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マウント外来 第1話

【あらすじ】
SNSの普及とともに、他人との比較に苦しむ人が激増した日本。厚生労働省はついに「対人比較ストレス症候群」を病として正式に認定した。世間が「マウントで病院? 大げさでしょ」と笑うなか、臨床心理士・都築真帆(32)は、専門クリニック——通称「マウント外来」を開業する。
 港区女子を演じ続けるインフルエンサー。娘の習い事に人生を賭ける母。学歴で同僚を刺す係長。架空の彼氏を延命し続ける女子高生。「丁寧な暮らし」で夫を追い詰める妻。診察室を訪れる人々は、治る者もいれば、治らない者もいる。真帆の武器は、本人の言葉を本人に返すこと。そして毎回の、小さな「宿題」。
 やがてクリニックがバズると、「マウント外来に通う私」が新たな自慢の種になる本末転倒が始まる。マウントを治す場所が、マウントの温床になる。それでも真帆がこの椅子に座り続ける理由——十年前、親友を「正しさ」で傷つけ、絶縁された過去。治す側の人間が、誰よりも治っていない。
 人が人と比べずにいられない、愚かで切実な衝動をめぐる、笑って刺さる全8話。最終話、真帆が手に入れるのは救いではなく、自覚だけである。

第1話「#港区の女」


登場人物

  • 都築真帆(つづき・まほ)……臨床心理士。三十二歳。「こころの外来 つづき」院長。

  • 桐山悠太(きりやま・ゆうた)……真帆のクリニックの受付兼助手。二十七歳。

  • 麻布あかり(あざぶ・あかり)……SNSインフルエンサー「AKARI」。二十七歳。本名は田所あかり。

  • 野村圭介(のむら・けいすけ)……会社員。三十歳。SNSアカウント名「K.CEO」。

  • あかりの母(声のみ)

  • 松浦凛(まつうら・りん)……カフェ「TERRA」店員。二十八歳。

  • 桂木理央(かつらぎ・りお)……真帆の大学の同期。人気カウンセラー。(本人は登場しない)

  • ワイドショーの司会・コメンテーター(声のみ)

  • 配達員、女子高生、バイト先の同僚、女性客、サラリーマン ほか


○ マンションの一室(港区・タワーマンション高層階)・朝

  朝日が差し込む、白を基調としたスタイリッシュな部屋。
  大きな窓の向こうに東京タワーが見える。
  ダイニングテーブルの上にはアサイーボウル、グラノーラ、
  スムージー。雑誌から切り取ったような朝食。

  麻布あかり(二十七)が、シルクのパジャマ姿で椅子に座り、
  スマートフォンを三脚に固定して、自撮り動画を撮影している。
  完璧な笑顔。完璧な光の加減。

あかり「おはようございます。AKARIです。今日の港区モーニング。
  最近お気に入りのオーガニックグラノーラと、
  自家製アサイーボウル。朝からちゃんと自分を大事にする時間、
  大切にしてます。……では、いただきます」

  あかり、スプーンを口に運ぶ。
  カメラに向かって幸せそうに微笑む。

  ——間。

  あかり、スマートフォンの録画を止める。
  途端に、表情から光が消える。
  スプーンを置く。

  あかり、一口分だけ減ったアサイーボウルに、
  ラップをかける。
  冷蔵庫を開ける。
  ——中には、同じようにラップのかかった
  アサイーボウルが、すでに二つ並んでいる。
  三つ目を、その隣に押し込む。

  あかり、部屋の奥へ。
  カメラが引くと、このスタイリッシュな空間は
  ワンルームのごく一角だけであることがわかる。
  反対側には布団が敷きっぱなしで、
  コンビニの袋やカップ麺の容器が散乱している。

  窓の外の「東京タワー」——
  よく見ると、窓に貼られた大判のウォールステッカーだ。

  あかり、コンビニのおにぎりを取り出し、
  無表情のままかじる。
  スマートフォンに通知音。
  画面を覗く。

あかり「(つぶやくように)……百二十いいね。昨日より少ない」

  あかり、おにぎりを咀嚼しながら、
  投稿した動画をもう一度見つめる。
  画面の中の「AKARI」は、キラキラと輝いている。
  画面の外のあかりは、クマの浮いた目で、ぼんやりしている。

  タイトルバック。

    「マウント外来」
    第1話「#港区の女」

  ○ 地下鉄・車内・朝

  通勤ラッシュの車内。
  つり革につかまる都築真帆(三十二)。

  周囲の乗客は、皆一様にスマートフォンを見つめている。
  誰かの旅行。誰かの昇進報告。誰かの完璧な朝食。
  親指だけが、機械的にいいねを押していく。

  真帆の目の前、中吊り広告。
  「あなたのマウント指数、30秒でセルフ診断
   ——診断アプリ『マウンテン』」
  スマートフォンを掲げた男女の、白すぎる歯。

  その隣に、書店の広告。
  「厚労省認定で話題沸騰! 発売即重版
   『マウントされない技術』桂木理央」
  著者近影。自信に満ちた微笑み。

  真帆、広告を見上げている。
  無表情。

  近くの女子高生二人、スマートフォンを覗き込んで。

女子高生A「マウント指数、私、八十七だって」

女子高生B「うわ、負けた。私、七十四」

  ——診断結果で、マウントを取り合っている。

  真帆、静かに目を閉じる。
  電車が揺れる。広告も、揺れる。

  ○ 「こころの外来 つづき」・外観/ビルの二階・朝

  都心から少し外れた、雑居ビルの二階。
  真新しいクリニックの看板。
  「こころの外来 つづき ——対人比較ストレス専門」
  と控えめに書かれている。

  ○ 同・待合室兼受付・朝

  小さいがセンスよく整えられた待合室。
  観葉植物、落ち着いた色合いのソファ。
  壁には「人と比べなくていい。でも、比べちゃう。
  そんなあなたのための場所です」という手書きのポスター。

  受付に桐山悠太(二十七)。
  パソコンの前で、のんびりとアイスコーヒーを飲んでいる。

  奥のカウンセリングルームから、
  都築真帆(三十二)が出てくる。
  白衣ではなく、カーディガンにブラウスという柔らかい装い。
  手にはクリニックのパンフレットを何枚も抱えている。

真帆「悠太くん、これ、近くのカフェとか本屋さんに
  置いてもらえないかな。パンフレット」

悠太「あ、いいですけど。……何枚あります?」

真帆「二百枚」

悠太「……刷りすぎじゃないですか?」

真帆「備えあれば憂いなし、だよ」

悠太「備えすぎて山になってますけど」

  真帆、パンフレットをドサッと受付に置く。
  壁のカレンダーを見る。
  今日の日付に赤丸と「開業初日!」の書き込み。

真帆「……今日だね」

悠太「ですね。開業おめでとうございます、先生。
  ……で、予約は?」

真帆「それ、私が聞くやつじゃない?」

悠太「ゼロです」

真帆「……」

  待合室の隅、小さなテレビがワイドショーを流している。

司会(声)「先月、厚生労働省が『対人比較ストレス症候群』を
  適応障害の一類型として正式に認定しました。
  専門カウンセリングには保険も適用されるということですが、
  いわゆる『マウント』ですね。皆さん、どう思われますか」

コメンテーターA(声)「病気と認めることが第一歩だと
  思いますね。私、この十年で三千人以上の
  相談者を診てきましたけど——」

コメンテーターB(声)「いや、数の問題じゃないんですよ。
  私は先月までハーバードにいましたが、
  向こうの最新の研究では——」

コメンテーターA(声)「臨床を知らない方は、
  そうおっしゃいますけどね」

コメンテーターB(声)「は?」

  画面の中で、議論が静かに白熱していく。

悠太「……先生。あの番組が、一番重症じゃないですか」

真帆「(リモコンでテレビを消して)
  ……うちに来てほしいね。全員」

  真帆、窓の外を見る。
  少しだけ影のある表情。
  悠太、それに気づくが、あえて触れない。

悠太「まあ、患者さんが来なかったら来なかったで、
  僕は暇な受付ライフを満喫しますよ。
  先生、Wi-Fiのパスワードなんでしたっけ」

真帆「(苦笑して)……仕事して」

  ○ あかりのアパート(実際の住まい・都内某所)・朝

  先ほどの「タワーマンション」の正体。
  築年数の古い、六畳一間のアパート。
  家賃四万八千円。最寄駅は港区ではない。

  あかり、仕事着に着替えている。
  ファストファッションのシンプルな服。
  SNSで見せている華やかさの欠片もない。

  スマートフォンが鳴る。
  画面に「お母さん」の表示。
  あかり、一瞬ためらってから出る。

あかり「……もしもし」

母(声)「あかり? 元気にしてる? 東京の生活はどう?」

あかり「うん、元気だよ。忙しいけど、充実してる」

母(声)「そう。あんた、インスタだっけ? 近所の
  奥山さんの娘さんに教えてもらって見たわよ。
  すごいところに住んでるのねえ。お母さんびっくりしちゃった。
  タワーマンション?ってやつ?」

  あかり、部屋の壁に貼られた東京タワーの
  ウォールステッカーを見る。

あかり「……うん、まあ、そんな感じ」

母(声)「あんた昔から見栄っ張りだから心配してたけど、
  ちゃんとやれてるのね。安心したわ。
  奥山さんにも自慢しちゃった」

あかり「…………うん」

母(声)「またおしゃれなごはんの写真、楽しみにしてるからね」

  電話が切れる。
  あかり、スマートフォンを握りしめたまま動かない。
  目の前にはコンビニのレシート。
  おにぎり二個、百八円のお茶。

あかり「(小さく)……やめられないじゃん」

  ○ あかりのバイト先・カフェ「TERRA」・昼

  小洒落たカフェ。
  あかり、エプロンをつけてホール業務をしている。
  三つの仕事のうちの一つ。

  レジに立つのは松浦凛(二十八)。
  さばさばとした雰囲気の女性。

凛「田所さん、三番テーブルお願い」

あかり「はい」

  あかり、料理を運ぶ。
  テーブルの二人組の女性客が、
  スマートフォンを見ながら話している。

女性客A「見てこれ、AKARIって子のインスタ。
  毎朝こんな朝食作ってるんだって。港区住みらしいよ」

女性客B「へー、いいなあ。私なんて今朝、
  立ったままバナナ食べたんだけど」

女性客A「わかる。こういうの見ると自分が惨めになるよね。
  ……でも見ちゃう」

  あかり、料理を置く手が一瞬止まる。
  何事もなかったように微笑んで下がる。

  凛、そんなあかりの様子をちらりと見ている。

  ○ オフィス(都内・一般企業)・昼

  ごく普通のオフィス。
  デスクで弁当を食べる社員たち。

  野村圭介(三十)。
  地味なスーツに、くたびれたネクタイ。
  安い弁当を食べながら、スマートフォンを操作している。

  画面には「K.CEO」のアカウント。
  プロフィール欄には「経営者 / 投資家 / 自由な働き方を実践中」。
  最新の投稿は、高級寿司店のカウンターの写真。
  ——実際は画像検索で拾ったフリー素材。

同僚「野村、午後の会議の資料できた?」

圭介「あ、はい、もう少しで」

同僚「頼むよ。部長がカリカリしてるから」

  同僚が去る。
  圭介、スマートフォンに目を戻す。
  「K.CEO」の投稿にコメント。
  「すごいですね!」「憧れます!」。
  圭介、小さく口角を上げる。

  続けて、AKARIの最新投稿。
  港区モーニングの動画に「いいね」を押す。

  その時、通知。
  AKARIからダイレクトメッセージ。
  「いつもいいね、ありがとうございます!
  K.CEOさんのライフスタイル、素敵ですね」

  圭介、目を見開く。
  慌てて返信を打ち始める。
  打っては消し、打っては消し——送信。
  「ありがとうございます。AKARIさんの丁寧な暮らし、
  いつも刺激をもらっています。今度よかったら、
  おすすめのお店、情報交換しませんか」

  圭介、高揚した表情。

同僚(声)「野村ー! 資料ー!」

圭介「は、はいっ!」

  ○ 「こころの外来 つづき」・待合室・昼

  患者ゼロのまま、昼。
  悠太、受付でコンビニのサンドイッチをかじっている。
  真帆、パンフレットの束を意味もなく揃え直している。

  ——ドアが開く。

  二人、同時に立ち上がる。

真帆・悠太「いらっしゃいませ!」

配達員「……お届け物でーす」

  台車の上に、ひときわ大きな胡蝶蘭。

  受け取りのサインをする真帆。
  立札には
  「祝ご開業 カウンセリングオフィス桂木
   代表 桂木理央」。

悠太「(立札を見て)桂木理央……。
  あれ、この名前、最近どっかで」

真帆「大学の同期。……本、出したんだよ、この前。
  売れてるみたい」

  真帆、添えられたカードを開く。

真帆「(読み上げて)『開業おめでとう!
  うちはいま予約三ヶ月待ちでバタバタだけど、
  真帆は真帆のペースで、ゆっくり頑張ってね。理央』」

  間。

悠太「……いい方じゃないですか」

真帆「うん。いい子だよ、昔から」

悠太「(立札をもう一度見て)
  ……ただこの立札、
  必要以上に大きくないですか」

真帆「(微笑んで)ありがたいね。
  ——一番目立つところに、飾ろう」

  真帆、胡蝶蘭を待合室の目立つ位置に置く。
  少しだけ、位置を直す。
  もう一度、直す。
  ——もう一度。

  悠太、サンドイッチを持ったまま、
  それを黙って見ている。

  ○ 「こころの外来 つづき」・待合室・午後

  開業初日の午後。
  相変わらず、患者はゼロ。

  悠太、受付でスマートフォンをいじっている。
  真帆、カウンセリングルームのドアにもたれて、
  紅茶を飲んでいる。

悠太「先生、ネットでも『マウント外来』、
  ちょっと話題になってますよ。
  厚労省のニュースに対してですけど。
  ……まあ、九割は笑いのネタです」

真帆「……どんな反応?」

悠太「読みます? えーと、
  『マウント取るのが病気なら日本人の九割は入院だろ』
  『次はいいね依存症も保険適用にしてくれ』
  『マウント治療より先に花粉症を治してほしい』
  ……こんな感じです」

真帆「……(小さく笑う)花粉症は確かに」

悠太「笑ってる場合じゃなくないですか? この調子だと、
  しばらく患者さん来ないかもしれませんよ」

真帆「来るよ。……必ず来る」

悠太「なんでそんなに確信してるんですか?」

  真帆、紅茶のカップを見つめる。
  少し間があって。

真帆「……マウンティングで苦しんでる人は、
  自分が苦しんでることに気づいてないことが多いから。
  でもね、限界は必ず来る。
  虚勢を張り続けるのって、すごく体力がいるから」

  悠太、何か言いかけるが、やめる。
  真帆の言葉に、個人的な実感がこもっていることに
  気づいたから。

  そのとき、入口のドアが開く音。

  二人、はっとして入口を見る。

  麻布あかりが立っている。
  SNSとは別人のような、疲れた顔。
  少し迷うような足取り。

あかり「あの……予約してないんですけど、
  ……大丈夫ですか」

  悠太、即座に笑顔で立ち上がる。

悠太「もちろんです。今日はゆったりしてますので。
  ……というか、初日なので先生も張り切ってます」

真帆「(悠太を軽くにらんで)……どうぞ、お入りください」

  あかり、おずおずと待合室に入ってくる。

  ○ 同・受付・つづいて

  悠太、あかりから保険証を預かる。

悠太「対人比較ストレスのカウンセリング、
  先月から保険が使えるようになったんですよ。
  ……で、こちらのご記入をお願いします」

  バインダーに挟まれた問診票。
  「対人比較ストレス症候群 スクリーニング問診票
   (厚生労働省標準様式)」

  あかり、ソファに座って用紙に目を落とす。

  設問が並んでいる。

  「1.他人のSNSを見たあと、
    眠れなくなることがある」
  「2.自分の話を、事実より良く
    盛ってしまうことがある」
  「3.盛ったあとで、ひどく落ち込むことがある」
  「4.幸せを感じた直後、それを誰かに
    見せたくなることがある」
  「5.人の幸せを祝福した直後、
    どっと疲れていることがある」

  あかり、ペンを取る。
  一問目に、丸。
  二問目に、丸。
  三問目——手が、止まらない。

  すべての項目に、丸がつく。

  あかり、記入を終えた問診票を、
  しばらく見つめている。
  三年間が、五つの丸に要約されている。

  悠太、受け取って。

悠太「お預かりします。
  (不安げなあかりに気づいて、ひそめた声で)
  ……大丈夫ですよ。
  僕もたぶん、全部に丸つくんで」

  あかり、少しだけ、肩の力が抜ける。

  カウンセリングルームのドアが開く。

真帆「——どうぞ」

  ○ カウンセリングルーム・午後

  柔らかい照明。向かい合う二つの椅子。
  真帆とあかりが座っている。

  真帆、メモ帳を膝の上に置いているが、
  ペンを持たず、まずあかりの顔をじっと見ている。

真帆「お名前を伺ってもいいですか」

あかり「……麻布あかり、です」

真帆「麻布さん——」

あかり「あ、すみません。本名は田所です。田所あかり。
  ……麻布はSNSの名前で」

  あかり、自嘲するように笑う。

あかり「もう最初から見栄張ってますね、私」

真帆「ここでは、呼ばれたい名前で構いませんよ。
  ……どちらがいいですか?」

あかり「……田所で、お願いします。今日くらいは」

真帆「わかりました、田所さん。
  今日は、どうしてここへ?」

あかり「……正直、自分でもよくわからないんです。
  ニュースで見て。マウントの専門外来ができたって。
  最初は私も笑ったんです。大げさだなって。
  でも今日、バイトの休憩中に、
  足が勝手にこっちに向いてて」

真帆「足が勝手に、ですか。……体は正直ですね」

あかり「……」

真帆「少しだけ聞かせてください。
  今、毎日の生活は充実していますか?」

あかり「(即答で)充実してます」

  間。

  真帆、頷く。

真帆「わかりました。じゃあ今日は、
  その充実してる毎日のお話を聞かせてください」

あかり「……え?」

真帆「港区にお住まいなんですよね。
  SNS、少しだけ拝見しました。素敵な暮らし。
  ——朝は、何を召し上がるんですか」

あかり「……アサイーボウル、とか。
  オーガニックのグラノーラとか」

真帆「いいですね。グラノーラは、どちらで買われるんですか」

あかり「え?」

真帆「お店です。私、朝が適当なので、
  参考にさせてもらいたくて」

あかり「……麻布十番の、輸入食材のお店です」

真帆「お店の名前、教えてもらえますか」

  ——あかり、言葉に詰まる。

あかり「……ど忘れしちゃいました。緑の看板の」

真帆「(微笑んで)緑の看板。
  ……休日は、どんなふうに過ごされるんですか」

あかり「カフェ巡り、とか。あとは……
  夜景を見ながら、ワインを飲んだり」

  あかり、語りながら、
  自分の声がだんだん細くなっていく。
  口から出てくる言葉が、ぜんぶ、
  自分の投稿のキャプションと同じだ。
  ——百四十字の外側に、何もない。

真帆「夜景。きれいでしょうね、高層階だと」

あかり「……きれい、です」

真帆「一番きれいに見えるのは、何時ごろですか」

  長い間。

  あかりの目に、じわりと涙が浮かぶ。

あかり「……すみません」

真帆「はい」

あかり「……全部、嘘です」

  真帆、驚かない。
  責めもしない。
  ただ、静かに頷く。

真帆「はい」

あかり「……気づいてました?」

真帆「いいえ。……ただ、ここでは、
  嘘をついてもいいんです。
  つきたいだけ、ついていい。
  ——やめたくなるまで」

  あかり、堪えていたものが決壊する。

あかり「タワーマンションは、六畳のアパートです。
  窓の東京タワーは、ウォールステッカーで。
  朝食は撮るだけで、食べません。
  バイトを三つ掛け持ちして、家賃を払ってます。
  フォロワーは一万二千人いて……全部、嘘なんです」

真帆「……話してくれて、ありがとうございます」

あかり「もう、疲れました。でもやめられないんです。
  投稿しないと、いいねが減って、フォロワーが離れて、
  そうなったら——」

真帆「そうなったら?」

あかり「……私が、消えちゃう気がするんです。
  AKARIじゃない田所あかりには、何もないから」

  真帆の表情が、一瞬だけ揺れる。
  すぐに、元の穏やかさに戻る。

真帆「……始めたきっかけを、聞いてもいいですか」

あかり「三年前です。栃木から出てきて——」

  ——真帆の、カップに伸びかけた手が、止まる。
  ほんの一拍。

真帆「……続けてください」

あかり「……友達もいなくて、仕事も見つからなくて。
  地元の同級生はみんな結婚したり、
  実家の近くで安定した仕事についたりしてて。
  親にも『東京で何やってるの』って心配されて。
  それで、一個だけ、嘘をついたんです」

真帆「一個」

あかり「『港区に引っ越した』って。
  本当は最初から今のアパートに住んでたのに。
  そしたら母が『すごいわね!』って喜んで、
  近所にも自慢してくれて。
  ……嬉しかったんです、それが。
  久しぶりに、お母さんに褒めてもらえた気がして」

真帆「……」

あかり「嘘って、一個つくと、
  つじつまを合わせるのに次が要るんですね。
  気づいたら、止まれなくなってました」

  あかり、涙をこらえるように唇を噛む。

あかり「先生、私べつに港区に住みたいわけじゃないんです。
  タワマンに住みたいわけでも、
  高級レストランに行きたいわけでもない。
  ただ……誰かに、
  『あかりはちゃんとやれてるね』って、
  言ってほしいだけなんです」

  真帆、静かに頷く。
  少しだけ前かがみになる。

真帆「田所さん。一つだけ聞いてもいいですか。
  その『ちゃんとやれてる』は——誰が決めるんですか」

あかり「……え?」

真帆「港区に住むことが『ちゃんとやれてる』ことなのか、
  バイトを三つ掛け持ちして必死に東京で暮らしていることが
  『ちゃんとやれてる』ことなのか。
  決めるのは、フォロワーですか。お母さんですか。
  それとも——」

  あかり、答えられない。

真帆「今日は、ここまでにしましょう。
  答えは、出さなくていいです」

あかり「……また来ても、いいんですか」

真帆「もちろん。ここは、そのための場所ですから」

  ○ 「こころの外来 つづき」・待合室・夕方

  あかりが帰ったあと。
  真帆、カウンセリングルームから出てくる。
  悠太が紅茶を用意して待っている。

悠太「お疲れさまです。記念すべき最初の患者さん、どうでした?」

真帆「(紅茶を受け取りながら)……患者さんって言い方は
  やめようね。クライアント」

悠太「了解です。で、最初のクライアントさん、どうでした?」

真帆「……重症」

悠太「えっ」

真帆「典型的な、自己同一性の希薄化に起因する代償行動。
  承認の供給源がSNSに一元化されてて、
  現実の自己評価との乖離が——」

悠太「……先生、日本語でお願いします」

  ——真帆、ハッとする。

真帆「……ごめん。クライアントさんの話を、
  こんな言い方しちゃダメだね」

悠太「いや、僕はどうせ半分もわかってないんで」

真帆「そういう問題じゃなくて。……ごめん」

  悠太、ちらりと真帆を見る。
  真帆、紅茶を一口飲んで、気を取り直す。

真帆「……でもね。重症だけど、
  ちゃんと自分で気づいて、ここに来た。
  それだけで、大きな一歩だよ」

悠太「ふーん。……先生、なんかちょっと嬉しそうですね」

真帆「そう見える?」

悠太「見えます。あ、でもこれ言うと先生は
  否定するんですよね」

真帆「(少し照れて)……否定しないよ。嬉しい。
  この仕事を始めてよかったって、ちょっとだけ思えた」

悠太「ちょっとだけ、ね」

  真帆、紅茶を飲みながら窓の外を見る。

真帆「……悠太くんさ」

悠太「はい」

真帆「なんでこのクリニックで働こうと思ったの?
  前も聞いたけど、ちゃんと答えてくれなかったよね」

悠太「ああ、それは……給料がちょうどよかったからですよ」

真帆「(じっと見て)……本当に?」

悠太「本当ですよ。あと通勤が楽だし。
  深い理由なんてないですって」

  悠太、にこにこ笑っている。
  完璧な笑顔。完璧な受け答え。

  真帆、それ以上は追及しない。

真帆「……そう。ならいいけど」

  ○ あかりのアパート・夜

  あかり、帰宅。
  部屋の電気をつけると、散らかった部屋が目に入る。
  ため息をつきながら、スマートフォンを開く。

  K.CEOからのダイレクトメッセージの続き。
  「今度、表参道に新しくできたフレンチがあるんですが、
  よかったらご一緒しませんか?」

あかり「(読みながら)……表参道のフレンチ、か」

  あかり、K.CEOのプロフィールを見る。
  「経営者 / 投資家」の文字列。
  高級レストランでの写真。海外旅行の写真。

あかり「……すごいな、この人」

  あかり、返信を打つ。
  「素敵ですね! ぜひお願いします」

  送信した直後、あかりの表情が曇る。

あかり「……行くにしても、着ていく服がない」

  あかり、クローゼットを開ける。
  撮影用のブランド品(レンタル返却済みの空箱だけ
  残っている)と、普段着のファストファッションの落差。

あかり「……なんで受けちゃったんだろ」

  ○ 圭介のアパート・夜

  こちらも決して広くはないワンルーム。
  スーツを脱いで、Tシャツ姿の圭介。
  テーブルにはスーパーの半額弁当。

  スマートフォンに、AKARIからの返信。
  「素敵ですね! ぜひお願いします」

圭介「(ガッツポーズ)よっしゃ……!」

  歓喜の直後、圭介の顔が凍る。

圭介「……表参道のフレンチ。
  いくらするんだ、あそこ」

  圭介、検索する。
  ディナーコース一人二万八千円の文字。

圭介「ッ……」

  圭介、口座残高を確認する。
  残高:四万三千二百十二円。

圭介「……」

  圭介、K.CEOのプロフィール画面を見る。
  「経営者 / 投資家 / 自由な働き方を実践中」
  自分が作り上げた虚像が、
  画面の中から自分を見つめ返している。

圭介「(天井を仰いで)……どうすんだよ、これ」

  ○ カフェ「TERRA」・昼(数日後)

  あかり、バイト中。
  テーブルを拭きながら、スマートフォンを気にしている。

  凛がカウンター越しに声をかける。

凛「田所さん、最近ため息多くない?」

あかり「え? そうですか?」

凛「うん。今日だけで七回目」

あかり「数えてたんですか」

凛「暇だからね。……なんかあった?」

あかり「……いえ、ちょっと」

凛「まあ、無理に聞かないけど。
  休憩時間になったらアイスティーでも淹れるから、
  飲みながらぼーっとしな」

  あかり、凛の何気ない優しさに少しだけ表情が緩む。

あかり「……ありがとうございます」

  ○ カウンセリングルーム・午後(二回目)

  あかり、二回目のカウンセリング。
  前回よりやや表情が柔らかい。

真帆「前回から一週間ですね。何か変化はありましたか?」

あかり「変化っていうか……ちょっと困ったことが起きまして。
  SNSで知り合った男性に、食事に誘われたんです。
  経営者の方で、すごくスマートな感じの。
  表参道のフレンチに行きましょうって」

真帆「それは……嬉しいことでは?」

あかり「嬉しいです。嬉しいんですけど、
  私、AKARIとして誘われてるんです。
  港区に住んでる、キラキラした女の子として。
  会ったら、リアルでも嘘をつき続けなきゃいけない。
  しかも、着ていく服もないし、
  フレンチのマナーもよくわかんないし」

真帆「なるほど。……一つ確認していいですか。
  その男性に会いたい気持ちはありますか?
  AKARIとしてじゃなく、田所さん自身として」

あかり「……わかんないです。
  だって、その人が好きなのは
  AKARIであって、田所あかりじゃないから」

真帆「まだ会ってもいないのに、そう決めつけていいんですか?」

あかり「でも、六畳のアパートに住んでて、
  バイトを三つ掛け持ちしてる女なんて、
  経営者の人からしたら——」

真帆「——釣り合わない?」

  あかり、黙る。

真帆「今の言葉、自分で気づきました?」

  あかり、しばらく沈黙する。
  自分の口から出た「釣り合わない」が、
  部屋の中に残っている。

あかり「……先生は、比べたりしないんですか。
  他人と自分を」

  真帆、一瞬、言葉に詰まる。
  ほんの一拍の沈黙。

真帆「……しますよ。私も人間ですから」

  あかり、意外そうに真帆を見る。
  真帆、穏やかに微笑むが、
  その微笑みの奥にかすかな苦みがある。

真帆「その話は、またいつか。
  ……そのお食事、行ってみたらどうですか」

あかり「え?」

真帆「カウンセラーとして、無責任なことは言えません。
  ただ——行ってみて、何を感じたか。
  それを、次に教えてください。宿題です」

  ○ 表参道・フレンチレストラン前・夜

  あかり、精いっぱいの装い。
  レンタルしたワンピースに、借り物のアクセサリー。
  店の前で深呼吸している。

あかり「(小声で)大丈夫。私はAKARI。
  港区に住んでるAKARI。……大丈夫、大丈夫」

  圭介がやってくる。
  こちらもかなり無理をした装い。
  ジャケットは新品だが、タグを取り忘れている。

圭介「あっ、AKARIさん?」

あかり「K.CEOさん……! はじめまして」

圭介「はじめまして。いやー、実物のほうが綺麗ですね」

あかり「そんな——K.CEOさんこそ、写真よりずっと素敵です」

  二人、完璧な社交辞令。
  完璧な笑顔。
  完璧な嘘。

  ○ フレンチレストラン・店内・夜

  高級感のある店内。
  あかりと圭介、テーブルに着く。

  二人とも、メニューを見て固まっている。
  フランス語の料理名。見たこともない食材の名前。

圭介「(余裕を装って)ここ、シェフが
  フランスの三つ星で修業した方なんですよ」

あかり「(合わせて)へえー、さすがK.CEOさん。
  こういうお店、よくいらっしゃるんですか?」

圭介「まあ、月に二、三回は。
  ……AKARIさんもインスタによくお店載せてますよね」

あかり「ええ、まあ。港区だと選択肢が多すぎて
  逆に困っちゃいます」

  二人、笑い合う。
  その笑顔の下で、二人とも汗をかいている。

  ワインリストが来る。
  圭介、価格を見て一瞬目が泳ぐ。
  グラスワインでも一杯三千円。

圭介「(平静を装い)赤と白、どちらがお好みですか?」

あかり「お任せします。K.CEOさんのセレクトで」

圭介M「やめてくれ——」

圭介「(笑顔で)じゃあ、この……
  ピノ・ノワール、いきましょうか」

  圭介の指は、リストの中で
  最も安い一本を指している。

  料理が運ばれてくる。
  美しい盛り付けのアミューズ。
  あかり、スマートフォンを取り出して撮影しようとする。
  ——はっとして、止める。

あかりM「だめだ。こういう場所でいちいち写真撮るのは
  野暮だって思われる……」

  圭介、あかりの動きを見て。

圭介「あ、撮ります? 映えますもんね、ここ」

あかり「いえ、大丈夫です。せっかくのお食事ですし、
  目に焼き付けたいなって」

圭介「おお、素敵ですね。さすがAKARIさん」

あかりM「何が『目に焼き付けたい』だよ。
  本当は撮ってバズらせたいくせに……」

  メインの皿が運ばれてくる。
  置かれた瞬間——
  二人、同時に、皿の斜め四十五度へ首を傾ける。
  一番「映える」角度を探す目線。

  ——目が合う。

圭介「……綺麗な盛り付けですね」

あかり「……ですね」

  二人、何事もなかったように姿勢を戻す。

  食事が進む。
  会話はスマートに弾んでいるように見える。
  しかし二人の会話は、互いの「盛った人生」の応酬。

あかり「最近、お仕事は順調ですか?」

圭介「おかげさまで。新しいプロジェクトの立ち上げが
  忙しくて。まあ、自分のペースで
  やれるのが経営者のいいところですかね」

あかりM「……この人、ナイフとフォークの使い方、
  ちょっと怪しいな」

圭介「AKARIさんは、港区生活はもう長いんですか?」

あかり「三年くらいですかね。最初は広尾あたりに住んでて、
  今は麻布十番の近くに。夜景がきれいで気に入ってます」

圭介M「……このワンピース、
  レンタルのタグが裏から透けてるような」

  二人、互いの「ほころび」に薄々気づきながら、
  しかしそれを指摘しない。
  指摘してしまったら、自分の嘘も崩壊するから。

  ○ レストラン・テラス席への移動中・夜

  デザートの前に、テラスに出る二人。
  夜風が気持ちいい。
  都会の夜景が広がっている。

  ふと、沈黙が流れる。
  これまでの会話とは違う、少しだけ本音に近い空気。

圭介「……AKARIさん」

あかり「はい」

圭介「楽しいですね、今日」

あかり「……はい、楽しいです」

圭介「でも——なんか、疲れません?」

あかり「……え?」

圭介「あ、いや。この店の雰囲気がとかじゃなくて。
  うまく言えないんですけど。
  ……なんか、お互い、頑張りすぎてる気がして」

  あかり、ドキッとする。
  圭介の目が、一瞬だけ「K.CEO」ではない、
  素の表情になっている。

あかり「……頑張りすぎ、ですか」

圭介「すみません、変なこと言って。忘れてください。
  デザート行きましょう」

  圭介、笑顔に戻る。
  あかりも笑顔に戻る。
  二人とも、本音の淵まで来て、引き返す。

  ○ レストラン前・別れ際・夜

  食事を終え、店の前。

圭介「今日はありがとうございました。
  また機会があれば——」

あかり「はい、ぜひ」

  圭介、タクシーを呼ぶ。
  あかりに先に乗るよう促す。

圭介「お先にどうぞ。麻布十番ですよね?」

  あかり、一瞬固まる。
  麻布十番の自宅など、存在しない。

あかり「あ……大丈夫です。少し歩きたいので」

圭介「そうですか? じゃあ僕も歩こうかな——」

あかり「(慌てて)いえっ! 一人で歩きたい気分なんです。
  夜風が気持ちよくて」

圭介「……わかりました。じゃあ、気をつけて」

  二人、手を振って別れる。
  あかり、圭介の姿が見えなくなるまで
  麻布十番方面に歩き——
  角を曲がった瞬間、反対方向に走り出す。

あかり「(走りながら、息を切らして)
  ……終電、終電、終電……」

  ○ 圭介・タクシーの中/あかり・電車の中・夜

  画面が二分割。

  左:圭介、タクシーに乗っている。
  財布の中身を確認して、愕然としている。
  運転手に「すみません、やっぱり次の交差点で降ります」。
  タクシーを降り、最寄りの地下鉄に向かって歩き出す。

  右:あかり、終電の座席で揺られている。
  レンタルのワンピースのタグがチクチクする。
  ヒールを脱いで、靴擦れした足をさすっている。

  二人の疲弊した表情がシンクロする。

  それぞれのスマートフォンが光る。
  圭介の通知:「K.CEOさんの投稿にいいねが届いています」
  あかりの通知:「AKARIさんの投稿にコメントが届いています」

  二人とも、スマートフォンを裏返して、目を閉じる。

  ○ あかりのアパート・夜(数日後)

  あかり、スマートフォンでK.CEOのアカウントを
  じっくりと見ている。

  高級レストランの写真。
  海外旅行の写真。
  腕時計の写真。

  あかり、ある写真のコメント欄に目を止める。
  誰かが書いている。
  「この写真、画像検索で出てきますけど?」
  ——コメントは削除されている。
  だがスクリーンショットが別のアカウントに残っている。

あかり「……え」

  あかり、圭介の写真を画像検索する。
  高級寿司店の写真——フリー素材サイトがヒットする。
  海外旅行の写真——旅行ブログの画像と一致する。

  あかり、呆然とする。
  そして——笑い出す。

あかり「……なんだ。同じじゃん。
  私と——同じじゃん、この人」

  笑いが、いつしか涙に変わる。

あかり「……同じなんだ」

  ○ カウンセリングルーム・午後(三回目)

  あかり、三回目のカウンセリング。
  目が少し腫れている。

真帆「フレンチ、どうでした」

あかり「……美味しかったです。お店も素敵で、
  相手の方も紳士的で。
  ——ずっと、お腹が痛かったです」

真帆「お腹が」

あかり「比喩じゃなくて、本当に。ストレスで。
  ボロが出ないか、嘘がバレないか、ずっと緊張してて。
  帰りの電車で座った瞬間、どっと疲れが来て、
  終点まで乗り過ごしました」

  真帆、小さく頷く。

あかり「でも、一個だけ。
  途中で、相手の方が急に素になった瞬間があったんです。
  『頑張りすぎてる気がする』って。
  あの一瞬だけ、嘘じゃない言葉が聞こえた気がして。
  ……怖かった。見透かされたみたいで。
  でも同時に——ほっとした、かもしれない」

真帆「怖くて、ほっとした」

あかり「変ですよね、矛盾してて」

真帆「いいえ。嘘をつき続けることに疲れている人が、
  本音の気配に触れたら、そうなります。
  それは、『本当は嘘をやめたい自分』が
  ちゃんといる証拠ですから」

あかり「……あと、もう一個あるんです。先生。
  私、調べちゃったんです。あの人の写真。
  ——フリー素材でした。
  経営者っていうのも、たぶん嘘です」

真帆「……それを知って、どう思いました」

あかり「怒れなかった。だって、私も同じだから。
  むしろ、笑っちゃって。同じじゃん、って。
  あの人も、必死に何者かになろうとしてるんだなって」

真帆「……」

あかり「先生。最初の質問、ずっと考えてました。
  『ちゃんとやれてる』って、誰が決めるのか。
  答えは、まだ出ないです。
  でも一個だけ、わかりました。
  少なくとも、フォロワーのいいねじゃ決められない。
  だって一万二千人がいいねを押しても、
  私、全然満たされてないから」

真帆「……それは、とても大きな気づきですよ、田所さん」

あかり「私、AKARIを、やめたいです。
  やめたいけど、怖い。
  AKARIがいなくなったら、田所あかりだけが残る。
  栃木から出てきて、何者にもなれなかった私だけが」

真帆「田所さん」

あかり「はい」

真帆「——何者かにならなきゃいけないって、
  誰が決めたんですか」

  あかり、はっとする。

  長い間。

真帆「……全部を一度にやめなくていいんです。
  一つだけ。何か一つ、小さな本当のことを、
  発信してみませんか。
  AKARIとしてじゃなく、田所あかりとして」

  ○ 同・受付・直後

  あかり、会計をしている。

悠太「保険適用なので、千四百二十円です」

あかり「……千四百二十円」

悠太「はい?」

あかり「(財布から小銭を出しながら)
  ……フレンチのグラスワイン、半分以下だ」

悠太「?」

あかり「(小さく笑って)なんでもないです」

  ○ あかりのアパート・夜

  あかり、スマートフォンの前に座っている。
  いつものように三脚を立て、カメラを構える。
  だが、今日は部屋の「きれいな一角」ではなく、
  散らかった部屋全体が映る位置にカメラを置いている。

  あかり、深呼吸する。
  録画ボタンを押す。

あかり「えっと……AKARIです。
  今日は、いつもと違う動画です。
  ……これが、私の部屋です。
  六畳のワンルーム。港区じゃないです。
  家賃四万八千円。
  東京タワーの夜景は、ウォールステッカーです」

  あかり、窓のステッカーを剥がす。
  その向こうに見えるのは、隣のアパートの壁。

あかり「本名は、田所あかりです。
  栃木から出てきて三年。
  ……ごめんなさい。ずっと嘘ついてました」

  あかり、泣いている。
  でも、初めて、画面の中の自分と
  画面の外の自分が一致している。

あかり「正直、この動画を上げたら、
  フォロワーは減ると思います。
  叩かれるかもしれない。
  でも——もう、しんどいんです。
  キラキラしてる自分を演じるの。
  こんな私でも、見てくれる人がいたら嬉しいです。
  いなくても、もう、いいです」

  録画を止める。
  あかり、スマートフォンを握りしめて、しばらく動かない。

  投稿ボタンの上で、指が震えている。

  ——押す。

  ○ 同・直後

  あかり、スマートフォンを握りしめたまま動けない。
  投稿ボタンを押した直後の余韻。

  画面を覗くと、再生回数が伸び始めている。
  コメントが次々と入っていく。
  「嘘つき」「ファンやめます」「勇気ある」「応援する」。
  文字が早すぎて読み切れない。

  あかり、コメント欄を一瞥して——
  動画の設定画面を開く。
  「コメント受付」のスイッチを切る。
  以後、新しいコメントは表示されなくなる。

  その直後、スマートフォンが鳴る。
  画面に「お母さん」の表示。

  あかり、息を呑む。
  動画を、もう見られたのか。

  ——コール音が三回。四回。
  あかり、覚悟を決めて出る。

あかり「……もしもし」

母(声)「あかり。あんた、あの動画……」

あかり「……うん」

母(声)「あんなに泣いて。
  ……お母さん、心配で、心配で」

  あかり、唇を噛む。

母(声)「あかり。辛かったら、いつでも帰ってきな。
  お母さん、何にも言わないから。
  あんたの好きにしていいから。
  ……家、あるんだから」

  あかりの目に、涙がにじむ。

母(声)「お父さんもね、最近こっそりあんたの
  インスタ見てるのよ。何にも言わないけど。
  ただ、画面、ずっと眺めてる」

  ——あかり、息が止まる。

  頑固で電話一本くれない父が、
  あの嘘まみれの「港区モーニング」を、
  画面の向こうで、ずっと見ていた。

あかり「……お母さん」

母(声)「うん」

あかり「私、別に、東京で失敗したわけじゃないから」

  ——あかり、自分の口から出た言葉を、
  自分でも止められない。

あかり「動画は……ちょっと、整理しただけ。
  演出をやめただけで。
  仕事もちゃんとあるし、友達もいるし。
  ……心配しないで。大丈夫だから」

母(声)「……そう」

あかり「うん。じゃあ、また連絡する」

  あかり、返事を待たずに電話を切る。

  長い沈黙。
  部屋の中、コンビニのおにぎりの匂い。
  散らかった床。

  あかり、スマートフォンの画面を切り替える。
  別のSNSアプリ。
  昔から使っている、誰にも教えていないアカウント。

  あかり、地元の友人たちの投稿をスクロールする。
  保育園の遠足の写真。
  夫婦で焼肉を食べている写真。
  平凡で、素朴で、幸せそうな投稿。

  あかりの表情に、複雑な影が差す。
  見下しているはずなのに、
  なぜか目が離せない。
  その両方を、同時に持て余している顔。

  最後にスクロールが止まったのは、
  高校時代の同級生の写真。
  産まれたばかりの赤ん坊を抱いている。
  キャプション「二人目です!」。

  いいねが、百四十。

  あかりの「港区モーニング」は——いいね百二十だった。

  あかり、画面を閉じる。

  ——そして、別の画面を開く。
  新しいアカウントの作成画面。
  アカウント名の入力欄に、指が止まる。

  「田所あかり」と打ち込む。
  プロフィール欄に、何度も書いては消す。
  最終的に「栃木出身。東京で生きてます」と打つ。

  告白動画の概要欄を開き、一行、書き足す。
  「新しいアカウントで、やり直します」。
  新しいアカウント名を添える。

  投稿の準備を始める。
  散らかった床を、少しだけ片付ける。
  コンビニのおにぎりを、いい角度に置き直す。
  窓辺の光を確認する。

  撮影。
  何枚も撮り直す。

  キャプションを打つ。
  「今日の夜ごはん」と打って、消す。
  「百八円の幸せ」と打って、消す。
  最終的に——
  「東京タワーは見えません。
  でも、風が気持ちいい夜です」に落ち着く。

  投稿。

  すぐに、新しいフォロワーがついていく。
  「リアルで素敵」「フォローしました」
  「私もこういう投稿が好きです」

  あかり、コメントに「いいね」を押す。
  その指が、軽快に動いている。

  ——母の電話を切った時より、ずっと早い。

  ○ 圭介のアパート・夜

  圭介、ベッドに寝転んで
  スマートフォンを見ている。
  画面には、あかりの告白動画。
  泣きながら告白するあかりを、食い入るように見ている。

  動画が終わる。

  圭介、しばらく動かない。
  やがて、コメント欄を開く。
  「勇気をもらいました」と打つ。
  送信。

  ——画面に表示。
  「この動画はコメントを受け付けていません」

  圭介、画面を見つめる。

  自分のプロフィール画面を開く。
  「経営者 / 投資家 / 自由な働き方を実践中」
  編集ボタンの上で、指が止まる。
  ——閉じる。
  まだ、彼にはその勇気がない。

  圭介、連絡先を開く。
  「AKARIさん」。
  発信ボタンの上で、指が止まる。

  長い間。

  圭介、目をつぶって——押す。

  ○ あかりのアパート・夜(同時刻)

  あかり、新しいアカウントの通知に
  「いいね」を押し続けている。
  軽快に動く指。

  ——その画面に、着信が割り込む。
  「K.CEOさん」の表示。

  あかりの指が、止まる。

  コール音。二回。三回。

  あかり、出る。

あかり「……もしもし」

圭介(声)「あ、あの。夜分にすみません。
  K.CEO——じゃなくて、野村です。野村圭介。
  ……本名です」

あかり「……はい」

圭介(声)「動画、見ました。
  コメント、書こうとしたんですけど……閉じてて」

あかり「……すみません。怖くて、閉じちゃいました」

圭介(声)「いや。……だから、電話しました」

  間。

圭介(声)「あの、僕——経営者じゃないです。
  普通の会社員です。
  寿司屋の写真も、フリー素材です」

  あかり、電話口で小さく笑う。

あかり「……知ってました」

圭介(声)「え」

あかり「画像検索で、見つけちゃったんです。
  ……お互いさまですね」

  長い沈黙。
  そして、二人同時に、小さく吹き出す。

圭介(声)「……僕たち、なんだったんでしょうね。
  嘘つき同士でフレンチ食べて」

あかり「おなか痛くなりながらね」

圭介(声)「もし——よかったら、今度、
  嘘なしで会いませんか。
  フレンチじゃなくて、牛丼とかで」

あかり「(少し考えて)……いいですよ、牛丼。
  でも、一つだけ条件があります」

圭介(声)「なんですか」

あかり「割り勘で」

圭介(声)「(心底ほっとした声で)
  ……こちらこそ、お願いします」

  電話が切れる。

  あかり、通話履歴を開く。
  「K.CEOさん」の名前を長押しして、編集する。
  ——「野村圭介」。

  スマートフォンには、新しいアカウントの通知が
  鳴り続けている。

  あかり、スマートフォンを——
  裏返して、テーブルに置く。

  窓を開ける。
  ウォールステッカーのない窓の外。
  東京タワーは見えない。
  隣のアパートの壁だけ。

  でも、風が気持ちいい。

  ○ 「こころの外来 つづき」・待合室・翌朝

  悠太がスマートフォンで何かを見ている。
  真帆が出勤してくる。

真帆「おはよう」

悠太「おはようございます。先生、これ見てください。
  田所さんの動画、バズってますよ。
  再生、五十万超えてます」

  真帆、画面を覗く。
  泣きながら告白するあかり。

悠太「……あ。コメント欄、閉じてますね。
  閉じちゃうんだ。せっかく応援も来てたのに」

真帆「(画面を見つめたまま)
  ……いいんだよ、それで。今は」

  悠太、真帆の横顔をちらりと見る。

  ○ 同・待合室・午後(数日後)

  あかり、菓子折りを持って立っている。
  目元は明るい。

あかり「これ、皆さんで」

悠太「(受け取って、目を輝かせ)虎屋だ」

真帆「こら」

あかり「先生。私、AKARIはやめました。
  フォロワー、三千人くらい減りました。
  ……でも、なんか、すっきりしてます。
  SNSは続けます。田所あかりとして。
  六畳のアパートから、
  コンビニのおにぎりの写真とか上げます」

真帆「(笑って)おにぎり、いいじゃないですか」

あかり「……あの、最後に一個だけ、
  聞いてもらっていいですか。
  私、嘘ついてた三年間のこと、
  思い出すと、今でも消えたくなるんです」

真帆「田所さん。
  ——見栄を張りたかったのは、
  誰かに認めてほしかったからでしょう。
  その気持ちは、嘘じゃなかった。
  ……嘘つきだったことを、恥じなくていいんです」

  あかり、涙ぐむ。
  でも今度は、悲しい涙ではない。

あかり「……ありがとうございました」

  あかり、深くお辞儀をして、出ていく。

  ○ カウンセリングルーム・直後

  一人になった真帆。
  あかりが座っていた椅子を、しばらく見つめている。

  ふと、スマートフォンを取り出す。
  自分のSNSを開く。
  真帆のアカウントには、ほとんど投稿がない。
  プロフィール欄には「臨床心理士」とだけ。

  桂木理央のアカウントが目に入る。
  華やかなキャリアの報告。学会での発表。テレビ出演。
  新刊の広告。
  「年間相談件数三千件、予約三ヶ月待ちの
  人気カウンセラーが教える——マウントされない技術」

  真帆の指が、無意識に画面をスクロールしている。

  ——はっとして、画面を閉じる。

真帆「(小さく)……ほらね。先生だって、治ってない」

  苦笑。

  真帆、スマートフォンをポケットにしまう。

  ——少しして、もう一度、取り出す。
  こっそり、理央のページを開く。
  新刊の重版決定の投稿。
  並んだ三百件の祝福コメントを、
  一件ずつ、遡って読んでいる。

  画面を閉じる。
  今度は、笑っていない。

  ○ カフェ「TERRA」・夕方

  あかり、最後のシフト。
  凛にエプロンを返している。

凛「バイト、辞めるんだって?」

あかり「はい。三つ掛け持ちはさすがにきつくて。
  一つに絞ることにしました」

凛「ここは残らないの?」

あかり「……実は、もう一つのバイト先のほうが
  時給がいいんです。正直に言うと」

凛「(笑って)なんだ、ちゃんと損得で選ぶのね。
  いいじゃん。正直で」

あかり「松浦さん」

凛「ん?」

あかり「ありがとうございました。
  ここで働けて、よかったです」

凛「大げさだなあ。……また客で来なよ」

  あかり、頷いて店を出ていく。

  凛、一人になった店内で、カウンターを拭きながら、
  ふと、左手の薬指を見る。指輪はない。
  窓の外を歩く、ベビーカーを押す女性が目に入る。

  凛の表情に、ほんの一瞬、
  言葉にならない影が差す。
  ——すぐにいつもの表情に戻り、カウンターを拭き続ける。

  ○ 「こころの外来 つづき」・待合室・翌朝

  朝。
  悠太がパソコンを開いている。
  真帆が出勤してくる。

真帆「おはよう」

悠太「おはようございます。先生、予約、二件入りました。
  それと、相談のメッセージが一件。
  『自分もSNSで盛った生活を発信していて、
  苦しくなってきた。相談できますか』——
  野村圭介さん、だそうです」

  真帆、少しだけ驚いた顔をする。
  そしてすぐに、穏やかな笑みに変わる。

真帆「……予約、入れて」

悠太「了解です。あ、それと先生。
  うち、ネットでちょっと話題になってます。
  『マウント外来っていう面白い名前の病院がある』って」

真帆「面白い名前って……うちの正式名称は
  『こころの外来 つづき』だけど」

悠太「キャッチーなほうが広まりますから。
  いいんじゃないですか、マウント外来。
  覚えやすいし」

真帆「……勝手に名前をつけないでほしいんだけど」

悠太「でも先生、ちょっと嬉しそうですよ」

真帆「(少し照れて)……嬉しくない」

  真帆、カウンセリングルームに入っていく。

  悠太、その背中を見送る。

  一人になった受付。
  悠太の顔から、笑顔が——すっと、消える。

  スマートフォンの画面。
  友人からのメッセージ。
  「悠太って最近どこで働いてんの?」

  悠太、返信を打ちかける。
  ——消す。
  もう一度、打ちかける。
  ——消す。

  長い間。

  悠太、画面を閉じる。

  ——その時、入口のドアが開く。

  新しいクライアント。
  顔は、映らない。
  手元に——子ども用の、
  ピアノコンクールのパンフレット。

  悠太、いつもの笑顔に戻って、立ち上がる。

悠太「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか」

  カウンセリングルームのドアが開き、
  真帆が顔を出す。

真帆「……どうぞ」

                    暗転。

                  第1話・了


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