対面は情報量が多い。だから仕事に向いているとは限らない
仕事をするうえで、対面であることには価値がある。
表情が見える。声の強さや迷いが分かる。相手の反応を見ながら話せる。偶発的な会話も生まれる。
一般には、こうした状態を「コミュニケーションが豊かである」と表現する。
ただ、以前から少し疑問に思っている。
コミュニケーションが豊かであることと、仕事が前に進むことは、本当に同じなのだろうか。
オンでもオフでもない状態が苦手だった
私は、必要以上の対面コミュニケーションがあまり好きではない。
誰かと話すなら、意識を切り替えて話すことができる。一人で仕事をするなら、自分の中に入り、集中することができる。
苦手なのは、人が近くにいるのに、特に会話をしているわけでもない状態だ。
話しかけられるかもしれない。物音が聞こえる。誰かが動く。自分の存在も周囲から見られている。
実際には何も起きていなくても、意識の一部が常に外側へ向いている。
完全にオンでもなく、完全にオフでもない。
この中途半端な状態が、私にとっては意外と大きな負荷になる。
一人であれば、自分の理想とする環境を準備できる。音、照明、椅子、室温、作業する時間、休憩の取り方まで、自分が最も集中できる状態に近づけられる。
作業だけを考えれば、同じ場所に集まることよりも、個人が集中できる環境を構築することの方が、はるかに重要なのではないかと思う。
対面では、本題以外の情報も流れ込む
議論や意思決定の本体は、多くの場合、言語化できる。
事実、論点、意見、選択肢、判断、合意事項。
これらは、音声やテキストに変換できる。
かつては電話回線をつなぎ、遠隔地と会議をしていた。コロナ禍では、多くの企業がオンライン会議を使いながら事業を継続した。
対面でなければ仕事が成立しないのであれば、あれほど多くの企業活動が続くことはなかったはずだ。
契約の合意や重要な交渉など、特に重要な場面では対面がよいと言われることもある。
ただ、極端に言えば、それすらリモートで成立させることはできる。
国土が広く、気軽に国内を移動できない環境では、重要な仕事であっても遠隔で進めることが前提になる。重要性と物理的な距離は、必ずしも結びついていない。
それでも対面が好まれるのは、対面では言語情報以外のものも大量に得られるからなのだと思う。
表情、視線、声量、沈黙、服装、姿勢、役職、場の空気、周囲の反応。
こうした情報が、相手の感情や状況を理解する助けになることはある。
一方で、それらはすべて、本当に意思決定に必要な情報なのだろうか。
情報量の多さは、必ずしも性能の高さではない
対面では、発言内容と発言者の印象を切り離すことが難しい。
同じ内容でも、自信を持って話す人の意見は強く見える。声が小さい人や、話しながら考える人の意見は弱く見える。
役職者の反応を見ながら発言を変えることもある。周囲が賛成していると、反対意見を維持する心理的な負担も大きくなる。
対面によって合意形成が早くなることはある。
しかし、それは論点への理解が深まったからではなく、反対を続ける心理的コストが上がっただけかもしれない。
対面は、情報伝達の性能が高いというより、人間への作用が強いメディアなのではないかと思う。
相手の熱意を感じ、信頼が生まれることもある。
同時に、心理的なプレッシャーを受け、集中力が分散し、内容とは関係のない要素によって判断が歪むこともある。
情報が多いことは、常に価値ではない。
有用な情報と不要な情報が同時に流れ込むなら、帯域の広さそのものがノイズになる。
仕事を楽しめる人に最適化された職場
職場では、明るい人、コミュニケーションがうまい人、自己開示ができる人、仕事を楽しめる人、前向きな人が好まれやすい。
そうした人が悪いわけではない。
ただ、そのような気質が、仕事をするうえで望ましい人間性として扱われることには違和感がある。
成果主義を掲げる企業であっても、評価の中には定性的な人間的要素が含まれているように見える。
会議でよく話す。雑談に参加する。反応がよい。職場に自然に馴染む。前向きな感情を表現する。
そうした振る舞いが、協調性や仕事へのコミットメントとして評価される。
一方で、一人で集中したい、雑談を好まない、自己開示が少ない、対面を必要以上に求めない、感情表現が控えめといった気質は、消極性として解釈されることがある。
もちろん、必要な情報を共有しない、他者を攻撃する、合意した役割を果たさないなど、チームの成果を阻害する行動は別である。
しかし、問題行動と個人の気質は分けて考えるべきだと思う。
仕事ができるために、明るくある必要はない。
仕事を楽しんでいるように見せる必要もない。
必要な相手と必要なタイミングで接続し、自分の役割を果たし、価値を出しているのであれば、社交性や感情表現まで同じである必要はないはずだ。
組織の問題が、個人の適応力へ変換される
今の職場では、環境に合わない人の側に適応が求められやすい。
オフィスで集中できないなら、自分で工夫する。
対面コミュニケーションに疲れるなら、慣れる。
雑談が苦手なら、関係構築力を身につける。
自己開示が少ないなら、もっと周囲へ自分を見せる。
そこでは、組織の環境設計の問題が、個人の適応力の問題へ置き換えられている。
しかし、機械やサーバーであれば、性能を発揮できる環境を考える。
発熱が大きければ冷却装置をつける。用途に応じて配置を変える。負荷を分散する。
人間も、法人から見れば広い意味での資産である。
人材を資産と呼ぶのであれば、その資産が最も性能を発揮できる稼働環境まで設計することが、組織の責任ではないだろうか。
環境への適応を求める前に、その人がどの環境で最も価値を出せるのかを考える。
その環境を提示したうえで、成果を求める。
その方が、成果主義としても筋が通っているように思う。
全員を同じ場所に置くことは、公平なのか
オフィスは、全員に同じ環境を提供する。
同じ場所、同じ時間、同じ会議、同じ座席体系。
一見すると公平に見える。
ただ、人によって集中しやすい環境も、思考の仕方も、コミュニケーションの好みも異なる。
会話しながら考える人もいれば、文章にしてから考える人もいる。周囲に人がいる方が安心する人もいれば、一人でなければ集中できない人もいる。
同じ環境を与えることは平等かもしれない。
しかし、それぞれが成果を出す機会を平等にすることとは違う。
本来のダイバーシティとは、異なる属性の人を同じ場所へ集め、同じ振る舞いを求めることではないはずだ。
異なる気質や特性を持つ人が、それぞれに合った方法で価値を出し、その成果を組織として組み合わせることではないだろうか。
属性は多様でも、働き方や望ましい人格像が一種類であれば、組織の中に残る人は徐々に似ていく。
そして企業は、多様な視点や独自の発想を求めながら、それを生み出す人たちへ同じ環境への適応を要求する。
そこには矛盾があるように思う。
オフィスは、目的ではなく手段である
対面やオフィスを、すべて否定したいわけではない。
一緒に考えた方がよい場面もある。信頼関係を作るために、直接会うことが有効な場合もある。
ただ、対面であることを最初から正解にするのではなく、何のために集まるのかを考えた方がいい。
集中作業をするのか。
議論をするのか。
意思決定をするのか。
関係を作るのか。
それぞれの目的によって、適した環境は異なる。
関係形成が必要なら、そのための機会を設計すればいい。議論が必要なら、議論しやすい形式を選べばいい。個人作業なら、それぞれが最も集中できる環境を選べばいい。
「オフィスとはこういうものだ」「社会人なら同じ場所で働くものだ」という前提から始めるのではなく、成果から逆算して環境を設計する。
コミュニケーションが豊かであることと、仕事が前に進むことは必ずしも同じではない。
対面は情報量が多い。
だからこそ、その情報が本当に必要なのかを、改めて考える必要があるのだと思う。
【この記事が興味深かった方は、以下記事もおすすめです】
<おすすめ記事①>
対面かリモートかの議論を、仕事に時間を奪われないための仕事術まで広げたい方はこちら。
<おすすめ記事②>
働く場所や方法を、自分のしんどさと環境の相性から考えたい方はこちら。
<おすすめ記事③>
働き方を変える前に、AIを入れても会社が変わらない組織構造が気になった方はこちらもぜひ。
#毎日note #働き方 #リモートワーク #オフィス #組織論 #成果主義 #ダイバーシティ #マネジメント #コミュニケーション #仕事術 #キャリア #生産性 #ビジネス #考察 #ビジネス考察 #社会考察 #現代社会 #価値観 #心理 #社会
