#006 終着点なき宗教論争 ~パワハラによる共存的停滞~
耳を澄ませば、どこか遠くで誰かが小さくドアをノックする音が聞こえるような、そんな午后だった。
達也の退社という事実についての報告は、彼とのあいだであの小料理屋の会食を終えた翌日には、早くも地球の裏側の本社と、このローカルの人事部へと滞りなく共有された。
ビジネスの世界というものは、常に明確な正解が用意されているわけではないし、教科書に載っているような模範解答に準ずる道すら存在しない。僕らがしなければならないのは、ただ目の前に突きつけられた事態に向き合い、今この瞬間に何をすべきかを決断することだけだ。その結論が、時には誰かの批判の的になることもある。もっとも、僕自身だって自分が下した決断に対して、同じように自己批判の声をあげることもあるのだ。

これからの組織の体制をどうしていくべきかという問題は、辻本とのあいだで行われる1on1のテーマだった。それはまるで、ひとりで壁に向かってボールを打ち続けるテニスの練習のようなものだ。自分が放ったボールは激しく跳ね返り、僕はまたそれを自分で打ち返さなければならない。その退屈なまでの繰り返しは、果たして僕自身の生産的な決意表明の場なのだろうか。それとも、互いに妥協の産物を探し出すために、ただ一点に収束するまで終わることなく延々と繰り返される、一種の暗い儀式のようなものなのだろうか。
「で、今川さん。これから、どうしますか?」
「グローバル側との窓口は、全面的に私が対応します。ローカルの現場については、若いのですが柏原さんを立てる方針で考えています」
「榎本さんでは、ダメかい?」
「・・・今回の背景には、現場と事務所のあいだにある根深い人間関係の確執が起因しています。榎本さんの一件が今も引きずっているんですよ。みんな… それも、かなり深いものです…」
「そうですか…」

辻本は一つうなずき、それからほんのわずかな、あまりにも整然とした沈黙を挟んだ。彼はいつになく、榎本という名前に奇妙なほどのこだわりを見せていた。その物静かな視線の奥には、あらかじめ用意されたパズルのピースを、寸分たがわず嵌め込むような静かな期待が宿っているように見えた。
もしそれが単なる適材適所の人事なのだとしたら、僕の胸に広がるこの微かなざらつきは何なのだろう。榎本という人間が持つ危うさと、それをあえて手元に引き置こうとする辻本のロジックの間には、僕の知らない冷たくて大きな歯車が、音もなく噛み合い始めているような気配があった。
このときの僕には、それがやがて自分自身を締め上げるための輪郭を形作っているのだとは、まだ知る由もなかった——。
ーー
榎本は、古参のスタッフの一人だった。いわゆるパワーハラスメントという古い歴史的事実は、組織全体がそこから何かを学び取るための教訓としてではなく、今なお消えない負の遺産としてこの場所にこびりついていた。
二面性を持った榎本という男は、奇妙な男気と共に、その裏側に隠された乙女のように繊細で傷つきやすい神経をあわせ持っていた。彼が現場との対話のなかで見せる自己防衛的な言動は、その強固な壁をさらに高く、厚くしていくための助長剤として働いているようだった。その結果として、現場の人間もまた、その深い溝に小さな橋を架ける勇気を持てなかったのかもしれない。

すべての被害者への最適解を見出すという、まるで宗教論争の解決を試みるなかで、達也はいつしか、その対極にある加害者の役割を自分自身に引き受けてしまったのかもしれない。あるいは、責任者として被害者に手を差し伸べることをどこかで躊躇してしまったその瞬間に、彼は自分自身が加害者に転じてしまったのだと感じていたのかもしれないと、僕はふと思った。
実のところ、真の加害者は僕自身なのだろう。そうかもしれない。
ーー
「達也さんが僕に対して本音を言い切れなかった部分はあるかと思います。辻本さんも、一度、達也さんと直接お話しされてみるといいかもしれません。榎本さんのことも含めて・・・」
「そうですね」
辻本という男もまた、どこかで常に冷たい風に吹かれながら、あてもなく漂っているだけの存在なのかもしれない。彼という無機質な壁から跳ね返ってくるボールが向かうべき方向は、彼の強い意思によって決まるものではなく、ただ気まぐれな風に身を任せた結果としての軌跡にすぎないのだろう。
辻本という男もまた、どこかで常に冷たい風に吹かれながら、あてもなく漂っているだけの存在なのかもしれない。どこかの冷えた部屋で作られた本社からの指示という便利なお墨付きを盾に、ただの無機質なメッセンジャーに徹し、極力波風を立てぬようにと息をひそめていただけなのだろう。彼という分厚い壁から跳ね返ってくるボールが向かうべき方向は、彼の強い意思や決断などによって決まるものではない。それはただ、上から吹き抜ける気まぐれな風に身を任せた結果としての、とりとめのない軌跡にすぎない。
ただ、その軌跡が描く方向を、辻本は十二分に思い描いていたことだろう。だからこそ、そこに彼の意思のかけらはないのだ。
いずれにせよ、僕は次に、柏原の重い扉を小さくノックすることにしよう。その乾いた音が、柏原の耳にちゃんと届くことを静かに祈りながら。
…
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