なぜちゃんと「伝えた」はずなのにズレるのか
仕事をしていると、こういうことがよく起きていないでしょうか。
「当然、ここまでやってくれると思っていた」
「そこまで求められているとは思っていなかった」
なぜかズレる。
どちらかが不誠実だったわけではありません。
説明しなかったわけでもない。
話を聞いていなかったわけでもない。
ちゃんと話した。伝えた。
そして相手も「わかりました」と言った。
でも、ズレます。
「ちゃんと伝えたはずなのに、思っていたものと違う」
「言ったはずなのに、全く進んでいない」
そんなことが起きると思います。
なぜなのか?
それは、伝えた🟰理解した🟰実行、という全く別次元のことをイコールで考えてしまっているから、です。
この「伝えた」と「理解した」の間では、本当は何が起きているのかを、「理解のプロセス」に沿って見ていきたいと思います。
「わかりました」は、「受け取った」程度でしかない
そもそも私たちは、
「話した=同じものを理解した」
と考えすぎているのかもしれません。
そしてもう一つ大事なのは、
「わかりました=理解した」でもない、ということなのです。
「伝える」とは、実は、相手の理解度を測ることです。
たとえば、上司が部下に言います。
「来週の経営会議で使うから、今月の売上をまとめておいて」
部下は「わかりました」と答える。
一見、コミュニケーションは成立しているように思いますが、この時点で起きていることは、
上司:伝えた
部下:受け取った
単純にここまでです。
「わかりました」は、
「あなたが言った言葉は聞き取れました」かもしれない。
「依頼されたことは認識しました」かもしれない。
「私はこういう意味だと理解しました」かもしれない。
当たり前と言えば当たり前なのですが、
「わかりました」は、自分と相手の理解が一致したことを証明する言葉ではない、ということです。
しかも、もっと厄介なのは、本人でさえどの意味で「わかりました」と言っているのか、意識して話していることはないということです。
日常生活で私たちは、このような言葉というものを共通の定義もなく「各自の勝手な定義で」用いて(その定義が相手と異なっていることすら意識しないで)・・・・・議論しているのです。
これは、メールでいえば、伝えた🟰「送信した」、わかりました🟰「受信した」くらいのものだと思っておく方がいいのではないかと思います。
メールを受信したからといって、相手が見たか、内容を理解したかまではわかりませんし、送信した時点で「相手は理解した」と思う人も、まずいないはずです。
でも、現実のやり取りでは、至るところでこんなことが起きていることによる、コミュニケーションエラーが起きてはいないでしょうか。
送信した時点で相手がそれを見て、さらに理解・納得までしている、ということを「期待」してしまうのです。
「伝えた」と「伝わった」は違うとよく言いますが、そもそも「伝わった」とは何がどうなったら、伝わったというのか?その定義すら怪しいのです。
「わかりました」から「実践」までのプロセス
人が何かを受け取り、それを理解し、行動に変えていくまでには、こんなプロセスがあると考えています。
認知 → 思考 → 理解 → 対話 → 実践
認知
何を見たか。何を聞いたか。何を受け取ったか。
思考
受け取ったものについて、どう考え、どう意味づけたか。
理解
「つまり、こういうことだ」と、自分の中で構造として捉えられた状態。
対話
自分の理解を外に出し、他者の理解と照らし合わせ、修正する。
実践
理解したことを、実際の行動に変える。
こうして並べてみると、
「わかりました」
「承知しました」
は、理解の完了ではなく、まだ認知のフェーズにいるだけかもしれないのです。実践に向かう、ほんの入り口に過ぎません。
ところが仕事では、この入り口を「理解した」と取り違え、
認知 ─────────→ 実践
と、一気に飛ばしてしまう。
そして仕事が出来上がってから、
「思っていたものと違う」 とか
「言ったはずなのに、全くできてない…」
という悲劇が起きます。
人は、自分の前提を使って「理解」する
先ほどの例で言うと、
上司の頭の中には、
売上実績、予算との差異、先月との比較、増減した理由、来月に向けた論点まで整理された、経営会議でそのまま議論できる資料が浮かんでいたとします。
一方、部下は、
店舗別の売上を集計し、見やすくExcelに整理する。
そこまでが仕事だと理解した。
数日後、資料を見た上司は、
「え、これだけ?」
部下は、
「言われた通りやったのに……」
となってしまいます。
人は受け取った情報に、
これまでの経験。
自分の常識。
仕事に対する基準。
過去に同じ仕事をしたときの記憶。
以前の上司から求められていたこと。
そうしたものを重ねながら、
「つまり、こういうことだろう」
と意味づけます。
先ほどの例なら、
上司にとっては、
「売上をまとめる」
=数字+差異+原因+次に考えるべきことまで整理する
だった。
一方、部下にとっては、
「売上をまとめる」
=売上データを見やすく一覧にする
だった。
同じ「売上をまとめる」という言葉を使っている。
でも、その言葉からつくられた具体像は当然違います。
対話によって初めて「理解のズレ」が見える
では、依頼したあとに上司が、
「ちなみに、どんな形でまとめようと思ってる?」
と聞いていたらどうでしょう。
ここで部下の中でも「思考」が起こります。
質問されることにより、改めて解像度を上げることができるかもしれません。
「店舗別の売上をExcelに一覧にして、前月比も入れようと思っています」
ここで初めて、上司は自分が思い描いていたものと、部下が思い描いたものが違うのだ、と言うことに気づけます。
そうすると思考し、
「今回は経営会議で使いたいから、数字だけじゃなくて、予算との差と、その原因についてもあなたなりの仮説を入れてほしい」
と伝えられる。
すると部下も、
「あ、そこまでが今回の仕事なんですね」
ここで、部下の理解が更新されます。
これが「対話」です。
このような、互いの理解と思考の循環をすっ飛ばしているケースが多いのではないでしょうか。
認知 → 思考 → 理解 → 対話 → 実践
ではなく、
認知 ─────────→ 実践
になっています。
対話とは、自分の中にある理解を外に出し、相手の理解と照らし合わせ、必要なら更新すること。
理解は、頭の中にあるだけでは見えません。
言葉にして外に出したとき、初めて、
「同じだと思っていたけれど、違った」
ということが見えてきます。
そして、実践してからも理解は更新される
実際にやってみると、新しいことが見えてきます。
私自身も何度も同じようなことを経験しました。あれー言ったことが全然違う形で実行されている、、なるほど、これはわかっているけど、ここはわかっていないのだな、であれば、依頼の時にはここまで言うべきだったな、とか、
このエラーは、スキルではなくスタンスの問題で起こっているから、まずはこれをやる目的や意義、期待をきちんと伝えなければならないな、とか、互いの「共通理解」と個人の「育成」について、実行するべきことが見えてきます。
自分では言った、伝えたつもりだったのだけど、一向に進行する気配がないなあ、と言ったこともありました。それはまた伝えればいいのですが、何がどうなってそれが起こっているのか?プロセスの中でどこが止まってしまっているのか?を確認します。
認知 → 思考 → 理解 → 対話 → 実践
は、一方向に一度進んで終わるものではありません。
実践する。対話する。理解が変わる。また実践する。
この往復によって、お互いの理解は少しずつ近づいていきます。
「ちゃんと伝えたのに」と思ったときに、見てほしいこと
こうして理解のプロセスから見てみると、
「ちゃんと伝えました」
という言葉の見え方も変わってきます。
自分は説明した。相手も聞いた。
「わかりました」と答えた。
でも、それはまだ、
認知、に過ぎないかもしれないし、その可能性の方が高い、ということなのです。
そこから相手が、
何を重要だと捉えたのか。
どう意味づけたのか。
どんな完成形を思い浮かべたのか。
自分は何をすべきだと理解したのか。
そこまでは、まだわかりません。
「どういうふうに理解した?」
「どんな完成形をイメージしてる?」
「まず何からやろうと思ってる?」
「どこまでできたら完了だと思ってる?」
と聞いてみる。
相手を試すためではありません。信頼していないわけではありません。
お互いの理解を「見える」ようにするためです。
え、わかりましたって今言ったけど、本当にわかったの?何がどうわかったの?今のでわかるの?ほんとにわかった?
本当にこんな言い方だったら、ちょっとウザいですが笑、しかし、これくらいの心づもりでいても十分なのではないかな、と思います。
言葉とは、本来それくらい曖昧なものです。
同じ言葉を同じ定義で使っているつもりでも、実はまったく違う認識で使っていることもあります。そして、その理解を深めていくためにあるのが、対話です。
ズレることが問題なのではない
私は、認識がズレること自体は、それほど問題ではないと思っています。
人はそれぞれ違う経験を持っています。
見えているものも違う。
持っている基準も違う。
同じ言葉から思い浮かべる具体像も違う。
だから、最初から完全に同じ理解になる方が難しい。
問題なのは、
ズレていることに気づかないまま、実践まで進んでしまうこと。
そして最後になって、
「そんなつもりじゃなかった」
「そこまで聞いていない」
「普通ここまでやるでしょう」
「言われたことはやりました」
となる。
これは能力や姿勢の問題として片づけられがちですが、その前に、
理解のプロセスのどこかを飛ばしていなかったか
を見る必要があります。
「伝える」から「理解をつくる」へ
コミュニケーションというと、
「どう伝えるか」
に注目されることが多いように思います。
もちろん、伝え方は大切です。
でも、どれだけ上手に伝えても、相手は自分とまったく同じ経験や前提を持っているわけではありません。
だから、
伝えるだけでは、共通理解はつくられません。
自分には何が見えているのか。
相手には何が見えているのか。
それぞれが、そこからどう考えたのか。
どんな理解になっているのか。
それを外に出し、照らし合わせる。
違っていたら、更新する。
そして、やってみる。
認知 → 思考 → 理解 → 対話 → 実践。
「ちゃんと話したのに、なぜかズレる」
そんなとき、
「ちゃんと伝えたのに、相手がわかってくれなかった」
で終わらせるのではなく、
理解のプロセスの、どこでズレたのだろう?
と考えてみる。
「話した=同じものを理解した」ではない。
「わかりました=理解した」でもない。
その前提に立つだけで、仕事の中で起きているたくさんの「認識のズレ」は少し違って見えてくるのではないでしょうか。
共感ポイントがあったら、ぜひいいねやコメント、シェアで教えてもらえたら嬉しいです!
こちらの記事もオススメです。ぜひ合わせて読んでみて下さい。
