「好き」を共有しない自由――SNS時代に見えなくなった、静かなファンの世界
何かを好きになるという感情は、とても個人的なものだ。
どこに惹かれたのか。どの言葉に救われたのか。どの瞬間を特別だと感じたのか。同じ対象を好きであっても、その理由や意味は人によって異なる。
「好き」は、対象そのものだけで成立しているわけではない。対象から受け取ったものを、自分自身の経験や価値観を通じて解釈することで、初めて自分だけの感情になる。
だからこそ、好きという感情は、自分の内側でも中心的な位置を占める。そして、外部からの刺激に対して、非常に敏感な側面を持っている。
自分と対象のあいだに作られる、1対1の世界
何かを好きになるとき、そこには自分と対象とのあいだに、一つの世界が作られる。
「この人のこういうところが好き」「この作品をこう受け取った」「この瞬間に自分は救われた」。それは客観的な正解ではなく、自己解釈を土台にした、極めて私的な関係である。
この世界に他者が入ってくると、単に同じ対象を好きな人が増えるだけでは済まないことがある。
自分とは異なる解釈を示されたり、好きなポイントを否定されたり、熱量や知識量を比較されたりする。すると、それまで自分と対象とのあいだで完結していた世界が、他者の解釈によって相対化される。
侵害されていると感じるのは、対象そのものではない。
自分と対象のあいだで静かに築いてきた、意味や世界観なのだと思う。
1対1が、1対Nに変わる瞬間
この感覚は、オンラインと現地での体験の違いにも表れる。
配信や動画を一人で見ているとき、実際には多くの人に向けられたコンテンツであっても、体験としては1対1に近い。自分の好きな時間に、自分の注目したい部分を、自分の解釈で受け取ることができる。
一方、スポーツやライブの現地では、同じ対象を見ている多くの他者が可視化される。
歓声、応援の仕方、服装、会話、熱量。そこには、その場にいる人の数だけ異なる解釈や楽しみ方が存在する。
それぞれの楽しみ方が存在してよいことは、理屈では分かる。それでも、自分の中に強固な世界観があるほど、そのすべてと同じ空間を共有することは難しくなる。
自分にとって絶対的だった対象が、現地では無数の人にとって異なる意味を持つ存在として現れる。
1対1だった関係が、突然1対Nへ変わる。
現地でしか得られない熱量や迫力と、自分の世界観を守ること。その二つを天秤にかけた結果、配信を選ぶ人もいる。
それは体験への関心が低いからではない。自分にとって、どちらがより純度の高い没入なのかを選んでいるだけである。
個人化された時代が作った、非公開型の好き
現代は、個人が自分の関心に合わせて情報を集め、自分のペースで好きなものを楽しめる環境が整っている。
アルゴリズム、動画配信、サブスクリプション、アーカイブ。誰かと会話をしなくても、自分が見たいものだけを深く追い続けることができる。
以前は、テレビや雑誌、学校や職場での会話など、他者と共有された情報環境の中で好きになることが多かった。好きになる過程から、すでに他者の存在が入り込んでいた。
今は、好きになる過程そのものを個人化できる。
誰にも話さず、自己発信もせず、自分の内側だけで対象との関係を育てられる。その結果、外部に触れないまま、完成度の高い私的な世界観が作られていく。
だからこそ、現地やファンコミュニティに触れた瞬間、他者の解釈が一気に流れ込んでくることへの抵抗も生まれやすい。
外部接触に弱いことは、好きの純粋性が低いことを意味しない。
むしろ、外部に開かず、自分の中で丁寧に育ててきたからこそ、他者との摩擦に敏感になることがある。
SNSには映らない、静かなファン
SNSでは、好きなものを発信し、同じファンとつながり、布教し、自己表現として推し活を行う人が目立つ。
彼らは投稿し、現地へ行き、グッズを見せ、感情を言葉にする。そのため、ファン文化を観測すると、こうした公開型のファンが中心に見える。
しかし、SNSを情報収集のためだけに使う「見る専」の人も少なくないはずだ。
誰にも話さず配信を見続ける人。毎週ラジオを聴く人。作品を繰り返し楽しみ、静かに商品を買う人。その人たちのロイヤリティは、公開されていないだけで、低いとは限らない。
ファン文化には、実態の偏りよりも、観測の偏りがある。
可視化されるファンだけを見ていると、「現地に行くほど熱量が高い」「発信するほどロイヤリティが高い」「布教するほど本物のファンである」という単一の物差しが作られてしまう。
けれど、現地参加や自己発信は、好きの一つの形にすぎない。
配信を好み、自分の中だけで楽しむ人にも、その人なりの深い関係がある。
ラジオが持つ、擬似的な1対1性
ラジオが今も支持される理由の一つには、1対1に近い感覚があるのかもしれない。
番組は多くの人に向けて放送されている。それでも、イヤホンから聞こえる声は、自分一人に語りかけられているように感じられる。
リスナーメールも、番組を面白くするための素材として処理される限りは、世界観を加速させる装置になる。投稿そのものよりも、パーソナリティのリアクションが中心にあるからだ。
一方で、電話などによってリスナーが直接登場すると、第三者の存在が急に前景化する。
それまで1対1に感じられていた空間が、誰かと共有されていることを強く意識させられる。
他者が存在すること自体が問題なのではない。
他者がどの程度、その世界観の中へ入り込んでくるのか。その距離によって、受け取り方は変わる。
好きまで、成長させる必要があるのか
非公開で好きなものを楽しむことには、他者との交流による新しい発見が得られにくいという面もある。
異なる解釈に触れれば、対象への理解が深まり、見えなかった魅力に気づくこともあるだろう。
ただ、ここで一つ疑問が残る。
好きという感情まで、他者の視点によって成長させなければならないのだろうか。
現代社会には、成長、成果、競争、評価、拡張といった価値観が強く存在している。仕事でも生活でも、より良くなること、より多くを得ること、可能性を広げることが求められる。
だからこそ、好きという感情くらいは、それらから切り離されていてもよいのではないか。
役に立たなくていい。
広がらなくていい。
言語化できなくていい。
誰かに理解されなくていい。
自分が好きだから、そのまま存在している。
非公開型の好きは、単なる消極性ではなく、現実の成長主義や成果主義から離れるためのセーフティゾーンでもある。
その世界にまで「他者と交わればもっと豊かになる」「共有すればもっと楽しい」という価値観を持ち込むことは、ときに本人が守っているものを壊してしまう。
共有しない自由
共有によって豊かになる好きは、確かにある。
同じものを好きな人と出会い、感情を分かち合い、新しい魅力を知る。その喜びを否定する必要はない。
一方で、共有しないことで守られる好きもある。
誰かと交差させず、自分と対象との関係を私的なまま保つ。その感情も、同じように尊重されるべきだと思う。
もちろん、自分の世界を守るために、他者の好き方を否定したり、攻撃したりすることは正しくない。
自分の世界を守る権利はあっても、他者の世界を壊す権利はない。
ただ、他者と交わらないことや、現地へ行かないこと、SNSで発信しないことを、熱量の低さや未熟さとして扱う必要もない。
SNS時代には、共有する自由ばかりが可視化される。
だからこそ、共有しない自由についても、意識的に考える必要があるのだと思う。
見えない好きは、存在しない好きではない。
公開されていないだけで、静かに、深く、長く続いている感情がある。
その感情を、自分だけのものとして守り続けることも、一つの豊かな楽しみ方なのではないだろうか。
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