落下の解剖学 考察|ラストの意味と、日本と海外で解釈が真逆になっている3つのこと
この記事は、途中からネタバレになります。
境界の手前までは、まだ観ていない方が読んでも大丈夫なように書きました。「ここから先はネタバレです」と大きく書いてある場所から下は、結末まで全部触れます。
先に、この記事で何を書くのかだけ言っておきます。
『落下の解剖学』の考察記事は、日本語でもうたくさんあります。私も読めるだけ読みました。そのほとんどが同じことを書いています。「真相はわからないまま終わる」「犬がすごい」「男女が逆だったら印象が変わる」「言葉の壁の話だ」。どれも間違っていません。ただ、それはもう誰かが書いています。
だから私は、別のところを掘りました。
この映画について、日本の観客と海外の観客が、正反対のことを言っている場所が3つあります。
それも「なんとなくそう見える」ではありません。英語圏の公式ディスカッションスレッドの上位535コメントを1件ずつ数えました。Letterboxdの153万件とFilmarksの5万2千件の評点分布も突き合わせています。
正直に書いておくと、件数を数えたのは英語圏だけです。日本側は読んで回った結果で、こちらは数字ではありません。それでも、差がはっきり出ました。
観終わったあとにあった、あのモヤモヤ。あれは日本人だけが抱えているものかもしれません。
予告編(公式)
まだ観ていない方は、まずこちらをどうぞ。ギャガの公式チャンネルの日本版予告です。
基本情報
原題:*Anatomie d'une chute*(仏)/*Anatomy of a Fall*(英)
監督:ジュスティーヌ・トリエ
脚本:ジュスティーヌ・トリエ、アルチュール・アラリ
主演:ザンドラ・ヒュラー(日本の公式表記。海外報道では Sandra Hüller)
上映時間:152分
日本公開:2024年2月23日(配給:ギャガ)
主な賞:カンヌ国際映画祭 パルムドール/アカデミー賞 脚本賞

雪山の山荘で、男が3階の窓から落ちて死ぬ。妻は作家。息子は目が見えにくい。そして、この家にいたのはその3人と、1匹の犬だけだった。
事故か、自殺か、殺人か。裁判が始まります。
まず、この映画は「真相」を出しません
観る前に知っておいたほうがいいことを1つだけ。
この映画は、最後まで観ても「何が起きたのか」を教えてくれません。
これは私の感想ではなく、監督が最初からそう設計したと言っています。
「最初から語りの布地、骨組みはあった。殺人で告発された女の裁判になること、そしてそれが正確には決してわからないままになることは分かっていた。真実が裁判で追い立てられながら、決して手に入らない、そのほうがずっと面白いと思う。」
(ジュスティーヌ・トリエ/Cineuropa、フランス語インタビューより/出典)
別のインタビューでは、もっとはっきり言っています。
「いいえ。それは最初からの意図でした。観客として私は、うまく出来すぎているものが嫌いなんです。……この映画はイメージの欠如、ものの欠如の上に成り立っている。欠けているから、あなたはそれを幻想する。」
(トリエ/Slate、「真相を教えるバージョンを考えたことは?」という質問への答え/出典)
つまり、「答えが出なくてモヤモヤした」という感想は、この映画に対する正しい反応です。作り手がそう作っています。
ただ、そのモヤモヤの受け止め方が、日本と海外でまったく違う。 ここからが本題です。
公式が「犯人かどうか」の投票所を出していた
本題に入る前に、あまり知られていない事実を1つ。
北米で本作を配給したNEONは、公開時に didshedoit.com(=「彼女はやったのか?」)というサイトを作っていました。本編の冒頭カードでも宣伝されていたそうです。
中身はシンプルで、「ANATOMY OF A FALL / DID SHE DO IT? / YES・NO」という二択投票だけ。
そして、その結果が残っています。
YES 34% / NO 66%
(2023年11月2日時点。Jonathan Lackのレビューより)
3人に2人が「彼女はやっていない」と答えていました。
ちなみに、このサイトを紹介した当のレビューは、企画そのものを「愚かで子どもじみた枠組み」と批判しています。「二択に還元するな」という反発は、批評側ではむしろ定番でした。
なお、このドメインは現在失効していて、いま開くと別のサイトになっています。 アーカイブで実物を見ることはできます(Wayback Machine・2024年2月28日時点)。

ここから先はネタバレです
ここから下は、結末まで全部書きます。まだ観ていない方は、観てから戻ってきてください。
152分あります。でも、そのぶんの価値はある映画です。
日本と海外で、解釈が真逆になっている3つのこと
本題です。
私は、英語圏で最大の議論の場になっている Reddit の公式ディスカッションスレッド(r/movies、3,161コメント)から上位535コメントを取って、何がどれだけ語られているかを数えました。あわせて、Letterboxdの評点分布(153万件)、Filmarks(5万2千件)、映画.com、日本語のレビュー・note記事を追いかけました。
そうしたら、日本と海外で正反対になっている場所が3つ出てきました。

真逆①「事故だった」— 海外でいちばん票を集めた1件が、日本にはほとんど無い
まず、いちばん大きい違いです。
先に正確に書いておきます。言及の「数」でいえば、事故説は3説の最下位です(自殺71件・殺人70件・事故57件。内訳は後述の表)。
それでも、いちばん票を集めた1件のコメントは事故説でした。しかも上位は無罪側が独占しています。
公式スレッドで最も支持された解釈コメントがこれです。
「彼女が殺したとも思わないし、彼が自殺したとも思わない。ただ滑って落ちたんだと思う。」(1,447pt)
これに近い読みが上位に並びます。474ptのコメントは、血痕の鑑定が「小屋への激突」を裏づけていると読み解いています。754pt、406ptも無罪側です。逆に「彼女がやった」という主張は34pt〜57pt台に沈んでいます。 しかも34ptのコメントですら「たぶん事故的に」という留保つきです。
さらに精緻な「ボール事故説」というのもあります。
冒頭、階段をボールが跳ねて落ちてくる音がします。犬の足音もします。つまり父は屋根裏で仕事をしながら犬とボール遊びをしていた。ところが息子が犬を風呂に呼んで、遊びが中断される。残されたボールが背後にあって、立ち上がって振り返った父が足を取られた、 という読みです。
この説を出した人は、開いた窓の真下に置かれた電動工具の「明らかに意図的なショット」、評決の読み上げが消音されて代わりに犬の足音がかぶせられる音響設計、そして最後のショットが犬を撫でる場面であることを根拠に挙げています。
「この脚本はミスディレクションの傑作だ。……登場人物は全員この犯罪について無実で、残酷な偶然の被害者なんだ。」(162pt/出典)
そしてもう一点。票は21ptと少ないのですが、指摘として鋭いものがあります。タイトルの話です。
「タイトルは意図的だ。『Anatomy of a Murder(殺人の解剖学)』でも『a Suicide(自殺の解剖学)』でもなく、a Fall(転落) なんだ。」
ここ、補足が要ります。『Anatomy of a Murder』は、このコメント主がその場で考えた対比ではありません。1959年のオットー・プレミンジャー監督の実在の映画で、邦題は『或る殺人』。法廷劇の古典として知られる作品です。
つまり本作の原題は、その名作の題を1語だけ入れ替えたものなんです。Murder(殺人)を、Fall(落下)に。
これは私の思いつきではなく、複数の批評家が一致して指摘しています(Cineaste、Criterion、Commonweal、Écran Large)。しかも監督本人が「『或る殺人』に10年間、奇妙に取り憑かれてきた」と語っています。
「殺人の解剖学」ではなく「落下の解剖学」。題名の時点で、この映画は「殺人事件の話ではない」と宣言していたことになります。
ところが、この事故説が、日本語圏にはほとんど存在しません。
私が探した限り、日本語で事故説を正面から主張しているのは1件だけでした。「物書きの人間が遺書も残さず自殺するのは圧倒的に不自然」「妻の腕力では突き落とすのは困難」として不注意による転落を主張しているnote記事です(note・james_miles_jp)。
日本語圏の多数派は「どちらとも言えない」「真相はわからないまま」。次いで殺人説と自殺説が少数ずついる、という構図でした。
英語圏でいちばん票を集めた1件の答えが、日本ではほぼ誰も言っていない。
これが1つ目です。
なお、英語圏でも「事故と自殺のどちらが多数か」は決着していません。公式スレでは事故説が首位でしたが、「本当は何が起きたと思う?」という別スレッド(r/movies)では自殺説が首位でした。
「彼は自分の痛みを終わらせるために自殺した。そして最後の当てつけとして、サンドラが罪に問われる可能性のある形を選んだ。」(417pt)
「無罪側が多数派」までは言えます。でも「事故が多数派」とまでは言えません。ここは正確に書いておきます。

真逆②「息子の証言」— 日本は健気、海外は疑う
2つ目です。ここがいちばん面白いところだと思います。
ダニエルは最後に法廷で、獣医へ向かう車の中で父が話したことを証言します。犬はもう老いていて、いつまでも一緒にはいられない、父はそう言った、と。
これが決め手になって、母は無罪になります。
日本の受け止めは、ほぼ一色です。「健気だ」「エラい」。
「どっちに転んでも、エラいよダニエル」「ダニエルは逃げなかった」(note・安部スナヲ)
「息子のダニエル君が終始裁判を傍聴し、最後に証言したから勝ち取れた『無罪』」(note・ハイエナのねいねい)
「盲目=他者が見えないため、打算的な記憶の改変が少ない」 として、証言の信頼性をむしろ高く評価するレビューまであります(映画.com)
つまり日本では、目が見えにくいことが「記憶の純度が高い」根拠として読まれている。
ここで1つ、事実を挟みます。ダニエルは盲目ではありません。弱視です。
日本語のレビューでは「盲目の息子」と書かれることが多いのですが、原語でも英語字幕でも「視力が弱い(malvoyant / reduced eyesight)」です。真実は「見えない」ものではなく「見えにくい」もの。この差が、この映画では効いています。
海外は、正反対の読み方をします。
「ダニエルは、父との車中の会話の部分を作ったと思う。だから彼の声・彼の言葉が、父の口から出ていたんだ。」(117pt/出典)
回想の車中シーンを思い出してください。父の口は動いているのに、聞こえているのはダニエルの声です。
これは演出の事故ではありません。「これはダニエルが再構成した記憶である」という宣言として読める、というのが海外の有力な副次読みです。批評サイトでも同じ指摘があります(Senses of Cinema、ScreenRant)。
根拠はほかにもあります。ダニエルは証言の前に、付添人に「母が帰ってくるのが怖かった」と漏らしています。無条件に母を信じていたわけではないんです。
そして、犬を危険にさらしてまで実験をしたという行動。これも「結論を先に決めて、材料を作りに行った」と読めてしまう。
日本は「見えにくいから記憶が純粋だ」と読み、海外は「見えにくいから記憶を作れる」と読む。
同じ場面を見て、まったく逆の方向に解釈が振れています。
公平に書いておきます。日本語圏にも、同じ読みはあります。
「愛犬を危険にさらしてまで、母親に有利なストーリーを作ったのだと私は見ました」(note・ほりもぐ)
ただ、数が違います。日本語圏では見つけるのに苦労するくらい少なく、英語圏では知っている人には常識レベルです。
なお海外でも捏造説は多数派ではありません(先ほどの535件中18件)。ただし別の質問スレッド(「息子の証言を要約してくれませんか」)では、1位の素直な解釈(145pt)に次ぐ2位(117pt)につけています。

真逆③「気まずい」— 英語圏では、ほぼ誰も言っていません
3つ目。これは検索する人がいちばん多いところかもしれません。
「落下の解剖学」でGoogle検索すると、サジェストに 「落下の解剖学 気まずい」 が上位で出てきます。
この「気まずい」、英語圏にはほぼ存在しません。
先ほどの公式スレッド535コメントのうち、「uncomfortable / awkward / cringe / hard to watch」系の言及はわずか3件でした。しかもその3件も、
「うん……リアルすぎる(でもだからこそ素晴らしいんだ、演技も凄い)」(27pt)
という、褒め言葉としての「きつい」です。「気まずい映画」という受け止めではありません。
では日本の「気まずい」は何なのか。調べると2種類ありました。
A:法廷で私生活が丸裸にされる気まずさ
録音された夫婦喧嘩を、法廷で息子本人に聞かせるという構図。
「あの壮絶な夫婦喧嘩の録音を聞くハメになるとは、子どもの気持ちになると本当に不憫」(映画.com・こたーさん)
サンドラのバイセクシュアリティや不倫を、検察が「人格の証拠」として使ってくる場面もここに入ります。
B:一緒に観ている相手との気まずさ
「ひとりで良かった…家族だと微妙な空気になったかもしれません」(ameblo)
そして、はっきり否定しているレビューもあります。
「あくまで私個人の感覚となりますが、男女の絡み系で気まずいシーンは、ありませんでした!」(うみの映画ブログ)
つまりサジェストの「気まずい」の実需は、たぶん「家族や恋人と一緒に観ても大丈夫か(=性的なシーンがあるか)」という事前検索です。
答えを書いておきます。性的な意味で気まずいシーンは、ありません。 あるのは、夫婦の内面が法廷で公開処刑される気まずさです。
では、海外の観客は同じ場面を見て何を感じていたのか。
怒っていました。 対象はフランスの司法制度です。535件中40件がここに集中していて、しかもスレッド全体の最多得票がこれです。
「フランスの司法制度が実在するわけないだろ(笑)」(3,138pt=スレ最多得票)
「検察は基本ずっと『彼女、殺人犯っぽくないですか?』と言い続けてて、裁判長は『はい認めます』って感じだった」(2,774pt)
(米国の法廷弁護士による)「アメリカの訴訟弁護士として、ずっと『異議あり、憶測です』『異議あり、議論を呼びます』と頭の中で言い続けていた」(762pt)
Letterboxdでも同じです。
「フランスの裁判やばすぎだろ、小説読んだりパネルディスカッションしたりしてる」(35,294いいね/David Sims)
同じシーンを見て、日本人は「気まずい」と言い、英語圏は「フランスの司法は狂ってる」と怒る。
日本の観客は、それを自分たち側の居心地の悪さとして引き受けている。海外の観客は、制度の問題として外に投げている。この違いは、けっこう深いところを突いていると思います。

ついでに:点数も、日本のほうが辛い
解釈だけでなく、評価そのものも割れています。
評点 / 海外 Letterboxd 4.12 / 5(153万件) / 日本 Filmarks ★3.6(5万2千件)
分布 / 海外 ★4以上が 76%、★2以下は3% / 日本 4.1以上は14%、3.1〜4.0に68%が集中
※2つのサイトは刻みが違うので、境目(★4/4.1)はぴったり同じではありません。それでも「上位帯にいる人の割合が5倍以上ちがう」という差は動きません。
海外では「4点台の傑作」、日本では「3点台の良作」。同じ映画とは思えない差です。
日本の低評価の中身を読むと、「意味不明」ではなく「モヤモヤする」「長い」に集中していました。
「淡々と進行するので若干退屈。真実が結局分からずモヤモヤ感が残る」(Filmarks・3.0点)
「ミステリーを期待していたらヒューマンドラマのまま終わってしまって残念」(Filmarks・3.0点)
「パキっと終わらないから、もういいや」(映画.com・3.5点)
「答えが出ない152分」を、日本の観客は海外より減点している。
これは日本の観客が鈍いという話ではまったくなくて、たぶん「考察」という文化の作法の違いです。日本では「考察」は答えに辿り着くための作業として期待されている。だから答えが用意されていないと、裏切られたように感じる。
海外の議論を読んでいると、そもそも答えに辿り着くつもりがないんですよね。犯人論より、犬の話をしています。

海外でいちばん語られているのは、犯人でも真相でもなく「犬」
数えていて、いちばん驚いたのがこれでした。
英語圏の公式ディスカッションスレッド、上位535コメントの内訳です。
犬(dog / Snoop / Messi):119件
自殺説:71件
殺人説:70件
事故説:57件
フランスの司法制度・検察官:40件
「曖昧さこそが主題」:28件
アスピリン・嘔吐:21件
ダニエルが証言を作った:18件
犯人論の3説を全部足しても198件。単独のテーマとしては「犬」が最多です。
代表的なコメントを並べます。
「あの犬にオスカーをやれ!」(2,234pt)
「犬の名前がスヌープだってことがどうしても頭から離れない」(909pt)
「アスピリンを飲ませた理由をダニエルが説明したときのスヌープの顔がプライスレス。明らかに『なんでそれがいい考えだと思ったんだよ』って顔してた」(373pt)
Letterboxdでも上位は犬です。
「エンドクレジットの先頭が犬なの 10/10」(28,029いいね)
「もう犬用のオスカーを作るしかないだろ」(22,152いいね)
そして、Letterboxdでこの映画のレビュー全体の中で最もいいねを集めたのは、犯人論ですらありません。
「屋根裏で夫がビート作ってるDJかと思った」(56,353いいね)
5万6千です。この映画がどう受け止められたかを、これ以上ないほど象徴しています。
同じ趣旨のコメントがRedditにもあります。
「P.I.M.P. のジャズカバーにノリすぎて、そのまま窓から踊り出ちゃったんだよ」(313pt)
日本の考察記事を読んでいると、この温度は絶対に出てきません。海外の観客は、この映画をもっと軽く、もっと長く遊んでいます。
犬は、監督の設計上「ダニエルの目」であり「サミュエルの亡霊」
ふざけた話ばかりではありません。スヌープの位置づけについては、監督本人がはっきり語っています。
「彼は本物の登場人物です。同時に、彼はサミュエルの亡霊のようなものでもあり、ダニエルの眼差しでもある。ダニエルには見えないけれど、犬はもちろん見えている。ただし話せない。」
(ジュスティーヌ・トリエ/Dogtime(Filmmaker Toolkitポッドキャストでの発言))
この家で起きたことを全部見ていた唯一の存在が、話せない犬だった。
そう考えると、映画の最後のショットが「犬を撫でる場面」であることの意味が変わってきます。真実を知っている者は、最後まで何も言わずにそこにいる。

あのアスピリンの場面は、結局なにを証明したのか
ダニエルは、以前スヌープが原因不明で嘔吐して死にかけたことを思い出します。父の嘔吐物(=大量のアスピリンを飲んだ跡)を犬が舐めたのではないか。
そう疑ったダニエルは、自分でスヌープにアスピリンを飲ませて再現実験をします。犬は同じ症状で昏睡状態になり、塩水を飲ませて吐かせて回復させる。
これでダニエルは、「父には過去に自殺未遂があった」という母の証言が本当だったと確信します。
これが多数派の読みで、英語圏の解説サイトも日本語の考察記事もここは一致しています。
ただし、少数の懐疑論があります。
ダニエルの証言全体が「母を守るために作られた真実」だとしたら、この実験は結論ありきのアリバイ作りになります。先ほどの捏造説と接続すると、実験そのものの意味がひっくり返る。
技術的なツッコミもあります。
「アスピリン10錠程度で自殺は無理だ。それに自殺するなら、バルコニーから身を投げるような暴力的な方法は選ばない」(109pt)
「犬は無事だったのか」という心配については、はっきり書いておきます。投薬は一切していません。
演じたのはフランス在住のボーダーコリー メッシ。トレーナーは Laura Martin Contini。2か月間の毎日の訓練で、「脱力して運ばれる」「死んだフリをする」を段階的に習得させています。嘔吐物は作り物です。
トレーナーは、ボール遊びのあとのメッシの舌の様子から着想を得たと語っています(Variety、Kinship)。あの脱力した舌は、演技ではなく本物の疲労だったわけです。
ちなみにメッシは、2023年のカンヌで パルム・ドッグ賞 を受賞しています。
ただしこれ、カンヌの公式賞ではありません。2001年に映画ジャーナリストが勝手に作った独立の賞で、賞品は革の首輪です。「カンヌで犬の賞を獲った」と紹介されることが多いのですが、正確には「カンヌの会期中にやっている非公式の賞」です。

ラストの意味:マージは「物語を作れ」とは言っていない
ここが、この記事でいちばん書きたかったところです。
証言の前、ダニエルは付添人のマージに縋ります。この会話が、この映画で最も重要な場面だと私は思っています。
そして、この場面は多くの考察で誤って要約されています。
英語字幕の該当箇所を、そのまま引きます。
ダニエル「母さんが父さんを殺したと思う?」
マージ「私が判断することじゃない。……答えられない。私の役目はあなたを守ることで……」
ダニエル「頼むから助けてよ!」
マージ「そうね……何かを判断するための要素が欠けていて、その欠落が耐えがたいとき、私たちにできるのは『決める』ことだけ。 わかる? 疑いを乗り越えるために、時にはどちらか一方に傾くと決めなければならない。ひとつのことを信じる必要があるのに、選択肢が二つあるのだから、選ばなければならない。」
ダニエル「じゃあ、自分の信念を発明しなきゃいけないってこと?」
マージ「ええ、まあ……ある意味では。」
ダニエル「つまり、確信がないのに、確信があるふりをしろってこと?」
マージ「違う。違うわ。私が言っているのは『決める』ということ。それは別のこと。」
原文はこうです。
DANIEL: So you have to invent your belief?
……
MARGE: No. No, I'm saying decide. That's different.
(トランスクリプト)
ここです。
ダニエルは「invent(発明する)」と言い換えました。マージはそれを明確に否定しています。「違う。私が言っているのは decide だ。それは別のことだ」と。
多くの考察が、この場面を「ダニエルは自分で物語を作ることにした」と要約します。でも映画自身は、「発明」と「決断」を別のものとして扱っている。 わざわざ言い直させて、わざわざ否定させています。
では、その2つは何が違うのか。
「発明」は、無いものを作ること。 つまり嘘です。
「決断」は、あるものの中から選び取って、その責任を引き受けること。
ダニエルは嘘をついたのではなく、確信できないまま、それでも一方に賭けることを引き受けた。 そして賭けた以上、その結果を背負うことになります。
批評家の Alexander Stern は、これを実存主義の「信仰の跳躍」として読んでいます。
「この実存主義的な助言(実質的には信仰の跳躍をせよということ)は、理論理性より実践理性を上に置く。それは、判断が最終的に、非人格的で似非客観的な権威へ誠実に押しつけることのできない類の責任を伴うことを明らかにする。」
「わからないから、裁判所が決めてくれ」では済まない。決めるのは、最後は自分だ。

では、ダニエルは嘘をついたのか(読みは3つに割れています)
とはいえ、「あの車中の会話は本当にあったのか」という問いは残ります。
「なかった」と読む立場があります。Den of Geek の Rosie Fletcher です。
「獣医へ向かう車中の父子の会話には目撃者がいない。父はもちろん死んでおり、スヌープは犬だ。……ではあの会話は本当にあったのか。それは各人が決めることだが、我々の見立てでは、なかった。ダニエルは、母は無実だと信じることを決めたのだ。」
「物語の後半を語る前のダニエルの躊躇は、彼がここで決断していることを示唆する。真実でありうるが、証明は不可能で、しかし莫大な感情的重みを持つ物語を語る、という決断を。」
たしかに、この映画のルールで言えば、あの証言だけが「誰にも裏を取れない唯一の証言」です。
逆に読む立場もあります。フランスの『カイエ・デュ・シネマ』の Charlotte Garson は、ダニエルを「歯止め」として位置づけています。
「ダニエルという人物は、鍵となる証人でありながら弱視ゆえに二重に妨げられており、トリエが『視点の一般化された相対主義』に足を取られないために見つけた道を結晶させている。」
(AlloCinéのプレス欄に転載された1文。カイエ本体は有料のため、私は原文にあたれていません)
つまり、「全部が相対的で、真実なんてどこにもない」という虚無に映画が落ちてしまわないための錨が、ダニエルだという読みです。Den of Geek とは正反対の位置づけになります。
第三の位置もあります。Criterion の Alexandra Schwartz は、これを「大人になること」の物語として読みます。
「本作は女性と女性性の研究であると同時に、大人になるとはどういうことかの検討でもある。ある時点で、我々は皆、子どもの頃に習った物語を後に残し、芸術家のように、自分自身のために新しい物語を語らねばならない。」
ダニエルの決断は創作行為だが、それは成長の別名である。
私はどれを取るか。
マージが「decide だ、invent じゃない」と言い直した以上、映画は「作り話」という読みを一度は否定していると思います。 ただし、証明できないことを語るという行為は、決断であると同時に創作でもある。だから Schwartz の読みがいちばん近い、と思っています。
ダニエルは嘘をついたのでも、真実を知ったのでもない。選んで、背負った。 それだけです。
監督の答えは、二択の外にあります
「じゃあ結局、監督はどっちだと思っているのか」
これについて、トリエは明言を避け続けています。ただ一度だけ、第4の答えを示唆しています。
「本当の真実なんて誰にわかるでしょう?」
「もしかすると、サンドラは殺人については無罪でも、責任はあるのかもしれない。」
(The Wrap)
「無罪だが、無責任ではない。」
これは「やった/やっていない」の二択の外にある答えです。彼女は突き落としていないかもしれない。でも、あの夫婦のあの関係が彼を屋根裏へ追いやったのだとしたら、そこに責任はある。
同じ記事によると、トリエとアラリは執筆中にどんでん返しの追加を検討したものの、「よくない」「古臭い」として破棄しています。そして「疑いと、決めかねること自体」を主題に据えました。

おまけ:「監督は答えを知っているのか」問題
ここ、実は監督の発言が食い違っています。並べると面白いので書いておきます。
(A)2023年秋・Film Comment =「私も知らない」
「サンドラ(=主演のザンドラ・ヒュラー本人)が脚本について訊いてきた唯一のことは、この人物は有罪なのか無罪なのか、だった。私は『わからない』と答え、ただ無罪の人間として演じてほしいと言った。」
※ややこしいのですが、役名の「サンドラ」は、俳優のザンドラ・ヒュラーに当て書きしたためについた名前です。監督は最初から彼女しか考えていませんでした。
(B)2024年1月・ゴールデングローブ会見 =「共同脚本家と決めていた」(Entertainment Weekly)
「共同脚本家と一緒に、決めました。 でも現場で、俳優たちとそれを話さないことがとても重要でした。それは映画の要点ではないし、曖昧なものだからです。たとえば、彼女は彼を殺していないかもしれない。でも彼女が彼を自殺に追い込んだのかもしれない。可能性はたくさんある。そんなに白黒はっきりしたものではないんです。」
同じ会見で「彼女はやったのか?」と会場から叫ばれたトリエは、こう返しています。
「10年後に教えます。」
※この「決めた」という発言の出典は Entertainment Weekly の1媒体のみです。他で同趣旨の直接引用は見つけられませんでした。断定はしません。
矛盾しているように見えますが、私は矛盾ではないと思います。現場では答えを封じ、脚本部屋では作業仮説を置いた。 それだけのことでしょう。しかも(B)でトリエ自身が「白黒はっきりしたものではない」と言っている以上、二値の答えを持っているとは言っていないんです。
主演のヒュラーは、こう言っています。
「こういう会話(=観客が自分に有罪/無罪の説を語ってくること)は本当に好きです。たくさんのことが解決されていないから。作品は、それについての議論という形で、とても美しく続いていくんです。」
(Slant)

おまけ:主演のザンドラ・ヒュラーは、同じ年にもう1本ある
この人の2023年は、ちょっと異常でした。
同じ年、ヒュラーは『関心領域』にも主演しています。アウシュヴィッツ収容所の所長の妻。塀のすぐ向こうで何が起きているかを知りながら、庭の手入れをして、暮らしを整えている女です。
夫を殺したかもしれない女と、目の前の虐殺を見ないことにした女を、同じ年に演じた。
しかもどちらの役でも、彼女は説明も弁解もしません。観客が「この人は何を考えているのか」を勝手に読み取ろうとして、読み取りきれない。同じことが2本で起きています。
ちなみに本作は彼女に当て書きされています。監督は最初から彼女しか考えていませんでした。役名が「サンドラ」なのもそのためです。
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タイトルの「落下」は、何が落ちたのか
原題は *Anatomie d'une chute*。この「chute(落下・転落)」が何を指すのか。
フランスの批評家 Judith Beauvallet は、3つの層を挙げています。
「問題の名高い『chute』には複数の意味がある。第一に、もちろんサミュエルの死を引き起こした落下。だが法廷が解剖するもうひとつの chute は、ある夫婦の転落だ、幸福な過去が推し量れるが、鬱と暴力へと滑り落ちていった。そして最後に、ひとりの力ある女の転落、法廷という粉砕機によって少しずつ裸にされ、地に伏せられていく。」
①身体の落下 ②結婚の転落 ③一人の女の失墜。
そして監督自身が、「落下」への執着について、意外なことを語っています。
「落下への強迫観念。下から上へ、上から下へ、絶えず。この身体がどう落ちたのかを理解しようとして。私は10年間『マッドメン』のオープニングに取り憑かれていた。あれ自体がほとんど一本の映画だと思う。落ち続け、決して墜落しない男。」
「落ち続け、決して墜落しない」。
これ、この映画の構造そのものです。真相に向かって落下し続けるけれど、地面には決して着かない。監督が10年抱えていた映像イメージが、そのまま作品の形になっています。

法廷は、真実の場ではなく「フィクションが始まる場所」
もうひとつ、監督の発言で決定的なものがあります。
「法廷と司法の空間には、素晴らしくもあり同時にまったく不安にさせるものがある。それは、自分の人生が自分の代わりに語られ、人々の人生のカオスが語るために再編成されるという考えだ。そしてそこで語られるのは真実ではない。あれはフィクションであり、ひとつの物語だ。 拡大鏡のように、我々の人生の最も些細な細部まで探しにいき、最も無意味なものに意味を与えていく虫眼鏡のような。」
英語のインタビューでは、もっと踏み込んでいます。
「法廷は、フィクションが実際に始まり、真実を追い越していく場所だ。物語的な出来事とは、二つの異なるフィクションが並置され、広げられることなのだ。……法廷の状況で私が非常に魅了されるのは、私にとっては試写室よりも、むしろ執筆部屋に近い。フィクションが始まる場所だ。」
(Slant)
法廷を「執筆部屋」と呼んでいます。
検察と弁護側は、同じ素材から二つの小説を書いている。陪審はそのどちらが面白いかを選ぶ。だから劇中の「作家が夫を殺したほうが、教師が自殺したよりも面白い」という趣旨の台詞が刺さるわけです。
批評家の Alexander Stern は、映画と裁判の構造的な相同性を指摘しています。
「どちらも、人間が世界を掴む視点と感覚、とりわけ視覚によって限定された素材の集積(証言、あるいはショット)を提供する。対立する弁護士たちは、闘う監督たちのように、この素材を組み立てて二つの競合する物語を作る。 映画も裁判も真実を約束する。……だが結局は届かない。」
「トリエは裁判を、分析的に真実へ到達するよう設計されながらそれができない過程として提示する。……おそらくそれは、陪審員が我々だからだ。」
そして、この映画に、フラッシュバックは1回しかありません。 これは監督が明言しています。
「えっ、車の中のシーンは?」と思った方。あれはフラッシュバックではありません。ダニエルの証言を映像にしたものです。だから父の口が動いているのに、聞こえるのはダニエルの声なんです。録音された夫婦喧嘩も同じで、あれは「音声を法廷で再生している場面」であって、過去そのものではありません。
過去そのものが映るのは、この映画で1回だけ。
「この映画にフラッシュバックは一つしかない。ひとつのヴィジョンだけ。残りはすべて仮説で埋めようとする。」
観客に「本当のこと」を見せる場面が、たった1回しか用意されていない。あとは全部、誰かが語った言葉です。だから観客は、証言と証言の間を自分の想像で埋めるしかない。その作業を、映画は最初から観客にさせています。

作った二人自身が、壊れていく二人を書いた
最後に、この映画のいちばん奇妙な事実を。
脚本を書いたのは、監督ジュスティーヌ・トリエとアルチュール・アラリ。この二人は公私のパートナーです。つまり、
創作者のカップルが、崩壊していく創作者のカップルの話を、二人で書いた。
もちろん本人たちは否定しています。しかも、いい否定の仕方をします。
「映画はもちろん、私たちの生活からはるかに遠いです。彼はまだ生きてるし。」(トリエ)
「私たちは、この夫婦に自分の私生活を注ぎ込めるほど……面白い人間じゃないと思います」(トリエ)
ちなみに、あの夫婦喧嘩のシーンは何度も書き直されたそうです。ただしトリエ本人が語る回数が媒体によって食い違っていて、「15バージョン」とも「60バージョン」とも言っています。どちらにしても、あの数分に異様な時間をかけたことは確かです。
しかも、脚本の出発点はミステリーではありませんでした。
「最初の胚は、息子と母の関係、そして息子が『自分は母が誰なのか本当は知らない』と発見するという着想だった。 そこから、夫婦とは何かを深く真実に語る可能性が出てきた。」
(アラリ/Deadline)
「誰が殺したか」から始まった映画ではないんです。「母を知らないと気づいた息子」から始まっている。
そう聞いてから見ると、この映画の重心がどこにあるかがわかります。裁判はあくまで舞台装置で、本体はダニエルの話だった。
アラリは、最近のインタビューでこうも言っています。
「この考えは『落下の解剖学』の執筆の中心にもあった。何かを説明も理解もできないとき、人は真実に近づこうとする。そして近づこうとすればするほど、言葉と説明によって混乱を生み出してしまう。」
152分かけて、みんなで一生懸命に説明して、その結果いちばんわからなくなる。それを最初から設計として書いていた。
おまけ:映画の外で起きていたこと
本編と直接は関係ないけれど面白い話を、3つだけ。

① フランスは、自国のパルムドールをオスカーに出さなかった
本作はカンヌでパルムドールを獲りました。ところがフランスは、アカデミー賞国際長編部門の自国代表に本作を選ばなかった。 選ばれたのは『ポトフ 美食家と料理人』でした。
よく言われるのは、言語の要件です。アカデミー国際長編部門は「セリフの50%超が非英語」であることを求めます。本作は約59%がフランス語、約41%が英語でぎりぎりのラインで、委員会内で資格に疑義が出たと伝えられています。『ポトフ』は100%フランス語でした。
ただし、配給のNEONは要件を満たしていると確認していました。つまり「資格が無かったから落ちた」のではなく、要件は満たしていたのに落ちたという話です。
そして、もう1つの説があります。
本作がパルムドールを獲った2023年5月のスピーチで、トリエはフランス政府の年金改革の弾圧と、新自由主義的な文化政策を名指しで批判しました。これに対して当時の文化大臣リマ・アブドゥル・マラクが「唖然とした」「不当だ」と公然と反論し、論争はフランス議会にまで及んでいます。そして9月、代表から落選しました。
※念のため書いておくと、マラク自身は選考の投票委員ではありません。因果関係が証明されているわけではなく、あくまで「そう見られた」という話です。
結果どうなったか。本作は「国際長編賞」ではなく作品賞にノミネートされ、脚本賞を受賞しました。 一方の『ポトフ』はノミネートゼロで終わっています。
「フランス語じゃないから」と外された映画が、本丸のほうに入って賞を獲った。皮肉が効きすぎています。
※この「59%」という数字は、フランス語版Wikipediaが Variety を引用して記述しているもので、Variety本体の原記事は未確認です。
② 法廷で流れるあの曲は、当初「Jolene」だった
法廷でサンドラの小説と並んで分析される、あの大音量の曲。50 Cent の「P.I.M.P.」のスチールパン版インストです。
脚本の段階では、ドリー・パートンの「Jolene」でした。 ところが権利が取れず、撮影の1か月前に差し替えになったそうです。
「Jolene」は、夫を奪おうとする女に「お願いだから彼を取らないで」と懇願する曲です。あの場面で流れていたら、映画の意味はかなり変わっていたでしょう。
③ オスカー授賞式のメッシは、偽の前脚だった
2024年のアカデミー賞授賞式で、犬のメッシが客席にいて拍手をしている映像が話題になりました。
あれ、偽の前脚をスタッフが動かしていました。 トレーナー本人があとから明かしています。
まとめ
長くなったので、要点だけ置いておきます。
1. この映画は最初から真相を出さない設計。 監督が明言しています。「モヤモヤする」は正しい反応です
2. 英語圏で最も票を集めた1コメントは「事故説」(1,447pt)。日本語圏にはほぼ存在しません(言及数では自殺71・殺人70・事故57で、事故は最下位。それでも上位得票は無罪側が独占)
3. 息子の証言を、日本は「健気」と読み、海外は「捏造では」と疑う。 見えにくいことを、日本は「記憶が純粋な理由」に、海外は「記憶を作れる理由」にしています
4. 「気まずい」と言っているのは日本だけ。 海外は同じ場面で「フランスの司法は狂ってる」と怒っています
5. 海外でいちばん語られているのは、犯人でも真相でもなく「犬」
6. ラストの意味=マージは「物語を作れ」とは言っていない。「invent(発明)じゃない、decide(決断)だ。それは別のことだ」と言い直させています
7. 監督の答えは二択の外。「殺人については無罪でも、責任はあるのかもしれない」
観たあとにモヤモヤが残ったなら、それは映画が失敗したからではありません。あなたが、決めなければならない側に立たされたからです。
マージがダニエルに言ったことは、そのまま観客に言われています。
「私が言っているのは『決める』ということ。それは別のこと。」
あなたは、どちらに決めましたか。よかったらコメントで教えてください。
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(※文中の引用は、可能な限り原文(フランス語・英語)にあたって訳出し、出典を添えました。ただしカイエ・デュ・シネマの一文はAlloCinéの転載経由、Entertainment Weeklyの発言はYahoo転載経由で、いずれも媒体本体には到達できていません。その2つは本文中にもそう書いています。)
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