#012 秒針の滑り落ちる音 ~枯れた男の僅かな勇気~
それから三日後だった。都内から北へ向かう特急列車の車内は、長い間の抑圧からようやく解放された人々が纏う、言いようのない安堵の空気に満ちていた。指定された座席を探して狭い通路を歩むと、僕の視線はふと宙から引き戻され、それをまっすぐに捉えた。
確かに彼女だった。
そして、彼女の瞳の奥もまた、わずかに見開かれながら「あの時に…」と静かにうたっていたように見えた。
幾何学的なねじれの位置にあったはずの細い線が、電車の揺れの中でふたたび交差し、かすかな音を立てて緩やかな結び目をつくった。
互いに言葉を交わすことはなく、ただあらかじめ定められていた約束のように、目配せをしつつ会釈とも言えないようなかすかな頷きを交わした。それは長いトンネルを抜けたあとの、ほんのひとときの静寂のようだった。
僕の席は通路を挟んだすぐ隣だった。彼女の膝の上には、あの見慣れたシアトル系コーヒーショップの茶色い紙袋がちょこんと置かれている。もっとも、今日のそれはコーヒー豆の重みではなく、もっと別の何か、たとえば薄い本か、あるいはいくつかの書類のような手触りを感じさせた。

車窓の景色は、無機質なコンクリートの塊から、乾いた畑や低い山並みへとゆるやかに移り変わっていく。単調なジョイント音が心地よいリズムで響くその短い時間のなかで、僕らは特に言葉を交わすこともなかった。
お互いに手元のスマートフォンの画面をなんとなく指先で上下になぞっていただけだ。ただ、あのカフェの空間と同じように、僕らは確かな偶然のなかに、同じ空気と、同じ方向へ流れる時間を静かに分け合っていた。
やがて、僕が降りるべき駅の気配が近づいてきた。周囲の乗客たちがそれぞれの帰途に向けて、荷物をまとめ始めている。僕は上着のポケットから名刺入れを取り出し、その中から一枚を引き抜くと、彼女の膝上に置かれたコーヒーショップの茶色い紙袋の隙間に、そっと滑り込ませた。

そして、低い声で一言だけ添えた。
「あっ、よかったら…」
それが、僕がイズミに放った最初の一言だった。
「えっ、は、はい…」
周囲の喧騒に掻き消されそうなその声に混じっていた「はい…」という響きは、不意の出来事に対して反射的に発せられた頼りない呼応のようだった。
ただ、僕にはそれが、その場でノーを突きつけるだけの明確な理由が見つからない一方で、かといって素直にイエスと言えるほど心の準備が整っているわけでもない、しかし、天をさした秒針は時計の文字盤の上を、針が音もなく一歩だけ滑り落ち始めてしまった、そう彼女の心が騒めいてしまったのではないかと思えた。
街も、そしてそこに生きる誰もが、心のどこかで長い間燻り続けた息苦しさから、ただひたすら逃れたがっていたのかもしれない。
…
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