「おすすめ」ばかり見ていると、好きなものは増えない
スマホを開けば、自分の好きなものが次々と流れてくる。
好きな音楽、好きなスポーツ、好きな芸能人、自分と似た考え方。SNSや動画配信サービスは、過去の行動や反応をもとに、自分が楽しめそうなものを選んでくれる。
これは、とても便利なことだ。
かつてよりもはるかに多くの文化や情報へアクセスでき、自分の趣味に合ったものを自由に見つけられるようになった。以前なら一部の人しか知ることのできなかった作品や文化も、今では誰にでも開かれている。
多様な選択肢を一般の人々へ開放したことは、スマホやSNS時代の大きな功績だと思う。
しかし、好きなものへ簡単にたどり着けるようになった一方で、まだ自分が好きだと知らないものに出会う機会は、減っているのではないだろうか。
マスメディアは、選択肢を狭めると同時に、偶然を配っていた
テレビやラジオが社会の中心にあった時代、個人が日常的に触れられる情報の入口は限られていた。
多くの人が、同じテレビ番組を見て、同じラジオを聴き、同じ雑誌を読んでいた。その中から流行を知り、好きな音楽や芸能人、スポーツ、文化を見つけていた。
もちろん、そこには大きな制約もあった。
マスメディアが取り上げなければ、大衆の目に触れることは難しい。何が社会に紹介されるかは、個人の本当の趣味嗜好ではなく、メディア側の選択によって決められていた。
マスメディアは、多様な文化への入口を狭くしていた。
しかし同時に、その限られた入口を多くの人が共有していたからこそ、自分では選ばなかったものが自然に視界へ入ってきた。
家族が見ていたテレビ番組。たまたま流れていた音楽。興味のないスポーツのニュース。自分とは違う世代に人気の芸能人。
好きになる必要はない。深く理解する必要もない。ただ、その存在を一度は知ることができた。
マスメディアは、社会に偶発的な接触を配る装置でもあったのだと思う。
「自分の好き」は、本当に自分で選んだものなのか
今は、一人ひとりがスマホを持ち、同じ部屋にいながら全く違うコンテンツを楽しめる。
自分の好きなものを能動的に選び、さらにアルゴリズムが、それに近いものを自動的に勧めてくれる。
しかし、自分の趣味嗜好は、最初から確立されていたものなのだろうか。
私たちが今好きなものも、最初はたまたま家族が見ていた、友人から教えられた、テレビで偶然目にした、といった接点から始まっていることが多い。
だとすれば、「自分はこういうものが好きだ」という感覚も、人生の初期に偶然触れたものによって形成されている可能性がある。
その初期の好みをもとに、似たものばかりが勧められ続けると、自分の趣味は深まるかもしれない。しかし、その外側にある可能性は、見つからないままになる。
好きなものだけを見ていると、好きなものは増えない。
自分らしさを尊重してくれる仕組みが、逆に、自分らしさを早い段階で固定してしまうこともある。
偶発性は、自分の可能性を広げる
偶発的な出会いは、単なるノイズではない。
今まで知らなかった興味を見つける。自分とは違う考え方に触れる。理解できなかったものが、ある日突然面白く感じられる。
そうした経験を通じて、人の知識や感性は拡張されていく。
自分にとって楽しいもの、都合のよいもの、心地よいものだけが与えられ続ければ、異質なものは次第に「未知」ではなく「不快」として感じられるようになるかもしれない。
さらに進めば、自分とは違う価値観や感覚を持つ人を理解する必要すら感じなくなる。
それは、自分の可能性を狭めるだけではない。
自分が知っている社会を、実際の社会よりも小さく捉えてしまうことにもつながる。
人間は社会的な動物であり、自分と似た人だけで人生を完結することはできない。仕事でも、地域でも、教育でも、行政でも、医療でも、自分とは異なる人と関わりながら生きていく。
偶発性は、新しい「好き」と出会う機会であると同時に、他者の存在を自分の世界へ流入させる機会でもあったのかもしれない。
国民的存在は、全員が好きな存在ではなかった
かつての国民的スターや国民的番組は、すべての人から熱狂的に愛されていたわけではない。
それでも、多くの人が名前を知り、代表曲を聴いたことがあり、何らかの話題には参加できた。
国民的存在とは、みんなが同じように好きな存在ではなく、好き嫌いを越えて、社会の多くの人が一度は触れた存在だったのではないだろうか。
そこには、世代や立場の違う人々を緩やかにつなぐ役割があった。
「あの曲、知っている」「昨日の試合、見た?」「あの番組、昔見ていた」
価値観が一致していなくても、一つの存在を経由して会話を始められる。完全には分かり合えなくても、同じ社会に生きているという薄い感覚を持つことができる。
国民的存在は、異なる人々の間に、細くて弱い橋を大量に架けていたのかもしれない。
その橋が失われた社会で、私たちは何を共通言語にすればよいのだろう。
国家的な危機や災害、強い対立によって一時的に結びつくことはある。しかし、社会をつなぐものが危機や恐怖だけでは、あまりにも息苦しい。
文化やエンターテインメント、スポーツに限らなくてもいい。
できれば、「面白かった」「すごかった」「なんとなく好きだった」という、軽くて前向きな感情から生まれる共通言語であってほしい。
好きな人だけに届けても、文化は続かない
偶発的な接点が減ることは、個人だけでなく、文化や産業にとっても大きな問題になる。
どれほど優れた作品があっても、既存のファンにしか届かなければ、新しい受け手は増えない。
深いファンだけで市場を維持しようとすれば、一人あたりの消費額は高まるかもしれない。しかし、入口が細くなれば、長期的には母集団が縮小し、新陳代謝が止まっていく。
それは、作品の魅力が失われた結果とは限らない。
作品と、潜在的な受け手が出会う回路を失った結果かもしれない。
テレビで偶然見た試合。街中で流れていた曲。家族が見ていた番組。図書館で目に入った本。
そこには、好きになることを求める圧力はなかった。ただ、存在を知る機会があった。その薄い接点の中から、ごく一部の人が自ら興味を持ち、次のファンになっていく。
これは宗教のように布教し、改宗させる話ではない。
知らない人の視界へ、低い負荷で、すっと入っていくこと。
偶発的接点を作り、認知の裾野を広げることは、文化が次の世代へ継承されていくための基盤なのだと思う。
偶発性には、公共性がある
現代の多様性や選択の自由を否定する必要はない。
昔のマスメディアが選んだ限られたものだけを、全員が見る社会へ戻る必要もない。
守るべきなのは、国民全員が同じものを見る状態ではなく、自分の意思を介さずに、異質なものが自然に入ってくる余白なのではないだろうか。
その単位は、国民全体でなくてもいい。
地域、学校、職場、公共空間、図書館、美術館、イベント。異なる文化や価値観が自然に交差する場を、社会のどこかに残しておく。
そこには、公共的な意味がある。
メディアだけが担う役割ではない。しかし、大衆へ広く情報を届けられるメディアの責任は大きい。
人々がすでに求めているものを効率よく届けるだけでなく、まだ知られていないものや、自分からは選ばれにくいものを、社会の視界へ置く。
行政もまた、作品の内容を選び、統制するのではなく、多様な文化が偶然に目へ入るためのインフラを支えることができる。
図書館、美術館、公共放送、学校教育、地域文化、公共空間。
文化を守るとは、作品を保存することだけではない。
まだそれを知らない人の視界に、そっと入る回路を残すことでもある。
選択の自由と、選ばなかったものに出会う自由
私たちは、かつてないほど多くのものを選べるようになった。
しかし、選ぶ自由が広がるほど、選ばなかったものと出会う機会は失われていく。
偶発性は、自由を妨げるノイズではない。
まだ知らない自分の可能性と出会い、異なる他者の存在を知り、文化の裾野を次の世代へ広げるための公共財なのかもしれない。
個人に最適化された快適さを守りながら、異質なものが低い負荷で、すっと入ってくる余白をどう残すのか。
文化的な衰退を防ぐためにも、社会の連帯を失わないためにも、私たちは今一度、偶然に出会うことの価値を考え直した方がいいのだと思う。
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