#007 偉くなりたくないんです... ~俺、この会社好きだから...~
午前中の湿った空気が建物の影にまだわずかに残っているような、そんな怠い午后だった。
冷房の効いた工場内には複数台の大型加工機が重々しく鎮座し、製品品質のために保たれたその人工的な冷気の下でも、午後の空気には明らかにまだ夏が終わりきっていない澱みが含まれていた。ロータリーポンプが低くうねる時間を除けば、そこに聞こえてくるのは時折響くエアコンプレッサーの乾いた破裂音くらいのものだ。
50歳に近い現場のメンバーたちを見渡せば、どこかで見覚えのあるような光景がそこには広がっていた。彼らのほぼ全員が、まるで電車の優先席を必要としている誰かに紳士的な態度ですっと道を譲るかのように、主任という名の役割を引き受けることだけを頑なに、そして穏やかに拒み続けていた。

僕から見れば、彼らのそうした姿勢は長い年月のなかで身についた処世術のようにも見えたし、あるいは静かな抵抗のようにも見えた。だが、そんな彼らから一回り近くも年下の柏原には、どこか彼らとは決定的に違う何かが備わっていた。少なくとも、僕はそう感じていた。
…
柏原は静まり返った制御盤の前に立ち、そこに並ぶ緑や赤のデジタルの数値を見つめていた。その数値は、最初からそこにあったかのように微動だにしないものもあれば、理由もなくけたたましく変動し続けるものもあった。
「柏原さん、今すぐじゃなくてもいいんだけど、少し時間をいただけますか? 例の件です。社内でも、外でも、どちらでも構いません」
「はい……。」
数秒の間があった。まるで、僕たちが発した言葉の重みがその乾いた空間のなかに溶け込み、どこかへ沈んでいくのを互いに確かめ合っているかのように。
「実は、俺、知ってたんですよ。達也さんの件…」
「そっか…、達也さんは、いい上司だね。」
「… 先々週なんです。達也さんから『下期の予算について、どこかで飯食いながら相談したいって』って誘われて。」
外資系という土地柄もあり、社内のメンバー同士が社外の店で食事を共にしながらビジネスの打ち合わせを行うことは、いつの間にか一つの定石として定着していた。もちろん、その費用は会社から支給される。四角四面な会議室とは違った緩やかな空気が、時に人々の口から率直な意見を引き出してくれるという期待があったし、実際それは多くの場合において正しかった。
「で、俺、店に入るなり開口一番に聞いたんです。『達也さん、辞めないですよね?』って」

紙幣に印刷された偉人の肖像画は、その国家の権威や歴史的貢献の象徴であると同時に、緻密な技術による偽造防止のためのものだと聞いたことがある。人間という生き物は、他人の顔の微細な変化、その表情の揺らぎに対して恐ろしいほど敏感にできているらしい。どれほど取り繕おうとも、日常から外れたわずかな綻びを、人間の表情から完全に隠し通すことなど不可能なのだ。柏原の直感と洞察力は、生物の本能に従い恐ろしいほど正確に的を射ていた。
されど、日々の繰り返される儀式の中にいる僕らは、製造業に身を置く人間であり、何よりも顧客のための生産が優先されるべきだという現実が、常に厳然と横たわっている。
「…達也さんの引き継ぎの件なんだけどさ、現場側については柏原さんにお願いできないかな……」
たった一つの確固たる意思を宿した一言に必要な沈黙がそこにあった。

「…俺、嫌ですよ。だって、俺、この会社、ほんとに好きなんです。やりたいことできるし、まわりにはいい人が多いし。ここで長く働きたいんです。だから、”偉くなりたくない”んです」
そもそも、組織の中で彼の指す「偉くなる」ということの本当の意味は一体どこにあるのだろうか。それはただ特定の役職に就くということなのだろうか。役職というものは、決して個人の名誉や名声を示すものではないと僕は思っている。まして、権力を振りかざすに値する免罪符でもない。それは単に、その人間が背負うべき役割を記した、オフィスのドアの銘板のようなものにすぎない。
だが、柏原にとってそれはまったく違う意味を持っていた。彼にとっての「偉くなる」ということは、いつか組織の歯車に押し潰され、あるいは責任という重圧のなかで、または誰かにとっての不都合な歪みを帳消しにするための補正しろとして、この場所から辞めざるを得ない時期が必ずやってくるという、逃れられない終焉の予感を確実に指し示していた。
今だから言える。”柏原さん、君の直感と洞察力は優れているよ”と。
…
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