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なぜ「うじとうえだ」には、何度も同じ動画を見るファンが生まれるのか

YouTubeチャンネルの強さは、登録者数や再生回数によって語られることが多い。

もちろん、それらは重要な数字である。しかし「うじとうえだ」を見ていると、一般的な指標だけでは捉えきれない、少し特殊な強さを感じる。

動画の公開間隔は決して短くない。一つの動画も90分から120分前後と長い。それでも公開された動画は、登録者数に対して非常に高い再生数を記録している。

必ずしも登録者だけが視聴しているわけではない。それでもコメント欄を見ていると、新作を一度見て終わるのではなく、過去の動画を何度も繰り返し再生しているファンが一定数いることが分かる。

一度結末を知った動画を、なぜ何度も見るのか。

その理由を考えていくと、「うじとうえだ」の魅力は企画の面白さだけではなく、そこで流れている時間や人間関係そのものにあるように思えてくる。

登録者という資本から、繰り返し視聴を生み出す

少し乱暴な例えをするなら、「うじとうえだ」は非常にROICの高いチャンネル運営をしている。

もちろん、登録者は会計上の投下資本ではなく、再生数もそのまま売上ではない。ただ、一度獲得したファンを関係資本と考えた場合、その関係から非常に多くの視聴時間を生み出している。

多くのYouTube動画は、新作が公開され、視聴され、消費される。そして次の動画が公開されなければ、新しい再生は生まれにくい。

一方、「うじとうえだ」では、新作が公開されていない期間にも、既存の動画が繰り返し再生される。

ファンは次の動画を待つだけではない。過去の動画を見直し、その世界に何度も戻っている。

動画一本の価値が、公開直後の再生数だけでは終わらない。コンテンツの耐用年数が長く、一人のファンが同じ世界へ繰り返し接続することで、累積の視聴時間が積み上がっていく。

ただし、これは単に企画が面白いからではない。

企画は、初回視聴の強いフックになる

「うじとうえだ」の企画には、分かりやすい基本構造がある。

サカモトや上田が企画を持ち込み、氏原が振り回される。氏原は嫌がり、文句を言いながらも、最終的にはその企画へ参加する。

この構図は視聴者にとって非常に理解しやすい。

「それは嫌だろう」「面倒そうだ」「自分ならやりたくない」

氏原の反応は、視聴者が自然に抱く感情を代弁する。出演者の過去やチャンネルの内輪事情を知らなくても、まず氏原側の視点に立てば、その世界へ入ることができる。

YouTubeでは、自分ではやりたくないが、誰かがやっているところは見たい、という企画が人気になりやすい。大規模な挑戦や海外ロケ、非日常的なくだらなさは、それだけで強い視聴動機になる。

「うじとうえだ」にも、その性質はある。

ただし、彼らが行うことは、必ずしも常人には不可能なものではない。

海外へ行っても、高額な体験を次々と購入するわけではない。普通の旅行者より何もしていないことさえある。企画は奇妙で面倒ではあるが、明日やろうと思えば、できなくはない距離にある。

場所や状況は非日常でも、そこで生まれる感情は、視聴者の日常と地続きになっている。

企画の外側にある「余白」が面白い

企画の面白さには瞬発力がある。

何をするのか。どんな目に遭うのか。どういう結末になるのか。初めて見るときには、企画そのものが視聴を進める力になる。

しかし、90分から120分の動画を、企画の展開だけで押し通すことはできない。それを月に何本も作り続けることも、現実的には難しい。

だから長尺動画の大半には、企画が直接進んでいない時間が存在する。

移動している。食事をしている。誰かが文句を言う。どうでもいい話で揉める。疲れて口調が雑になる。誰かの不用意な一言から、会話が思わぬ方向へ転がっていく。

「うじとうえだ」の面白さは、その余白を削り切らず、丁寧に残していることにある。

企画は、彼らを長時間一緒にいさせるための大きな枠組みである。その枠組みの中で起きる偶発的な会話や反応から、出演者の人間性と関係性が浮かび上がる。

氏原の面倒さ。サカモトの身勝手さ。上田の無茶な発想。格好悪さや小ささ、優しさや責任感。

それらは、企画上の役割として演じられた面白さだけではない。仲間と長時間一緒にいる中で、本人たちの意図を超えて漏れ出してくる面白さである。

初回は企画を見る。

しかし、二回目以降は人に会いに行く。

この変化が、反復視聴を生んでいるのではないか。

上田の編集は、余白を削るのではなく、人間性を発見する

「うじとうえだ」を語るうえで、上田の編集が卓越していることは欠かせない。

長尺で余白が多いからといって、撮影した時間をそのまま流しているわけではない。視聴者が退屈しないように全体のリズムを作りながら、人間性が見える小さな瞬間を丁寧に拾っている。

一般的なセルフブランディング型の編集では、本人が見せたい自分を残し、見せたくない自分を切り取ることができる。

格好いい部分、面白く振る舞えた部分、能力が高く見える部分だけを残すこともできる。

一方、上田が編集を通じて示しているのは、氏原やサカモトが自分で見せたい姿とは、少し違うのかもしれない。

上田が仲間として知っている、彼らの面白さである。

面倒で、身勝手で、格好悪い。それでもなぜか憎めない。欠点を消して理想化するのではなく、その欠点まで含めて、人間としての魅力が伝わるように編集している。

そこには、出演者への愛情がある。

上田の編集は、誰かの格好悪さを暴露して笑うことではない。その人をよく知る仲間として、「この人はここが面白い」と感じる輪郭を、外部の視聴者にも見える形へ翻訳している。

編集による自己演出ではなく、編集による他者理解。

それが長い動画の余白を、ただの冗長な時間ではなく、人間としての面白さを感じる時間へ変えている。

短い動画では、同じ空気を閉じ込められない

この面白さは、短い動画を何本も連続させれば再現できるものではない。

短尺動画には、一本ごとの入口と出口が必要になる。視聴者を引き込む導入があり、盛り上がりがあり、終わりがある。動画を切り分ける以上、それぞれに分かりやすい構成とリズムを作らなければならない。

しかし、その構造自体が余白を殺してしまう。

何も起きていない移動時間や、結論のない会話、少し長い沈黙は、一つの動画として見ると切りたくなる。動画が変わり、公開日が分かれれば、同じ場に滞在している感覚も途切れる。

長尺だからこそ、企画の始まりから終わりまで、視聴者は彼らと同じ時間を過ごすことができる。

動画を見ているというより、彼らの一日に同席している。

企画は完結しても、人間関係は完結しない。一本の動画を見終えても、次の過去動画へ移れば、また別の日の彼らに会うことができる。

視聴者は、居酒屋のカウンター席にいる

「うじとうえだ」における視聴者の立場は、完全な仲間ではない。

彼らの実際の関係性には入れないし、視聴者自身も、本当にその輪へ参加しようとしているわけではない。

それでも、遠くから眺めているだけでもない。

いつもの居酒屋で、3人がいつものように話している。その少し離れたカウンター席で、自分も酒を飲みながら会話を聞いている。

それくらいの距離感に近い。

表情や会話の間、誰かの機嫌の変化まで分かる。内輪の空気にも触れられる。しかし、自分が会話を盛り上げたり、気を遣ったりする必要はない。

近接しているが、傍観者でいられる。

この距離が心地よい。

仲のいい友人と一週間に一度、居酒屋へ集まって何時間も話すとき、必ずしも特別な出来事があるわけではない。話の内容を細部まで覚えていなくても、その場にいる時間自体が楽しい。

「うじとうえだ」の反復視聴も、それに近いのではないか。

面白い企画をもう一度確認するためではなく、あの仲間内の時間へ、もう一度戻るために見る。

場所や企画は非日常でも、そこで流れている時間は、多くの人が知っている「仲間と過ごす時間」とつながっている。

誰も前向きではないから、上下関係が薄くなる

彼らの企画は、ときにハードである。

上田やサカモトが氏原を振り回す構図だけを見れば、企画者と被企画者の間に上下関係が生まれても不思議ではない。

しかし、実際には上田自身も企画を心から歓迎しているわけではない。

自分も面倒だ。自分も嫌だ。それでも、面白いから全員でやる。

上田が安全な場所から、他人だけを苦しませているわけではない。企画を立てた本人も、同じ時間と負担を引き受ける。

そのため構図は、

「やらせる人と、やらされる人」

ではなく、

「誰かが言い出した面倒なことを、全員で嫌がりながらやる仲間」

になる。

全員が被害者であり、同時に共犯者でもある。

この横並びの関係性が、3人を中心とした小さな世界を温かく回している。

水曜どうでしょうとの共通点

この構造は、「水曜どうでしょう」と非常によく似ている。

大泉洋が企画に振り回され、文句を言いながら旅を続ける。藤村ディレクターたちも、快適な場所から指示しているわけではない。同じ車に乗り、同じ距離を移動し、同じ疲労を共有する。

誰も本気で前向きではない。

それでも全員が、その世界から降りない。

旅には目的地やルールがあり、企画としての大枠がある。しかし、ファンが何度も見返すのは、目的地へ到着する瞬間だけではない。

移動中の会話、不満、疲労、食事、どうでもいい言い争い。企画上は何も起きていない時間が、むしろ番組の中心になっていく。

旅が面白いのではなく、旅によって人間関係が長時間むき出しになることが面白い。

「うじとうえだ」と「水曜どうでしょう」は、振り回される側へ視聴者の視点を固定し、その先に広がる余白へ長く滞在させるという構造を共有している。

違うのは、視聴者へ与えられる席である。

「水曜どうでしょう」では、視聴者は旅へ同行する感覚が強い。

一方、「うじとうえだ」では、旅や企画を近くから眺める、居酒屋の常連客に近い。

くりぃむしちゅーのオールナイトニッポンとの共通点

「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」にも、似た構造がある。

有田が暴走し、上田がリアクションする。リスナーは上田の気持ちを理解しながら、有田側に加わり、投稿や悪ノリによってさらに上田を困らせる。

そこでは、

「有田対上田」

ではなく、

「有田とリスナー対上田」

という共犯関係が成立する。

しかし、それが上下関係や一方的ないじめに見えない。

上田は場を支配できる側の人間である。進行能力も言語化能力も高く、暴走を止めようと思えば止められる。

それでも文句を言いながら、その遊びから降りない。

上田は単なる被害者ではなく、嫌がる役を引き受けながら、番組世界を成立させる受け皿になっている。

その土台には、有田と上田が同級生として長くふざけ合ってきた関係がある。二人の間に、多少の悪ノリでは壊れないという信頼があり、その安全性がリスナーにも伝わっている。

氏原、大泉洋、くりぃむ上田には、共通する人物像がある。

嫌だと言う。

文句を言う。

しかし、その場から降りない。

嫌がる人がいることで、視聴者の常識や戸惑いが世界の中に残る。全員がノリノリなら、視聴者は内輪の熱狂に置いていかれる。

一方、嫌がりながらも最後には楽しむ人がいることで、「嫌だけど面白い」という矛盾した感情を共有できる。

「くりぃむANN」における視聴者の席は、「うじとうえだ」や「水曜どうでしょう」よりも能動的である。

「うじとうえだ」では近接した傍観者、「水曜どうでしょう」では同行者、「くりぃむANN」では悪ノリへ参加できる共犯者になる。

3つのコンテンツが共有する構造

媒体や企画は違っても、3つには共通する流れがある。

まず、振り回される人物が、視聴者の感情移入先になる。

その人が「嫌だ」「面倒だ」と反応することで、初めて見る人にも世界への入口が与えられる。

次に、長い時間を一緒に過ごすことで、企画では埋まらない余白が生まれる。

その余白の中で、偶発的な会話や反応、人間の格好悪さや愛嬌が見えてくる。

編集や進行を担う仕掛け人は、その偶発性を丁寧に拾い、人間としての魅力へ変換する。

視聴者の関心は、次第に「何が起きるか」から「この人たちはどう過ごすか」へ移る。

その結果、企画の結末を知った後も、同じ世界へ何度も戻りたくなる。

企画が初回視聴を生み、余白が継続視聴を生む。

この両方を兼ね備えていることが、3つのコンテンツの稀有さなのだと思う。

ファンは顧客ではなく、世界観の共有者になる

一般的にファンビジネスは、LTVによって評価される。

どれだけ長く商品やコンテンツを購入してくれるか。継続的にグッズやイベントを供給し、それに対してファンがどれだけ消費行動を取るか。

もちろん、「水曜どうでしょう」のDVDやグッズのように、この3コンテンツでも消費行動は起きている。

しかし、そのファンの強さは、購買だけでは捉えられない。

公式から新しい供給がなくても、ファンは過去作を繰り返す。内輪の言葉を使う。出演者の別の活動を追う。ファン同士で記憶や解釈を共有する。

供給が止まっても、その世界から退出しない。

彼らは、世界観を受け取る消費者ではなく、自分の記憶や会話、再視聴によって、その世界を一緒に維持する共有者になっている。

「くりぃむANN」は終了してから長い時間がたっても、番組のファンが、くりぃむしちゅー本人たちのイベントや活動へ足を運ぶ。

「水曜どうでしょう」も、新作が出る間隔は長い。それでも過去作は繰り返し見られ、DVDやグッズ、イベントを通じて、強いファン層が残り続けている。

新しいコンテンツが出たとき、彼らをゼロから呼び戻す必要はない。

ずっと世界の中にいた人たちが、久しぶりに開かれた祭りへ、一気に集まってくる。

ファンが世界を維持するから、低頻度の新作でも成立する

通常のエンタメでは、供給頻度が落ちれば接触が減り、ファンの関心も薄れやすい。

だから、新しい作品や話題を出し続け、関係を維持しなければならない。

しかし、この3コンテンツでは、因果関係が少し逆になっている。

新作がファンを維持するのではない。

ファンが世界を維持しているから、低頻度の新作でも成立する。

既存作品や隣接コンテンツの中で楽しみ続けているため、何年かに一度、新作やイベントが提供されれば、即座に反応できる。

この強い反応があるからこそ、作り手側も、毎週や毎月ではなくても、新しいコンテンツを作り続けることができる。

ただし、頻度は高ければよいわけではない。

無理に供給を増やし、企画が義務化され、関係性の自然さが失われれば、ファンが愛していた世界そのものが壊れてしまう可能性がある。

本当にまた集まりたくなったときだけ集まる。

その自然さも、この世界を守る一部なのかもしれない。

この世界は、意図的に設計されたのか

このようなファンダムが、最初から戦略的に設計されていたとは考えにくい。

もともとは、企画を作り、そこから出演者のリアクションを引き出すことが出発点だったはずである。

しかし、試行錯誤を続ける中で、企画とは直接関係のない会話や人間性にファンが反応する。その反応を作り手が理解し、次の編集や企画へ反映する。

企画を作る。

人間性が偶発的に現れる。

ファンが反応する。

作り手が、何が愛されているのかを理解する。

その魅力を、次のコンテンツでより丁寧に見せる。

こうした循環を通じて、世界観は徐々に形成されていったのではないか。

制作側だけが世界を作ったわけではない。ファンもまた、何に反応し、何を繰り返し語るかによって、その世界の輪郭を強めていった。

作り手とファンが、少しずつ世界を共同で育てた。

再現するために必要なのは、愛情のある視点

振り回す企画や長尺動画という形式だけなら、模倣できる。

しかし、同じようなコンテンツが大量に生まれていないのは、その形式だけでは世界観が成立しないからだと思う。

最も重要なのは、仕掛け人が、巻き込む相手に対して愛情を持っていることではないか。

相手の面倒さや格好悪さを、笑いものとして消費するのではなく、人間としての魅力として見ていること。

その視線が伝われば、振り回す行為は、仲間同士の遊びや共犯関係として受け取られる。

しかし、そこに愛情がなければ、同じ構図でも緊張感が生まれる。

格好悪さは愛嬌ではなく、嘲笑になる。

文句はじゃれ合いではなく、本気の抵抗に見える。

振り回しは仲間内の遊びではなく、上下関係や搾取として映る。

視聴者は、そのわずかな温度差を感じ取る。

愛情を持って相手を観察し、その人の魅力を壊さずに外部へ翻訳できる仕掛け人は、決して多くない。

だからこそ、このような世界は乱立しない。

何度でも帰れる、小さな世界

「うじとうえだ」「水曜どうでしょう」「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」。

3つのコンテンツは、媒体も規模も異なる。

それでも、共通しているのは、企画や情報を消費させるだけではなく、人物関係の中へ視聴者を長時間滞在させたことである。

企画によって入口を作る。

嫌がる人物によって、視聴者の視点を固定する。

余白によって、人間性を見せる。

愛情ある編集や進行によって、その人間性を魅力として伝える。

そして視聴者に、傍観者、同行者、共犯者という、それぞれの席を与える。

そうしてファンは、顧客から世界観の共有者へ変わっていく。

新作がなくても、過去作の中で過ごせる。

供給が止まっても、世界から出ていかない。

久しぶりに新しいコンテンツが生まれれば、すぐに戻ってくる。

巨大な世界を次々と拡張する必要はない。

何度訪れても居心地がよい、小さな世界を作ることができれば、その世界は作品の終了後も、ファンの中で生き続ける。

強いファンとは、多くのお金を使う人だけではない。

供給が途切れた後も、その世界を自分の中に残し、また扉が開く日を待ちながら、そこで楽しみ続ける人なのだと思う。

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何度も見たくなる感情を、ファンビジネスとしてもう少し構造的に見たい方はこちら。

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繰り返し見たくなるコンテンツが、ブランドへ育つ条件が気になった方はこちら。

<おすすめ記事③>
知っている話だけでなく、知らない話まで自分ごとに感じる仕組みに興味がある方はこちらもぜひ。

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