SNSは誰にでも開かれている。なのに、なぜこんなに居心地が悪いのか
SNSが苦手である。
そう言うと、他人への関心が薄い、コミュニケーションが得意ではない、あるいは新しい技術に馴染めない、といった個人的な性格の問題として受け取られるかもしれない。
けれど、自分が感じている違和感を考えていくと、それは単なる好き嫌いではないように思う。
SNSは人をつなぐ、非常に開かれた場所である。しかし、その開放性は、一人の人間にとって強い閉塞感を生むことがある。
リアルな知人の「見せたい自分」を見る違和感
私は、一人ひとりと個別に接することは比較的得意だが、集団の中で人と関わることはあまり得意ではない。
一対一の関係には、その相手と自分の間だけで成立する文脈がある。話し方、表情、沈黙、その場でしか見せない弱さや冗談。相手を、関係性の中で少しずつ知っていくことができる。
一方、SNSで発信されるのは、不特定多数に向けて編集されたその人の姿である。
そこには、見せたい自分、表現したい自分、こう見られたいという意思が含まれる。投稿は必ずしも嘘ではない。しかし、無作為に切り取られた日常でもない。
普段、自分が接している相手とは異なる強さ、明るさ、華やかさ、思想、社交性が前面に出ることもある。
人には複数の側面がある。それ自体は当然のことだと思う。それでも、自分が関係の中で思い描いていた相手と、不特定多数へ向けて自己プロデュースされた相手との間に差があると、その両方をどう受け止めればよいのか分からなくなる。
芸能人やアーティストの自己プロデュースは、一つの作品として見ることができる。最初から現実の本人を知っているわけではないから、演出された人格との距離を保ちやすい。
しかし、日常で関わる人の場合は違う。
SNS上の姿を知ることで、現実の関係まで、以前と同じ素朴さでは見られなくなることがある。
複数人の非日常が、「普通の日常」に見えてくる
一人の人生だけを見れば、旅行、昇進、結婚、豪華な食事、華やかな交流といった出来事は、毎日起きるものではない。
大部分の日々は、もっと平凡である。
しかしSNSでは、複数人の特別な瞬間だけが一つの画面に集められる。
ある人の旅行の次に、別の人の昇進が流れ、その次に誰かの結婚式や豪華な会食が表示される。個々に見れば断続的な非日常であるはずなのに、それが毎日連続することで、世の中の標準的な生活のように見えてくる。
比較対象は、特定の一人ではない。
多数の人から切り取られた「見せる価値のある部分」だけを合成した、現実には存在しない人物である。
私たちは、その誰も勝てない架空の標準と、自分の日常を比べることになる。
SNSは、自分の幸せを自分の尺度で感じる自由を奪う
自分一人でいれば、何もない休日に読書をしたことを幸せだと思える。
公園を歩き、季節を感じるだけでも、十分に満たされることがある。
本来、誰かが旅行をしていても、豪華な食事をしていても、その幸福によって自分の読書や散歩の価値が損なわれるわけではない。幸福は必ずしも同じ尺度で測るものではないからだ。
けれど、SNSはそれらを同じ画面の上に並べる。
しかも比較相手は、広告の中の知らない人物ではなく、友人、同僚、昔の知人など、現実でつながっている人たちである。
そのとき、自分の一日まで評価の対象になったような感覚が生まれる。
もっと有意義に過ごすべきだったのではないか。自分の休日は地味なのではないか。何もしていないと思われるのではないか。
実際には、誰も自分の休日を採点していない。それでも、他者の「見せる価値がある生活」を繰り返し見ることで、疑似的な他者評価が自分の内面に発生する。
自分の時間やお金をどう使うかは、本来自由である。
しかしSNSは、自分の生活を自分の内側から経験するだけでなく、他人の目を通して外側から評価する視点を持ち込む。
SNSが奪うのは、幸福そのものではない。
自分の幸せを、自分の尺度だけで感じる自由なのかもしれない。
見るだけでも、中立ではいられない
自ら発信せず、見るだけでSNSに参加することもできる。
しかし、パッシブな参加であっても、負の側面から完全に逃れられるわけではない。
他人の生活を見ても、私は個人的にはあまりポジティブな感情を持てない。刺激や励みになるというより、知らなくてもよかった情報が自分の中に入り込み、静かに完結していた感情が相対化されることの方が多い。
また、閲覧する相手を意識的に選ぼうとすると、別の問題が生まれる。
誰を見るのか。誰を見ないのか。誰をフォローし、誰をミュートするのか。
本来は精神衛生のための調整であっても、現実の人間関係と結びついた瞬間、それは相手を選別する行為のように感じられる。
やっていないなら、誰ともつながっていないと言える。
しかし、やっている以上は、なぜこの人とはつながり、あの人とはつながらないのかという意味が発生する。
その説明や摩擦を避けるために、結局は「SNSをやっているなら、知人とはつながる」という方向へ流れていく。
カスタマイズできる自由があるようで、その自由を使うたびに、人間関係上の判断を迫られる。
SNSは開かれている。しかし、その開放性の中で、個人は自由になるとは限らない。
SNSは、人間関係を維持する社会インフラになった
それでも、SNSから離れれば問題が解決するわけではない。
若い世代にとって、SNSでつながっていることは、個別のメッセージアプリで連絡先を知っていること以上の意味を持ちつつある。中高年でも、Facebook上のつながりを重要な人間関係として扱う場合がある。
SNS上では、投稿を見るだけで近況が分かる。いいねを押せば、自分の存在を軽く示すことができる。コメントをきっかけに会話も始められる。
直接連絡を取らなくても、関係を完全には途切れさせずに済む。
これは、人間関係を維持するコストを大きく下げる仕組みである。
一方、SNSを持たない人が同じ関係を維持しようとすると、一人ずつ能動的に連絡しなければならない。
何をきっかけに連絡するか。突然送って不自然ではないか。相手の負担にならないか。返信を求めているように見えないか。
SNS上のリアクションならほとんど意味を持たない接触にも、個別連絡では理由や意図が付与される。
SNSを使わない人は、同じ関係を維持するために、時間だけでなく、心理的にも高いコストを支払うことになる。
旧来的な接点が減るほど、退出は孤立につながる
かつては、用事がなくても人に会う場所が、今より多く存在していたのかもしれない。
学校、職場、近所、地域の集まり、行きつけの店。そこで偶然顔を合わせ、短い会話を交わし、関係が細く続いていく。
しかし現在では、そうしたリアルな接点が少なくなり、その役割の一部をSNSが代替している。
SNSから距離を取ることは、自己演出や比較から解放されることである一方、偶然の接触からも離れることを意味する。
参加すれば、比較や情報過多によって消耗する。
距離を取れば、精神的な静けさは得られるが、社会的な接点が細くなり、孤立するリスクが高まる。
「嫌なら見なければいい」というほど、単純な話ではない。
自分にとって望ましくない形へ人間関係の基盤が移動し、その場所に参加しない自由を選ぶほど、他者との接点が減っていく。
私たちは、そのトレードオフの中に生かされている。
適切な距離を取ることすら、個人に委ねられている
さらに、SNSを運営する企業には、ユーザーがサービスを頻繁に開き、長く滞在し、多く反応するほど収益が増えやすいという経済合理性がある。
利用者が穏やかに満足してアプリを閉じることよりも、次の投稿を見たくなり、通知を確認し、再び戻ってくる状態の方が、事業上は望ましい。
だから、フィード、通知、反応数、次々に更新されるコンテンツなど、ユーザーの行動を継続させるための設計が積み重ねられる。
一方、個人にとって望ましいのは、必要なときだけ使い、十分だと思ったら離れ、自分の尺度で生活に満足できることかもしれない。
企業の収益にとって望ましい行動と、個人の精神衛生にとって望ましい行動は、必ずしも一致しない。
その環境の中で、適切な距離感を作る責任は個人に委ねられている。
見すぎないようにする。通知を切る。見る相手を選ぶ。利用時間を制限する。
しかし、それは単なる習慣改善ではない。
行動を継続させるために設計された環境に、疲れや孤独を抱える一個人が逆らい続けるということである。
しかもSNSは、切り離しても生活に困らない娯楽ではなく、人間関係を維持するインフラにもなっている。
距離を取れば孤立し、近づけば消耗する。その中間に留まろうとしても、企業の設計によって再び利用へ引き戻される。
これを、個人の自制心だけの問題として扱うことには無理がある。
開かれた場所が生む、現代の閉塞感
SNSには、人をつなぐ価値がある。
遠くに住む人の近況を知ることができ、新しい人や情報に出会い、軽い接触によって関係を維持することができる。
だからこそ、簡単には退出できない。
しかしその同じ場所が、他者の自己プロデュースを日常へ流し込み、自分の幸福を比較可能にし、生活を他人の目で評価する視点を持ち込む。
SNS社会の息苦しさは、つながることと、自分を公開することが、ほとんど同じ行為になってしまったことにあるのかもしれない。
公開すれば疲弊する。公開しなくても、他人の公開された生活を引き受けることになる。そして、場所そのものから離れれば、人間関係のインフラも同時に失う。
SNSは、世界に開かれている。
けれど、その開かれた世界の中で、一人の人間が自分の幸福を守り、自分の関係を選び、自分の尺度で生きるための余白は、むしろ少なくなっているように感じる。
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