#011 Serendipity [sèrəndípəṭi] 〜コーヒーと彼女〜
コロナ禍という得体の知れない息苦しさがようやく緩み、街がそっと古いエンジンをかけ直した頃の話だ。
誰もがまだどこかおっかなびっくりで、マスクの奥に隠されたお互いの表情を測りかねながらも、どうにかして生活の輪郭を取り戻そうともがいていた。季節はいつの間にか静かに巡り、その頃の僕は、週末の午後に少しだけ自分の日常の匂いを変えようと試みていた。
すべての始まりは、とあるシアトル系カフェの奥のスペースだった。不定期に開催される小さなコーヒーセミナー。そこに、なぜかふと足が向いた。「はじめてのコーヒー」と銘打たれたそのテーブルを囲んでいたのは、十人足らずの奇妙な一団だった。数名の若い女性に、三十代と思しき男性、そして落ち着いた物腰の女性が数名と、僕。自身の際立った感性を誇張するかのように、声高らかにその香りや味わいを言葉に乗せようとする男もいれば、若い女性たちは解き放たれたコロナの檻からついに抜け出したかのように、その場をただ無邪気に満喫していた。当の僕には、コーヒーに関する深い知見も、格段の思い入れもなかった。ある意味では、彼女たちと同じように、ただそこではないどこかに新しい居場所の気配を見出したかっただけなのかもしれない。

数か月後、「生産地を巡る」と銘打たれた2回目のセミナーにも、僕はまた足を運んでみた。産地の違いや焙煎の細かなプロセスについて、バリスタが熱心に知識を授けようと声を弾ませていたが、僕の五感と脳の容量はそのすべてを受け止めるほど賢くはなかった。ただ、店内に漂う香ばしい焙煎の気配は、十分に僕を楽しませてくれた。コロナって一体なんだったんだろうな、とふと思った。
そのマニアックなセミナーの隅にも、彼女はいた。僕はちゃんと覚えていた。ただ、彼女が僕の存在を認識していたかどうかは定かではない。
何度か互いの視線が交差することはあったけれど、それらは決して絡み合うことはなく、どこか幾何学的なねじれの位置にぽつんと置かれているようだった。それでも、同じ空間で、同じように香ばしい焙煎の気配に触れていたという事実はそこに静かに存在していた。それは細い、あまりにも頼りない線でしかなかったけれど。
その細い線が、ある日不意に現実の音を立てた。場所は少し離れた街にある、やはり同じ系列の別のシアトル系カフェだった。休日前の午後の緩やかな喧騒の中、レジ待ちの列に並んでいると、ふと目の前の背中から覗くその横顔が気になった。彼女はコーヒーと共に、前回のセミナーで紹介されたものとは異なる産地の豆を一袋、注文していた。オーダーを終え、身の回りのものをまとめてレジの列を離れるとき、彼女は肩にかけたトートバッグから、いくつかの小物をうっかり床へ落としてしまった。

僕は反射的に身を屈め、そこに転がった小物を拾い上げると、何食わぬ顔でそっと手渡した。
「あっ、すみません」
それが、彼女が僕に向けて発した最初の言葉だった。
差し出したそれを受け取りながら、彼女はふと顔を上げた。その瞬間、ぱっと彼女の目がわずかに見開かれた。初めて見る他人ではない、「どこかで見た顔だ」という微かな戸惑いと、それがほんの一瞬でほどけていくような小さな驚きが、彼女の瞳の奥で静かに揺れた。何か言葉を交わす代わりに、彼女は曖昧ながらも、しかし確かに親しみを込めた会釈を返してくれた。
…
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