件に当てはまる服を着たら、それで終わりにする。
仕事の日、休日、少し改まった場。暑い日、寒い日、その中間。それぞれに自分なりの定番があれば、毎日ゼロから選ぶ必要はない。
スティーブ・ジョブズの服装がよく例に挙げられるように、決まったものを着ることは、日々の意思決定を減らす方法でもある。
ただ、私が求めているのは、単なる効率化だけではない。
服装を通じて、毎日違う自分を説明し直すことから降りたいのだと思う。
自己表現の舞台から降りたい
現代では、服装は単に身体を覆うものではない。
何を着るかによって、趣味、感性、価値観、職業観、生活状態、自己管理能力まで読み取られる。本人が何かを表現したつもりがなくても、周囲はそこに意味を見つける。
無難な服を着れば、無難な人だと思われるかもしれない。流行から距離を置けば、保守的だと思われるかもしれない。服に力を入れなければ、自分への関心が薄いと受け取られることもある。
服装から何も表現しないことは、なかなか許されない。
それなら、毎日異なる表現を考えるのではなく、ある程度固定された服装そのものを、自分の意思表示にしてもいいのではないか。
私はその場にはなじむ。相手への最低限の配慮もする。
でも、服装によって評価を上げる競争には参加しない。流行に合わせて、自分を更新し続けることもしない。
自分で選んだ制服のようなものを持ち、それを静かに着続ける。
それは「どうでもいい」という意思表示ではない。
服装を通じて、毎日自分を説明する必要はない、という意思表示である。
何もしないことまで、自己表現になる社会
この感覚は、ファッションだけの話ではないのかもしれない。
今は、あらゆるものが自己表現として解釈される。
何を仕事にするか。何を好きだと言うか。休日をどう過ごすか。どこへ行き、何を買い、何を発信するか。
私はSNSをやっていない。けれど、SNSをやっていないという選択さえ、何らかの思想や価値観の表現として受け取られることがある。
発信することにも意味が付く。発信しないことにも意味が付く。
何を選んでも、何も選ばなくても、その人らしさとして解釈される。
自己表現の機会が増えたことは、多くの人にとって自由の拡大だったはずだ。以前なら表に出せなかった趣味や価値観を発信し、近い感覚を持つ人とつながれるようになった。
一方で、自己表現をそれほど望まない人まで、受動的に競争へ参加させられるようになった。
自分を見せたい人だけが舞台に立つのではない。何も表現したくない人まで、常に解釈の対象に置かれる。
この環境には、少し息苦しさがある。
表現しない自由は、どこにあるのだろう
もっと昔なら、自己表現の機会そのものが今より少なかったのだと思う。
日常の選択が、多くの人の目に触れることも少なかった。何を着ているか、何をしているか、何を好きかが、常に他人へ提示されるわけではなかった。
その環境では、服装も今ほど強く「その人らしさ」を背負わされていなかったのかもしれない。
選択肢が増えたことで、自由は増えた。
しかし同時に、選んだものすべてに意味を付けられるようになった。
何を選ぶかだけでなく、なぜそれを選んだのかまで説明を求められる。表現したくないという気持ちさえ、一つの思想として回収される。
自己表現する自由は広がったのに、自己表現しない自由は、むしろ狭くなっているのかもしれない。
オシャレを諦めるのではなく、関係を決め直す
私は、オシャレそのものを否定したいわけではない。
好きな服を見つけたときにはうれしいし、自分に似合う服を着ることには心地よさもある。
ただ、それを終わりのない競争にはしたくない。
清潔感を保ち、TPOに合わせ、その場になじむ。そのうえで、気温や場面ごとに決めた服を着る。
そこから先の評価は、追いかけない。
自己表現を完全にやめることは、おそらくできない。何をしても、しなくても、人はそこに意味を見つけるからだ。
それでも、自己表現の頻度と強度を、自分の側から下げることはできる。
毎日、新しい自分を提出しなくてもいい。
オシャレを諦めるのではなく、服との関係を自分で決め直す。
私にとってのエスケープは、そういうものなのだと思う。
【この記事が興味深かった方は、以下記事もおすすめです】
<おすすめ記事①>
服や小物を選ぶことが、いつから「自分がその場にふさわしいか」の審査になったのか。買い物の側から考えたい方はこちら。
<おすすめ記事②>
自己表現しない自由が気になった方は、「好き」さえ外に見せなくていいというファンのあり方もぜひ。
<おすすめ記事③>
選択も沈黙も解釈される息苦しさは、SNSの開放性とどこでつながるのか。もう一段広げて考えています。
#毎日note #自己理解 #生き方 #考え方 #心理 #人生 #自己成長 #ライフスタイル #ファッション #自己表現 #消費者行動 #価値観 #SNS #考察 #社会考察 #現代社会 #社会 #ビジネス #思考 #日常
