#010 空を舞うための儀式 ~鳥・人間~
夏の名残をそっと引き出しの奥にしまい込むような、そんな静かな手つきで準備を整える。
テイクオフの作法はいつだって厳格だ。
足元に伏せる機体と対峙する。首筋に受ける風の気配を確かめながらAライザーをゆっくりと引き絞るとグライダーは静かに呼吸を始める。頭上に上がったキャノピーがしっかりと空に開き、無数のラインに澱みがないことを素早く確認し、そして、一時の間を感じる。これから飛ぶのだと。振り返るように自身を進行方向へと反転させると、機体が発するわずかな緊張の糸に呼応するように体重を預けつつ、僕は急坂の向こうへと踏み出す。リバースライズアップには、空を舞うための一連の儀式にふさわしい、どこか静謐で優雅なところがある。
決して完治することのない、どこか不機嫌でわずかに不自由なこの左脚とは、これから先もずっと一緒に生きていくことになるのだ。まあいいさ、それも悪くない。この頑固なよき相棒には、まだまだ頑張ってもらわねばならない。

上空千メートルを越えると、地上の猛暑が嘘のような、冷ややかで透明な別世界がそこに広がっている。日付が偶数の日には、右へ旋回するというルールがある。バリオメーターの甲高い電子音がせわしなく飛び込んでくる。先輩たちの描く軌跡のあとを不器用に追いかけながら、僕は身を委ねるように重心を傾け、右手でブレイクコードを慎重に引き続ける。南風がほんの少し混じった東風のなか、上昇気流の芯から外れまいと神経を尖らせるが、僕の腕はまだその卓越した境地には遠く及ばない。
・・・
空へと引き上げられる瞬間の、あのハーネスが身体を包み込む独特の感触を初めて知ったのは、まだ遠い昔の学生時代のことだった。広い湖の風を相手にする自作飛行機の競技会だ。学生や社会の片隅でくすぶっていた者たちが、空という一点に魅入られてぞろぞろと集まってくる。
あの頃の僕らはまだ若く、すべてが黎明期の色を帯びていた。機体設計の正しい作法なんてものはどこにもなく、手探りと情熱だけで空を飛ぼうとしていた。中には観客の笑いを誘うような珍妙な機体もあったが、僕らのチームのそれは、それなりに真剣で挑戦的な代物だった。そして、その機体のパイロットを志願、ほかでもないこの僕だった。メンバーの多くは、それぞれのやり方で快諾の笑みを返してくれた。それは初夏の午後の乾いた風に似て、どこか諦念を含んだ、しかし温かいものだった。
プラットフォームの柵の上で出番を待っていた時間は、まるで永遠のようでもあり、あるいはほんの一瞬の出来事のようでもあった。風の機嫌は決して良くなかった。僕らにその瞬間の決断の余地など残されておらず、テイクオフのスイッチは、気まぐれな神様とフライトディレクターの移り気な手の中にあった。

時間はただ一閃の光のように過ぎ去った。プラットフォームを自分の足で駆け出したというよりは、見えない何かにふっと身体を持ち上げられた、そんな感覚だった。それはほんの一分にも満たない短い出来事だったけれど、あのとき僕は、同じ夢を見た仲間たちと一緒に、重力の呪縛から綺麗に放り出されていた。
・・・

眼下に広がる山並みはすっかり小さくなり、視界の果てにはぼんやりと水平線がかすんでいる。山肌を乱暴に切り崩して作られたあの工業団地が小さく見えた。大手企業の無機質な工場や、地域を支える中堅企業がそこには集まっている。千二百メートルの高さから見下ろすと、地上の喧騒はまるで遠い星の出来事のように、ひどく冷ややかに感じられた。
イズミは、あの一角のどこかで日々の時間を生きているのだろうか。
…
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