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出会いは便利になった。でも、恋愛の「余白」はどこへ消えたのか

マッチングアプリは、出会いの入口を大きく広げた。

職場や学校、友人関係といった限られたコミュニティを越えて、自分と価値観の合う相手を探せる。合コンや結婚相談所と比べても、費用や時間の負担は小さく、自分の都合に合わせて利用できる。

コロナ禍を経て、マッチングアプリは一部の人が使う特別なサービスではなく、社会人が新しい相手と出会うための主要な手段になった。

この変化によって救われた人は、間違いなく多いと思う。

しかし、マッチングアプリが出会いの標準的なインフラになったことで、その仕組みに馴染めない人が、静かに出会いの機会を失ってはいないだろうか。

出会いの場は、いつの間にか減っていた

かつて、社会人の出会いにはもう少し複数の経路があった。

職場、友人からの紹介、合コン、趣味の集まり。本人が最初から恋愛を目的にしていなくても、日常の延長で誰かと知り合い、何度か顔を合わせる中で関係が変化する余地があった。

しかし、社会のコンプライアンス意識が高まる中で、職場での私的な交流は以前よりも抑制的になった。これは、ハラスメントや権力関係による不健全な接近を防ぐという意味で、望ましい変化でもある。

コロナ禍によって、合コンや飲み会のような集まりも急速に減少した。もともと衰退しつつあった文化が、コロナを境にさらに細くなったように見える。

こうした社会変化によって生まれた空白を、マッチングアプリが埋めた。

アプリが他の出会い方を一方的に奪ったわけではない。むしろ、自然な出会いが減少した社会の受け皿として普及した面が大きいだろう。

ただ、受け皿として便利だったからこそ、出会いの経路がそこへ集中した。その結果、アプリを利用できる人と、利用できない人との間に、見えにくい分断が生まれている。

恋愛市場への参加を「宣誓」する

友人に誘われた合コンなら、「たまたま誘われたから参加した」と言える。知人からの紹介であれば、「一度会ってみるだけ」という曖昧な姿勢でも参加できる。

そこには、恋愛を求めていることを、自分にも他人にも明確に認めずに済む余地があった。

一方、マッチングアプリでは、その曖昧さが許されにくい。

アプリをインストールし、写真を登録し、プロフィールを書き、自分の属性や希望条件を入力する。場合によっては料金を支払い、自分が恋愛や結婚の相手を探していることを明確に示す。

マッチングアプリへの登録は、ある意味では、恋愛市場へ参加することの宣誓に近い。

この宣誓を自然に行える人もいる。しかし、自分を積極的に表現することが苦手な人や、恋愛相手を探している自分を明示することに抵抗を感じる人もいる。

恋愛をビジネス上のプラットフォームに乗せること自体に、違和感を持つ人もいるだろう。

かつて、恋愛や結婚のためにお金を払う場所は、結婚相談所やお見合いパーティーのような、比較的心理的ハードルの高い市場だった。

マッチングアプリは、その裾野を広げた。それは大きな功績である一方、恋愛産業へ参加することに抵抗のある人にとっては、主要な出会いの場そのものが入りにくい場所になったとも言える。

人柄より先に、属性と自己表現が評価される

人の魅力には、時間をかけなければ分からないものがある。

穏やかさ、誠実さ、聞き上手であること、一緒にいて疲れないこと。相手や周囲への接し方を何度も見る中で、少しずつ伝わっていく人間性もある。

しかし、マッチングアプリでは、関係が始まる前に選別が行われる。

写真、年齢、職業、学歴、年収、趣味、短い自己紹介。まず、これらの情報を通過しなければ、人柄を知ってもらう機会が訪れない。

以前の出会いにも、容姿や所属、収入などによる評価は存在していた。決して公平な世界だったわけではない。

それでも、比較対象は身近な範囲に限られていた。年収の絶対額のような情報も、今ほど明示的ではなく、相手の人柄や関係性の中に埋め込まれていた。

アプリでは、従来から存在した評価基準が、可視化され、検索可能になり、広い範囲で比較される。

その結果、恋愛における最初の競争力として、人間性そのものではなく、自分を魅力的な情報へ編集し、短時間で提示する能力が強調される。

現実の関係を築くことが得意な人と、プロフィール上で自分を魅力的に見せることが得意な人は、必ずしも同じではない。

それでも、後者の能力を持たなければ、前者を知ってもらう場所まで進みにくい。

選ばれない事実を知りたくない

自己評価に不安を抱えている人にとって、マッチングアプリへの参加は大きな心理的リスクを伴う。

写真を出しても反応がないかもしれない。メッセージを送っても返事が来ないかもしれない。マッチしても、途中で連絡が途切れるかもしれない。

これまでなら曖昧に処理できた人間関係の不成立が、プラットフォーム上では、小さな不合格通知として積み重なっていく。

選ばれないという事実を認識するくらいなら、最初から参加しない。

これは単なる消極性ではなく、自分を守るための自然な行動でもある。

しかし、アプリ以外の出会いが少なくなるほど、競争に参加しない人は、出会いの機会そのものを失う。

自己評価が低いから競争を避ける。競争を避けるから出会いが減る。出会いが減ることで、さらに「自分には縁がない」という認識が強まる。

その循環は、本人が恋愛や結婚を望んでいないように、外側からは見えてしまう。

社会には「アプリを使えば出会える」という認識がある。だからこそ、アプリを使わないことも、そこでうまくいかないことも、本人の選択や努力の問題として処理されやすい。

けれども、主要な出会いのインフラが自己表現能力や競争への耐性を前提としているとき、その不参加は本当に自由な選択なのだろうか。

参加している人も、疲弊している

問題は、アプリを利用できない人だけにあるわけではない。

積極的に利用している人も、他に有力な選択肢がないため必要に駆られて利用している人も、ストレスの大きな環境に置かれている可能性がある。

候補を探し、プロフィールを読み、相手を比較し、メッセージを返し、会うかどうかを判断する。実際に会った後も、関係を続けるか、他の候補を探すかを決め続ける。

出会いを効率化する仕組みでありながら、利用者には多くの情報処理と判断を要求する。

選択肢が増えるほど、人は自由になるとは限らない。

候補が多すぎれば、一人を選ぶための負担が増える。誰かを選んだ後にも、「もっと合う人がいたのではないか」という疑問が残りやすい。

さらにマッチングアプリでは、自分は相手を選ぶ側であると同時に、相手から選ばれる側でもある。

お互いが「この人でよいのか」と評価する主体になり、関係を育てる前に、より良い候補を探し続けることができる。

条件を細かく設定できることは、ミスマッチを減らすためには有効である。しかしそれは同時に、相手への許容度を下げる可能性もある。

先に人を知り、その後で違いを受け入れるのではない。

違いを事前に排除し、条件を満たした相手とだけ関係を始めようとする。

その方が効率的なのかもしれない。しかし、人間同士の関係が本来持っていた偶然性や変化の可能性まで、同時に削ってはいないだろうか。

出会うために、自分を歪める

アプリの仕組みに適応するためには、自分をある程度、プラットフォーム向けに整える必要がある。

魅力的な写真を選ぶ。分かりやすい趣味を書く。会話では積極性を示す。自信があるように振る舞い、相手から選ばれやすい人物像へ自分を近づける。

誰かと出会うために少し背伸びをすることは、昔からあった。

ただ、アプリではその背伸びが形式化され、繰り返し求められ、その成果まで反応数やマッチングの有無によって可視化される。

すると、単に身だしなみを整えるのではなく、市場に評価される自分を継続的に運用する感覚に近づいていく。

ここには、二つの孤立があるように思う。

一つは、アプリに参加できず、出会いの経路から外れていく孤立。

もう一つは、参加するために本来の自分を少しずつ歪め、評価される自分を演じ続ける孤立である。

後者は、マッチングしていても、誰かと交際していても起こり得る。そのため、外側からはより見えにくい。

アプリが奪ったのではなく、社会が失ったもの

ここまで考えても、過去の出会い方へ戻ればよいとは思わない。

職場恋愛や飲み会文化には、断りにくさや権力関係、周囲からの干渉といった問題があった。コンプライアンス意識やハラスメント防止の考え方が広がったことには、大きな意味がある。

過去には、今とは違う不自由さがあった。

それでも、以前の出会いには曖昧な余白が存在していた。

恋愛目的だと宣言せずに参加できる。属性だけではなく、関係の中で魅力が伝わる。うまくいかなくても、明確な不合格として受け取らずに済む。

マッチングアプリは、その曖昧さを情報の明確さと効率性へ置き換えた。

アプリが出会いの余白を一方的に奪ったわけではない。社会が安全性や自由を獲得し、生活やコミュニティの形を変えていく中で、偶然に関係が始まる場所が失われた。その空白を埋めたのが、マッチングアプリだったのだと思う。

だから、マッチングアプリだけを否定しても、この問題は解決しない。

失われた余白は、どこへ行くのか

マッチングアプリは、優れた仕組みである。

出会いの入口を広げ、かつてなら接点を持てなかった人同士を結びつけた。その功績は、素直に認めるべきだと思う。

しかし、仕組みとして優秀であることと、人間の感情にとって唯一の正解であることは違う。

極めて個人的で繊細な恋愛という活動が、ここまで直接的にビジネスやプラットフォームと接続されることに、大きな心理的負担を感じる人もいる。

そもそも、恋愛感情はプラットフォームの上で取引される商品なのだろうか。

この問いまで深く進めれば、議論はさらに広がっていく。ただ少なくとも、出会いが便利になったという事実だけでは、その変化を評価しきれないように思う。

私たちは、安全性や自由を得る過程で、人が評価対象になる前に誰かと知り合う余白まで失ったのではないか。

そして、アプリ以外の入口が細くなった社会で、自己を売り込まず、属性で比較されず、誰かと少しずつ関係を作れる場所は、これからどこに生まれるのだろうか。

答えはまだ分からない。

ただ、マッチングアプリという便利なインフラの外側で、静かに孤立していく人がいるかもしれないこと。そして、その中には、恋愛や共同生活に向いていないのではなく、恋愛プラットフォームに向いていないだけの人もいること。

その存在は、もう少し社会の側から見つめられてもいいのではないかと思う。

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