note閲覧数が伸びないと、「いい記事」まで悪く見えるのはなぜか
noteを書いている。
たくさんの人に読まれたいから書いている、というより、自分にとっては考えること自体がかなり楽しい。
何かについてぼんやり考えて、少しずつ言葉にして、自分なりに整理していく。そのプロセスそのものが面白い。
記事は、その結果として生まれるアウトプットに近い。
だから本来、何人に読まれたかとか、どれくらい「スキ」がついたかとか、そういうものはおまけのはずだった。
でも、やっぱり閲覧数が伸びないと気になる。
前の記事より読まれていない。思ったより反応が少ない。
すると、別に数字のために書いていたわけでもないのに、少し残念な気持ちになる。
この感じが、最近少し不思議だった。
「承認欲求」で片づけていいのだろうか
単純に考えれば、承認欲求なのかもしれない。
人に見てもらいたい。評価されたい。褒められたい。
もちろん、そういう気持ちが全くないとは思わない。
でも、最初からそれを目的にしていた感覚もない。
自分で考えて、「これ、ちょっと面白いな」と思ったものを、せっかくだから外に出してみたい。そのくらいの、もっとささやかな欲求だった気がする。
ただ、一度投稿すると数字が返ってくる。
ビュー数、スキ、コメント、フォロワー。
投稿する。反応を見る。良ければ嬉しい。悪ければ理由を考える。そしてまた投稿する。
考えてみれば、ものすごく分かりやすいフィードバックループである。
しかも、一度このループの中に入ると、「数字は関係ない」と頭で思っていても、脳はなかなかそうは受け取ってくれない。
100人に届けば十分だったはずなのに
たとえば、コミックマーケットで同人誌を100部刷ったとする。
100部売れたら、たぶんかなり嬉しい。
目の前で誰かが手に取ってくれて、たまに「面白かったです」と言ってもらえる。それだけで、一つの体験として完結する気がする。
ところが同じことをインターネットでやると、少し様子が変わる。
100人に届いたとしても、その横には1,000人に届いた人がいる。1,000人に届けば、1万人に届いた人が見える。
昨日1,000人に読まれたなら、今日は300人だったことが気になる。
技術的には、世界中の人に届けられる。
でも、その可能性があることで、「100人に届けば十分だった」という感覚を維持することが難しくなる。
可能性が広がったことで、可能性を追わないことが難しくなった。
そんな感じがする。
一人に褒められることと、「スキ1」は少し違う
数字になること自体にも、不思議な力がある。
対面で誰か一人に、
「これ、素敵ですね」
と言われたとする。
その瞬間は、たぶんそれだけで嬉しい。
他に何人が褒められているかとか、自分が何位なのかとか、そんなことはあまり考えない。
でも、同じ反応がインターネット上で「スキ1」と表示された瞬間、少し意味が変わる。
一人に好きだと言ってもらえた、ではなく、
「一人しか反応してくれなかった」
にも見えてしまう。
1という数字が存在した瞬間に、2も10も100も存在するからだ。
本来は、自分が「いいな」と思って作ったものだった。
誰か一人に届いただけでも、本当は十分だったかもしれない。
なのに数値化されることで、突然それは他人の記事や過去の自分の記事と並べられ、比較可能なものになる。
自分の中では大切だったものが、数字によって少ししょぼく見えてしまう。
私は、この感覚が少し悲しい。
人に見せたいだけなのに、競争に参加することになる
インターネットがなければ、こうした発信自体が難しかった。
今は誰でも簡単に文章を書き、写真を載せ、考えを世界へ公開できる。
表現の自由度は、ものすごく上がった。
でも、その自由を使おうとすると、多くの場合は巨大なプラットフォームに乗ることになる。
そこでは、発信することと同時に、数字を見ることになる。
誰に言われたわけでもないのに、他人と比べる。過去の自分と比べる。もっと伸びる方法を考える。
競争したくてその場所に来たわけではない。
ただ、誰かに見てもらいたかっただけなのに、広場に出たら大きなスコアボードが置いてあった。
そんな感覚に近い。
欲しいものだけを受け取ることはできない
これは、アプリやウェブサービスの利用規約にも少し似ている。
データ利用には同意したくない。でも、それを拒否するとサービス自体が使えない。
形式上は「同意するかどうか」を選べる。
でも実際には、
受け入れて使うか、拒否して退出するか。
その二択に近いことも多い。
SNSや投稿サービスでも似たことが起きている。
人とつながる機能は使いたい。自分の考えを外に出したい。たまには反応も欲しい。
でも、無限に比較したいわけではない。数字を追い続けたいわけでもない。競争したいわけでもない。
それでも、その部分だけ拒否することは難しい。
サービスから得たいものと、自分が望んでいないものが、セットになっている。
「もっと」を求めない人の居場所
プラットフォーム側から考えれば、それも自然なのかもしれない。
ユーザーが「これで十分」と満足してサービスを閉じるよりも、
もう少し見たい。もう少し伸ばしたい。もう一度数字を確認したい。
と思ってもらった方が、利用時間も増える。
だからサービスは、私たちが「十分」と感じることよりも、「もう少し」と感じ続ける方向へ進化しやすい。
もちろん、それを求める人もいる。
もっと多くの人に届けたい。もっと評価されたい。もっと大きな影響力を持ちたい。
それ自体は何も悪くない。
ただ、そこまで求めていない人もいる。
100人くらいに届けば嬉しい。
何人かに「面白かった」と言ってもらえれば十分。
そんな小さな満足のために発信したい人の居場所が、意外と少ない。
表現の自由は広がった。でも、満足の自由はどうだろう
インターネットによって、私たちは昔より自由に発信できるようになった。
これは間違いなく素晴らしいことだと思う。
ただ、その一方で、発信したものがすぐに数字へ変換され、比較され、競争の中に置かれるようにもなった。
自分では大切だと思っていた。
自分ではこれで十分だと思っていた。
それでも数字を見ると、「たいしたことなかったのかな」と思ってしまう。
頭では、そんなことはないと分かっている。
それでも少し悲しくなる。
たぶん私は、数字をなくしてほしいわけではない。
人からの反応も欲しいし、外の世界ともつながっていたい。
ただ、もっと穏やかに人とつながる方法があってもいいと思う。
世界中に届けられる自由だけではなく、
100人に届いたところで、「これで十分だった」と思える自由。
そんな自由も、もう少しあっていいのではないかと思う。
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