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#013 刹那的な光でも美しく見える世界 ~たっだ一通のメール~

古いレコードの溝に針が落ちたときのような、かすかなノイズを伴って世界がふたたび動き出す。

"今川様、"

そのメールのタイムスタンプは、名刺を渡した翌日の夜九時五十二分だった。夜更けというには早すぎるかもしれないその時刻は、メールの送信ボタンを押すまでに彼女の指先が迷いに要した時間の長さを暗示していたのかもしれないと僕は思った。ビジネスライクな文面には、コーヒーショップで落とした小物を拾い上げたことへの簡単な謝辞と、セミナーを受けてコーヒーを楽しんでいる様子が数行で綴られていた。

"また、お逢いできるとよいですね。"

ビジネスを通じて交わされる儀式にも価しないような定型的な名刺交換とは全く異なる意味をもった特急の車内でのその僕自身の振る舞いは、僕自身の並々ならぬ気恥ずかしさと共に、かすかな期待感が薄く透かしのように、しかし確実に僕の心に漂っていた。男というものはいくつになっても身勝手な生き物だ。それが単なる社交辞令の衣を纏った定型文であったとしても、僕の投げかけに対する確かな呼応は、これまでの単調で殺伐とした日々に、一筋の光を投げかけた。

たとえそれが刹那的な光であったとしても、“世界が美しくみえた”。そんな気がした。

メールには、姓も名も記されてはいなかった。英文字の後にいくつかの数字が並んだアドレスから、僕の勝手な想像力は、まるで夕暮れのトランクのように静かに、しかし際限なく広がりつつあった。名前が書されていないのは、彼女が自分の輪郭を他人に安易に差し出したくないという、心地よい警戒心であり、同時に一種の悪戯心でもある。そう願いたいものだ。そこに情報の非対称性があっても、僕における意思決定への影響は皆無だった。

僕は、コーヒーセミナーで学んだわずかな記憶を頭の片隅で反芻しつつ、暗号じみたそのアドレスへと返信した。消えゆく一筋の光を繋ぎとめるような、ささやかな願いを込めて。

・・・

中核市の駅から少し離れたエリアには、その地域の行政機関が静かに密集しており、計画的に植えられた緑化地帯と共に、そのシアトル系のコーヒーショップも落ち着いた佇まいを見せていた。柔らかな光が差し込み、一部の大きな窓は大きく開いており、空間全体に穏やかな気配が満ちている。まさに、サード・プレイスという言葉にふさわしい場所だった。

朝十時からのオンライン会議は三十分足らずで終わり、今後の進め方についての整理は綺麗についた。効率的なミーティングは外資系企業ならではの作法だ。論点は常に明確で、湯船に手を浸して湯加減を探るような無駄な言葉のキャッチボールはない。なすべきアクションを淡々と決定する。Outlookの共有カレンダーには、”休み”としているが気にしない。滞らない仕事の流れはそれでスマートだ。

スリープモードを解除した私用のスマートフォンをテーブルの隅に置きつつ、僕はそれほど重要とも言えないメールの処理を片付けた。
“Yes, Approved.”
その機械的な一通は、日本企業の古い因習である書類への赤い押印に代わる合理的な儀式だ。

「着きました」

そのとき、スマートフォンが静かに揺れたと同時に、僕の鼓動は高まった。

「すぐ、行きます。紺のセダンです。」

ノートパソコンの蓋を静かに閉じた。テーブルから空まで隔たるものはなく、世界はいつでも、静かにそこへと繋がっていた。


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