マウント外来 第2話
登場人物
都築真帆(つづき・まほ)……臨床心理士。三十二歳。「こころの外来 つづき」院長。
桐山悠太(きりやま・ゆうた)……真帆のクリニックの受付兼助手。二十七歳。
高柳詩織(たかやなぎ・しおり)……外資系企業勤務。四十一歳。結菜の母。
高柳結菜(たかやなぎ・ゆいな)……小学五年生。十一歳。
真紀(まき)……ママ友。颯太の母。四十二歳。
藤川香奈(ふじかわ・かな)……ママ友。瑠美の母。四十歳。
高柳誠(たかやなぎ・まこと)……詩織の夫。広告会社勤務。四十三歳。
田所あかり(たどころ・あかり)……フリーター。二十六歳。(第1話のクライアント)
野村圭介(のむら・けいすけ)……会社員。三十歳。
松浦凛(まつうら・りん)……カフェ「TERRA」店員。二十八歳。
真帆の母(声のみ)
桂木理央(かつらぎ・りお)……真帆の大学の同期。人気カウンセラー。(テレビ画面のみ)
ワイドショーの司会(声のみ)
ピアノ教師、ピアノ教室の母親たち、詩織の部下、結菜の同級生、あかりのバイト先の同僚 ほか
○ カフェ「TERRA」・昼
窓際のテーブルに、真紀(四十二)と藤川香奈(四十)。
そこへ、高柳詩織(四十一)が少し遅れて到着する。
詩織「ごめんなさい、会議が長引いちゃって」
真紀「いいのいいの。詩織さんは働くママだから。
偉いわよねえ、ほんとに。私は颯太の勉強を
見てあげたいから、辞めちゃったけど。
ま、それぞれの選択よね」
詩織「(微笑んで)……そうね」
注文を取りに来る松浦凛(二十八)。
やがてテーブルに、三人分のケーキセット。
真紀「——で、颯太、学年で三位だったの。今回の学力テスト」
香奈「えー、すごい」
真紀「上の二人は中学受験のガチ勢だから、
実質一位みたいなものでね。塾の先生にも、
颯太くんは追い込みの集中力が違いますねって」
香奈「颯太くん、英検も受かったんだよね」
真紀「そう、準2級。小5で準2って、
うちの塾では今年、颯太だけなんだって。
……あ、べつに自慢じゃなくてね。報告。
報告会だから、ここ」
詩織、微笑んで聞いている。
フォークの先で、ケーキを小さく崩している。
詩織M「張り合わない。今日は、張り合わない。
にこにこして、すごいねって言って、帰る。
それだけ」
香奈、ふとスマートフォンを取り出す。
香奈「あ、ケーキ、写真いい? 載せたくて」
真紀「どうぞどうぞ。香奈さん、まめよねえ」
香奈、三人分のケーキが写る角度で、一枚。
少し皿の位置を直して、もう一枚。
画面には、投稿の下書き。
「気の置けない仲間と、ゆっくりお茶」
——テーブルの上の空気とは、別の世界。
真紀「(詩織に向き直り)で、結菜ちゃんは?
ピアノ、そろそろコンクールでしょ」
詩織「うん、まあ……ぼちぼち」
真紀「ぼちぼちって、大丈夫? ほら、ピアノって
結局は才能の世界だから、高学年で
伸び悩んでしんどくなる子、多いっていうし」
——詩織の中で、何かのスイッチが入る。
詩織「(気づけば、口が動いている)
結菜は課題曲、もう仕上げちゃって。
先生が、本選まで余裕を持って表現を磨けるのは
結菜ちゃんくらいだって。だから今は焦る段階じゃなくて、
深める段階っていうか」
真紀「……へえ。さすがねえ」
香奈「結菜ちゃん、すごいねえ」
真紀の目が、笑ったまま、すっと冷える。
詩織、「しまった」を微笑みの下に隠す。
真紀「うちは颯太が『ピアノより数学が好き』って言うから。
ほら、男の子は結局、理系に行けるかどうかだから」
マウントに、マウントが返ってくる。
香奈、曖昧に微笑んで、カップに口をつける。
香奈「(ぽつりと)いいなあ、二人とも。
うちの瑠美なんて、もう高校生だから、
何にも話してくれないよ」
真紀「香奈さんとこは瑠美ちゃんが
自立してるからいいのよ」
会話は続いていく。
凛、水を注ぎ足しに来る。
三人のテーブルを一瞥し、何も言わず、下がる。
○ 駅への道・昼過ぎ
一人、歩く詩織。
途中、足が止まる。
みぞおちのあたりを、手で押さえる。
鞄から胃薬のシートを出し、
水なしで、飲む。
慣れた手つき。
詩織「(小さく)……また言っちゃった」
誰に言うでもない、つぶやき。
スマートフォンが鳴る。会社からだ。
詩織、ひとつ息を吸って、出る。
詩織「(別人のような、張りのある声で)
はい、高柳です。——ええ、その件は
先方に確認済みです。数字は今日中に共有します。
はい。はい、では」
電話を切る。
張りのある声は、切った瞬間に、消える。
もう一度、スマートフォンが鳴る。
今度は、ピアノ教室からのリマインド通知。
「本日17時〜 結菜さん コンクール対策レッスン」
詩織、しばらく画面を見つめてから、歩き出す。
○ 高柳家・寝室・深夜
ベッドに横になった詩織。眠れない。
隣は、空いている。夫はまだ帰っていない。
スマートフォンの明かり。
検索窓に打ち込む。
「ママ友 集まり 憂鬱」
——打って、消す。
「ママ友 マウント 疲れた」
——打って、消す。
少し迷って。
「マウント 病気」
検索結果。
ニュース記事の見出し。
「『対人比較ストレス症候群』保険適用開始
——専門クリニック、通称『マウント外来』も」
詩織、記事を開く。
読み進める指が、止まらない。
記事の中に、問診項目の抜粋。
「自分の話を、事実より良く盛ってしまうことがある」
詩織、画面を消す。
暗闇の中で、天井を見る。
——もう一度、画面を、つける。
タイトルバック。
「マウント外来」
第2話「うちの子が一番」
○ 「こころの外来 つづき」・受付・朝
受付に立つ詩織。
手にはピアノコンクールのパンフレット。
悠太、保険証を預かりながら。
悠太「ご予約の高柳詩織さんですね。
……では、こちらのご記入をお願いします」
バインダーに挟まれた、例の問診票。
「対人比較ストレス症候群 スクリーニング問診票
(厚生労働省標準様式)」
詩織、ソファに座り、ペンを取る。
「1.他人のSNSを見たあと、
眠れなくなることがある」
——丸を、つけない。
詩織「(顔を上げて)あの。私、SNSは
やっていないんですけど」
悠太「当てはまるものだけで大丈夫です」
「2.自分の話を、事実より良く
盛ってしまうことがある」
——ペンが、止まる。
長い間。
……小さく、丸。
「4.幸せを感じた直後、それを誰かに
見せたくなることがある」
詩織「(小声で)……子どものことでも、ですか」
悠太「(穏やかに)当てはまるなら」
——丸。
詩織、記入を終えた問診票を悠太に渡す。
ふと、待合室の胡蝶蘭に目を留める。
詩織「立派な胡蝶蘭。開業されたばかりなんですね」
悠太「(微妙な顔で)ええ、まあ。……いただきものです」
カウンセリングルームのドアが開く。
真帆「高柳さん。——どうぞ」
○ カウンセリングルーム・午前
向かい合う真帆と詩織。
詩織、膝の上でパンフレットの角を揃えている。
詩織「最初に言っておきたいんですけど。
私自身は、その、病気とかではないんです。
ただ最近、少し疲れてしまって。
話を聞いていただけたらと思って」
真帆「はい。ここは、そういう場所です」
詩織「娘がいるんです。結菜、小学五年生。
ピアノをやっていて、来月コンクールで。
ほかに英語と塾。……あ、水泳は本人が
嫌がったのでやめさせました。
ちゃんと、本人の意思は尊重してるんです」
真帆「(頷いて)お仕事もされてるんですか」
詩織「外資系のメーカーで、部長職を。
……あの、これ、関係ありますか」
真帆「いえ。ただ、詩織さんの一日を
知りたかっただけです」
詩織「一日、ですか。朝六時に起きて、お弁当作って、
会社行って、数字を詰められて、
定時で切り上げて、結菜の習い事の送迎をして。
……あ、笑っちゃいますよね。会社では売上の数字で
比べられて、ママ会では子どもの成績で比べられて。
私、比べられてない時間って、あるのかな」
自分で言って、自分で少し笑う詩織。
真帆は、笑わない。
真帆「……その『ママ会』のお話、
もう少し聞かせてもらえますか」
詩織「定期的に集まるんです、三人で。近況報告会。
一人、すごい人がいて。息子さんの成績とか
英検とか、会うたびに聞かされて。
マウントっていうんですか、ああいうの。
私、完全に取られる側で」
真帆「取られる側」
詩織「ええ。……あ、でも、真紀さん——その方も、
悪い人じゃないんです。むしろ面倒見がよくて。
ただ、颯太くんの話になると、人が変わる。
……いえ。違うな。
私に、そう見えてるだけかもしれない」
真帆「(小さく頷く)」
詩織「とにかく私は、張り合わないって決めてるんです。
毎回、決めてるんです。……決めてるのに」
真帆「決めてるのに?」
詩織「……気づいたら、口が動いてるんです。
この前も。結菜のピアノのこと、あちらが
『しんどくなる子も多い』みたいに言ってきたので、
こちらの状況を、正確にお伝えしただけで」
真帆「正確に」
詩織「事実を言っただけです。
……多少、盛りましたけど」
詩織、自嘲気味に笑う。
真帆も、少しだけ微笑む。
真帆「コンクールは、去年も?」
詩織「はい。予選は一位通過で。
本選は——銀賞でした」
詩織の声のトーンが、わずかに変わる。
詩織「銀賞ですよ? 結菜、あんなに練習したのに。
あれは審査員の好みだと思うんです。
金賞の子、途中でミスしてましたから」
× × ×
(回想)コンクール会場・ロビー・去年
結果の貼り出しの前。
人だかりの中の、詩織と結菜。
「銀賞 高柳結菜」の文字。
拍手する詩織。
完璧な、保護者の拍手。
その横顔だけが、こわばっている。
人混みの向こうから、真紀。
真紀「詩織さーん! 見たわよ、銀賞。
銀賞でも、すごいじゃない」
詩織「(笑顔で)ありがとう」
× × ×
(回想)車内・去年・夜
運転する詩織。助手席の結菜。
膝の上に、銀賞の賞状。
詩織「……悔しいね。来年は、取り返そうね」
結菜「(賞状を見たまま)……うん」
× × ×
カウンセリングルームに戻って。
詩織「私、あの会場で、拍手しながら、
悔しくて悔しくて。
真紀さんの『銀賞でもすごいじゃない』の、
あの『でも』って、何なんですかね。
その場で笑ってるのが、精一杯で」
真帆「結菜ちゃんは、なんて」
詩織「『うん』って。……あの子、聞き分けがいいので」
真帆、少しの間、黙る。
メモ帳には、まだ何も書いていない。
真帆「高柳さん。一つだけ、確認させてください。
今のお話——途中から、主語が結菜ちゃんから
お母さんに変わっていたの、気づいてました?」
詩織「……え?」
真帆「最初は『結菜があんなに練習したのに』でした。
途中から、『私が悔しかった』
『私が笑っているのが精一杯だった』。
……悔しかったのは、どちらですか」
詩織、口を開く。閉じる。
自分の録音を聞かされたような顔。
詩織「……それは。親なら当然じゃないですか。
子どもの結果に一喜一憂するのは」
真帆「そうですね。当然だと思います」
詩織「……」
真帆「責めているんじゃないんです。ただ、
『結菜ちゃんの悔しさ』と『詩織さんの悔しさ』は、
別のものかもしれない。そこが混ざったままだと——
結菜ちゃんは、二人分の悔しさを
背負うことになります」
詩織、パンフレットを握る手に力が入る。
詩織「……全部、結菜のためなんです」
真帆「はい」
詩織「結菜のためを思って、やってきたんです。全部」
真帆「(静かに)——二回、おっしゃいましたね」
詩織、はっとする。
真帆、ここで初めて、ペンを取る。
メモ帳に、二文字だけ。
「主語」。
真帆、責める色のない声で。
真帆「大事な言葉なんだと思います、詩織さんにとって。
……少し、話を変えますね。ご主人とは、
結菜ちゃんの教育について、
どんなふうに話されていますか」
詩織「夫ですか。夫は仕事が忙しくて、
あんまり口を出さないんです。
教育のことは私に任せるって。
私のほうが、その、稼ぎ的にも余裕があるので、
習い事の費用も私が出してますし。
……夫は夫で、いろいろ抱えてるんだと思います。
よく知らないですけど」
さらりと言って、詩織はもう次の話題に移っている。
——その一言だけが、部屋の空気に、少し長く残る。
真帆「わかりました。……最後に、
宿題を一つ、いいですか」
詩織「宿題」
真帆「次にいらっしゃるまでに、
観察してきてほしいんです。
結菜ちゃんが最近、何をしているときに、
一番笑っているか」
詩織「……何をしているとき」
真帆「点数のつかないことでも、構いません。
むしろ——点数のつかないことのほうが、
いいかもしれません」
詩織、意味を測りかねた顔のまま、頷く。
立ち上がりかけて——
膝の上のパンフレットに、目を落とす。
詩織「……これ、結菜のコンクールのパンフレットなんです。
私、いつも鞄に入れてて。お守りみたいに。
……おかしいですよね。娘の出場パンフレットが、
いつのまにか、私の名刺みたいになってる」
真帆「……」
詩織「(自分で言って、自分で驚いた顔になり)
すみません。今の、忘れてください」
真帆「(静かに首を振って)——今日いちばん、
大事なお話だったと思います」
○ 同・受付・つづいて
会計を済ませる詩織。
入口のドアが開き、圭介が入ってくる。
目が合う、初対面の二人。
互いに、小さく会釈。
——それだけ。
それだけの、同じ待合室にいる者同士の挨拶。
詩織、出ていく。
圭介、ソファに座る。
○ 同・待合室・昼
昼休み。
悠太、受付でコンビニ弁当を食べている。
テレビにワイドショー。
司会(声)「先月から保険適用が始まりました
『対人比較ストレス症候群』。今日はカウンセラーで、
ベストセラー『マウントされない技術』の著者、
桂木理央さんにお越しいただいています」
画面に、桂木理央。
上品なスーツ。完璧な笑顔。
理央(声)「よろしくお願いします」
司会(声)「先生、そもそも『比べない』って、
できるものなんですか」
理央(声)「いい質問ですね。大事なのは
『比べない』ことじゃないんです。
人間は比べる生き物ですから。
比べたあとに、どう自分に戻ってくるか。
私はそれを『比較からの帰り道』と呼んでいて——」
真帆、給湯室からお茶を持って出てくる。
画面を見る。
悠太「……この人って」
真帆「うん。胡蝶蘭の人」
悠太「テレビ、消します?」
真帆「なんで? 勉強になるよ」
真帆、立ったまま、画面を見つめる。
理央、よどみなく話し続けている。
司会(声)「いやあ、先生のお話、
すっと入ってきますねえ」
理央(声)「ありがとうございます。よく言われます」
画面の下に、視聴者メッセージのテロップが流れる。
「マウント外来、私も行ってみたい」
「通ってるって言ったら友達に驚かれそう(笑)」
——真帆、リモコンでテレビを消す。
悠太「……勉強、終わりですか」
真帆「(お茶を一口)休憩時間だから」
悠太、何か言いかけて、弁当に戻る。
○ カウンセリングルーム・昼過ぎ
野村圭介(三十)、椅子に浅く腰かけている。
真帆「メッセージ、読みました。ご自分も
SNSで盛った生活を発信していて、
苦しくなってきた、と」
圭介「はい。……あ、でもその前に、
一個だけ報告してもいいですか」
真帆「どうぞ」
圭介「牛丼、行ってきました。
……その、例の方と。割り勘で」
真帆「(察して、微笑む)どうでした」
圭介「並盛りと、卵と味噌汁つけて、
一人五百八十円でした。
……なんであんなに緊張しなかったんですかね。
フレンチの百分の一の値段なのに」
真帆「不思議ですか」
圭介「不思議です。フレンチのときは、ワインの
選び方ひとつで手汗かいてたのに。
牛丼屋って、選択肢が『つゆだく』くらいしか
ないんですよ。あれ、発明ですね。
マウントの取りようがない」
真帆「(笑ってしまう)」
圭介「……で、本題なんですけど。
僕のアカウント。『K.CEO』。
まだ、消せてないんです」
真帆「消したい気持ちは、あるんですか」
圭介「あります。あるんですけど……
フォロワーが、八千人いて。
あの人たちに『すごいですね』って言われるの、
まだちょっと、気持ちいいんです。
……最低ですよね」
真帆「最低じゃないです。正直です」
圭介「……あと、あの人の新しいアカウント、
見てるんですけど。おにぎりの写真とかが、
なんか、ちゃんと美味しそうなんですよ。
光の入り方とか。……それって、
どうなんですかね」
真帆「どう、とは」
圭介「正直になった人の写真にも、やっぱり
『よく見せたい』が入ってる気がして。
……あ、いや、僕が言えたことじゃ
ないんですけど」
真帆、何も言わない。
言えないことを、知っている顔で。
圭介「すみません、話が逸れました。
先生。僕、最近考えるんです。
あの八千人って、誰なんだろうって。
顔も知らない八千人に向かって、僕は三年間、
行ってもいない寿司屋の写真を上げてた。
……僕、誰に向かって嘘ついてたんですかね」
真帆「……それは、とてもいい問いですね。
すぐに答えを出さなくていい問いです」
圭介「先生、それ、答えるのが面倒なときの
言い方じゃないですよね?」
真帆「(笑って)違います。
……そうだ。宿題、出していいですか」
圭介「宿題」
真帆「その八千人の中で、顔と名前が浮かぶ人が
何人いるか。次までに、数えてみてください」
圭介「……顔と名前」
真帆「はい。……たぶん、数えられる人数だと思うので」
○ 同・受付・つづいて
会計。悠太、レシートを渡しながら。
悠太「調子、よさそうですね」
圭介「そう見えます?」
悠太「ええ。初めて見えた日の野村さん、
ずっと床見て歩いてたんで」
圭介「……見てたんですか」
悠太「受付は暇なんで、よく見えるんです。いろいろ」
圭介、苦笑して出ていく。
○ あかりのバイト先・休憩室・夕
休憩中の田所あかり(二十六)、
おにぎりを食べている。
同僚が、スマートフォンを見ながら。
同僚「あかりちゃんの新しいアカウント、
うちの妹がフォローしてるって。
『リアル系の人でしょ』って」
あかり「……リアル系」
同僚「盛ってないのが、逆に新しいんだって。
よかったねえ?」
あかり「(おにぎりを見つめて)……うん」
あかり、食べかけのおにぎりを、少し見る。
——写真は、撮らない。
撮らずに、食べる。
食べながら、ふと、スマートフォンの
フォロワー数を確認する。
「1,204」。
昨日より、増えている。
あかり、画面を消す。
消えた黒い画面に、
おにぎりを頬張る自分の顔が、映っている。
○ 詩織の会社・会議室・昼
ガラス張りの会議室。
部下たちを前に、資料を手にした詩織。
詩織「……この数字だと、厳しいと思う。
第二営業部は先月、もう目標に乗せてきてる。
うちだけ遅れるわけにはいかないから」
部下「はい……」
詩織「比べたくて比べてるんじゃないの。
でも、会社って、そういう場所だから」
——言ってから、詩織、
自分の言葉に、一瞬、引っかかる。
詩織M「比べたくて、比べてるんじゃない」
どこかで聞いた言い訳だ。
誰の言い訳だったか——自分のだ。
毎回、報告会の前に唱えている。
詩織、資料に目を戻す。
詩織「……とにかく、あと三件。今週中に」
○ 住宅街の道・夕
塾のバッグを背負った結菜、歩いている。
公園から、同級生たちの声。
同級生(声)「ゆいなー、あそぼー」
結菜、足を止めずに、小さく手を振る。
結菜「ごめん、塾ー」
言い慣れた台詞。
同級生たちは、すぐに遊びに戻る。
結菜、少しだけ歩調を緩め——
また、速める。
○ ピアノ教室・ロビー・夕
レッスン室のガラス越しに、
結菜(十一)が弾いているのが見える。
音は、ロビーにはくぐもってしか届かない。
ロビーのソファで待つ母親たち。詩織もいる。
ピアノママA「結菜ちゃん、今年も本選確実よねえ。
うちなんて、予選通るかどうか」
詩織「そんなこと、ないですよ」
ピアノママA「先生も、結菜ちゃんには期待してるって。
いいわよねえ、手がかからなくて」
ピアノママB「うちの子なんて昨日、泣いちゃって。
練習いやだって。
結菜ちゃんは、泣いたりしないでしょう?」
詩織「……どうかな」
ガラスの向こうで、結菜が弾き終える。
先生が何か言い、結菜が頷く。
その表情は——ここからでは、よく見えない。
やがてレッスン室のドアが開き、
結菜と、ピアノ教師(五十代)が出てくる。
ピアノ教師「お母さん。結菜ちゃん、技術はもう
申し分ないんです。ただ……最近、少しだけ、
音が硬いかな。何か気にしていることでも
あるのかもしれません」
詩織「家では、いつも通りですけど」
ピアノ教師「そうですか。ならいいんです。
……本番に強い子ですから、結菜ちゃんは」
詩織、隣の結菜を見る。
結菜、まっすぐ前を見ている。
○ 車内(走行中)・夜
運転する詩織。助手席に結菜。
詩織「先生、なんて?」
結菜「……テンポが、走るって」
詩織「直せそう?」
結菜「うん」
会話が、業務連絡のようだ。
カーラジオから、曲が流れ始める。
テレビアニメの主題歌。
結菜の指が、膝の上で、
小さく動く。
鍵盤を叩くように。
詩織は、前を見ていて、気づかない。
信号で停まる。
詩織、ちらりと娘を見る。
結菜、指を止めて、
窓の外を流れる灯りを、ただ見ている。
詩織、何か言おうとして——
言葉が見つからないうちに、信号が変わる。
○ 高柳家・リビング・夜
整った、広いリビング。
一角にアップライトピアノ。
冷蔵庫に貼られた予定表。
「月・英語 火・ピアノ 木・ピアノ 金・塾 土・模試」
食卓に、二人分の夕食。
三人目の席には、何も並んでいない。
結菜「お父さんは?」
詩織「今日も遅いって」
結菜「……ふうん」
結菜、黙々と食べる。行儀よく。
詩織、ふと真帆の宿題を思い出す。
詩織M「結菜が一番笑ってるのは——いつ?」
思い出そうとする。
レッスンの帰り道。笑っていない。
模試の点数がよかった日。笑った。
……でも、あれは。
あの笑顔は、こちらの顔色を見てから、出てくる。
詩織、箸を止めて、娘の顔を見る。
結菜、無表情に、きれいに食べている。
○ 同・廊下〜リビング・夜(後日)
風呂上がりの詩織、廊下を通りかかる。
——ピアノの音。
課題曲では、ない。
テレビアニメの主題歌だ。
そっと覗くと、結菜が弾いている。
楽譜もなしに、耳で覚えた曲を。
体が、小さく揺れている。
鼻歌まじり。
——笑っている。
詩織、思わず口が動く。
詩織「そんな曲弾いてる暇あるの——」
言いかけて、自分の口を、手で押さえる。
結菜、気配に気づいて、ぱっと手を止める。
結菜「……ごめんなさい」
弾いていたことを、謝る。
課題曲の楽譜を、慌てて譜面台に開く結菜。
詩織「(かすれた声で)……結菜」
結菜「ちゃんとやるから」
「ちゃんとやるから」。
娘の口から出たその言葉に、詩織、立ち尽くす。
結菜、課題曲を弾き始める。
正確な音。揺れない体。
○ 同・リビング・深夜
結菜は寝た。
詩織、一人、テーブルでワインをひと口。
向かいには、ラップのかかった三人目の夕食。
スマートフォンにメッセージ。夫から。
「先に寝てて」
——五文字だけ。
詩織、返信を打ちかけて、消す。
「了解」とだけ、送る。
玄関のドアは、まだ開かない。
詩織、ふと、リビングの棚の写真立てを見る。
結菜の七五三。三人で写っている。
——三人で写った写真は、たぶん、それが最後だ。
詩織、ワインを、飲み干す。
○ 「こころの外来 つづき」・受付・昼(数日後)
詩織、受付へ。
悠太「高柳さん、こんにちは。
二回目からは問診票、ないので楽ですよ」
詩織「(少し笑って)あれ、結構、効きますね」
悠太「……よく言われます」
○ 同・カウンセリングルーム・つづいて
二回目のカウンセリング。
真帆「宿題、どうでした」
詩織「……見つけました。
結菜が一番笑ってる瞬間」
真帆「はい」
詩織「アニメの主題歌を、勝手に弾いてるときでした。
楽譜もないのに、耳で覚えて。体、揺らして。
鼻歌まで歌って。……コンクールの課題曲を
弾いてるときの結菜、思い返したら、
一度も笑ってませんでした」
真帆「それを見て、詩織さんは、
最初に何を思いましたか」
詩織「(間があって)……『そんな曲弾いてる暇あるの』
って。言いそうになりました。
というか、途中まで、口から出てました」
真帆「正直に話してくださって、ありがとうございます」
詩織「それで、結菜、私に気づいて。
……謝ったんです。『ごめんなさい』って。
『ちゃんとやるから』って。
……先生。好きな曲を弾いてただけで、
娘が、私に謝るんですよ」
詩織の目が赤くなる。
詩織「私、いつから、結菜の『楽しい』が
怖くなったんだろう」
真帆、ゆっくりと。
真帆「詩織さん。報告会で真紀さんのお話を
聞いているとき——一番怖いのは、何ですか」
詩織「……結菜が、負けること」
真帆「本当に?」
長い間。
詩織「…………違う。
……『あの家、大したことなかったね』って。
私が、思われること」
言ってから、詩織、自分の言葉に驚いている。
真帆「——今のお話、最初から最後まで、
主語が詩織さんでしたね」
詩織、顔を上げる。
真帆「初めてです」
詩織、泣き笑いのような顔になる。
詩織「……ひどい母親ですね、私」
真帆「いいえ。ここに来る前の詩織さんは、
それを『全部、結菜のため』という言葉に
しまっていました。今は、開けて、中を見ています。
それは、全然違うことです」
詩織「……先生は、お子さんは」
真帆「いません」
詩織「……『じゃあ、わからないですよね』とは、
言いません。ここに来る前の私なら、
言ってたと思うけど」
真帆「(少し笑って)……言われても、
大丈夫なようには、なってます」
詩織「(笑って、すぐ真顔に戻り)
……私、どうしたらいいんでしょう」
真帆「それは、私が決めることではないです。
……ただ。聞くべき相手は、
私じゃない気がします」
○ 同・カウンセリングルーム・昼(別の日)
あかり、久しぶりのカウンセリング。
真帆「田所さん。調子、どうですか」
あかり「先生。私、『リアル系』らしいです」
真帆「リアル系」
あかり「正直なこと書いてたら、フォロワー、
逆に増えちゃって。『盛ってないのがいい』って、
コメントで褒められるんです。
『等身大で好感が持てます』って」
真帆「……それを読んで、どんな気持ちですか」
あかり「嬉しいです。ふつうに。
……で、嬉しくなった瞬間、考えちゃうんです。
次は何を正直にしよう、って。
——正直の、ネタ探しです。
……先生。これって、治ってるんですか。
悪化してるんですか」
真帆、すぐには、答えられない。
真帆「……正直って、難しいですね」
あかり「(笑って)先生が、それ言います?」
真帆「(笑って)ここだけの話です」
○ あかりのアパート・夜
あかり、スマートフォンを見ている。
DMの通知。企業のアカウントから。
「あかり様 突然のご連絡失礼いたします。
いつも等身大のご投稿を拝見しております。
つきましては弊社の新商品を、
『いつも通りの日常の中で、自然に』
ご紹介いただけないでしょうか。
※PR表記は、目立たない形で結構です」
あかり、画面を見つめる。
あかり「……自然に、紹介」
返信を打ち始める。
「ご連絡ありがとうございます。詳細を——」
——手が、止まる。
テーブルの上の、質素な夕食。
あかり、それを見る。
画面を見る。もう一度、夕食を見る。
——返信を、下書きに保存する。
送らない。
消さない。
……保存する。
あかり、スマートフォンを裏返して置き、
夕食に手を合わせる。
あかり「いただきます」
○ カフェ「TERRA」・昼
真紀と香奈、二人だけのテーブル。
真紀「詩織さん、最近付き合い悪くない?
今日も『用事がある』って」
香奈「忙しいんじゃない? お仕事もあるし、
コンクールも近いし」
真紀「コンクール近いのに余裕っていうかさ。
……ね、なんか隠してると思わない?」
香奈「(曖昧に微笑んで)どうかな」
真紀「まあ、いいけど。あ、そうだ、
颯太の塾の面談の話なんだけどね——」
凛、水を注ぎに来る。
二人の会話を、聞くともなく聞いている。
無表情のまま、テーブルを離れ、
カウンターに戻って——一瞬だけ、手が止まる。
また、カウンターを拭き始める。
○ 「こころの外来 つづき」・待合室・夕
診療後。悠太と真帆、それぞれ紅茶。
悠太「先生、来週の予約、あと三件入りました。
じわじわ来てますよ、うち」
真帆「ありがたいね」
悠太「あと、これ、見てください。
『マウント外来なう。自分と向き合う私、えらい』
……って投稿してる人がいます。写真つきで。
うちの看板、ばっちり写ってます」
真帆「……なう」
悠太「通院を発信するの、流行るんですかね」
真帆「(紅茶のカップを見つめて)……どうだろう。
——流行らないと、いいけど」
真帆の声に、かすかな引っかかり。
悠太、スマートフォンをしまう。
○ 高柳家・リビング・夜
結菜、課題曲の練習を終えたところ。
テーブルの上で、詩織のスマートフォンが震える。
ママ友グループのLINE。
真紀「【ご報告】颯太の面談、行ってきました!」
——続く、長文の気配。
詩織、通知を一瞥して、
スマートフォンを、裏返して置く。
詩織「結菜。ちょっと、話そっか」
結菜「……なに?」
二人、ソファに座る。
少し距離を空けて座った結菜との間を、
詩織は、詰めない。
詩織「あのね。ママ、最近、病院に行ってるの」
結菜「(顔を上げて)……どこか、悪いの?」
詩織「ううん。心の、整理をしに行ってる。
それでね、気づいたことがあって。
ママ、結菜に、ちゃんと聞いたことが
なかったなって」
結菜「……なにを?」
詩織「結菜が、本当にやりたいのは、どれ?
ピアノ、英語、塾。
——全部やめても、いいよ」
結菜、じっと母を見る。
冗談かどうか、探る目。
結菜「……怒らない?」
詩織「怒らない」
結菜「……ほんとに?」
詩織「ほんとに」
長い、長い沈黙。
結菜、膝の上の自分の手を見ている。
ピアノだこのできた、小さな指。
結菜「(小さな声で)英語は……先生が、怖い」
詩織「……そうなの?」
結菜「(頷く)」
詩織、初めて聞く話だった。
結菜「塾は……わかんない。ふつう。
……ピアノは、好き」
詩織「うん」
結菜「……コンクールは、嫌い」
詩織、息を呑む。
結菜「ピアノだけ、続けたい。
……コンクールは、出たくない」
言ってしまってから、結菜、母の顔色を窺う。
その「窺う」目に、詩織、胸を突かれる。
詩織「……そっか。うん。わかった」
結菜「……いいの?」
詩織「いいよ」
詩織、結菜を抱きしめる。
詩織「ごめんね。……気づかなくて、ごめんね」
結菜、母の肩に顔をうずめる。
しがみつく、小さな手。
結菜「ママ、あのね——」
詩織「ん?」
結菜「…………ううん。なんでもない」
結菜、それ以上は言わない。
言わないまま、母にしがみついている。
その目は——泣いていない。
○ 結菜の部屋・夜
一人になった結菜。
机の上に、コンクールの課題曲の楽譜。
結菜、楽譜を開く。
書き込みだらけのページ。
先生の赤字。母の付箋。
結菜、ページの端を、つまむ。
——破る。
ビリ、と乾いた音。
破った紙を持ったまま、結菜、動かない。
自分のしたことを、見ている。
——直後、机の引き出しを慌てて開ける。
セロハンテープ。
破れ目を合わせ、丁寧に、テープを貼っていく。
空気が入らないように、指の腹でなぞる。
何度も。何度も。
貼り直された楽譜。
破った跡は、テープの下に、はっきりと残っている。
結菜、楽譜を閉じて、胸に抱える。
何年も、母のために頑張ってきた自分は、
一晩では、捨てられない。
○ 高柳家・リビング・深夜
テーブルで待っていた詩織。
——玄関の音。
高柳誠(四十三)が帰ってくる。
緩んだネクタイ。コンビニの袋。
疲れた顔は、暗いリビングでは、よく見えない。
誠「……起きてたのか」
詩織「うん。あのね、結菜のことで、話があって」
誠「(冷蔵庫を開けながら)ん」
詩織「コンクール、出ないことにしたの。
結菜が、自分で決めた。ピアノは続けるけど、
コンクールは出ないって」
誠「……ふうん」
誠、缶ビールを開ける。
誠「いいんじゃないか。詩織がそう決めたなら」
詩織「——私じゃなくて。結菜が、決めたの」
誠「(スマートフォンに目を落としながら)
ああ。……うん。そっか」
会話が、そこで終わる。
詩織、続けようとした言葉を——しまう。
詩織「……お風呂、沸いてるから」
誠「ん。ありがとう」
誠、缶ビールを持って、リビングを横切る。
ピアノの上の、課題曲の楽譜。
背表紙の、セロハンテープ。
——その横を、見もせずに、通り過ぎる。
詩織、その背中を、見ている。
○ 「こころの外来 つづき」・カウンセリングルーム・昼(数日後)
三回目。詩織、どこか晴れた顔。
詩織「結菜、コンクール、出ないことにしました。
本人が決めました。……私は、受け入れました」
真帆「ご主人には?」
詩織「言いました。『いいんじゃないか。
詩織がそう決めたなら』って。
……結菜が決めたんだって、言ったんですけどね。
三秒で終わりました、その話」
真帆「……三秒」
詩織「うちは、いつも、そうなんです。
(少し笑って)……あ。今の、愚痴ですね」
真帆「(微笑んで)愚痴も、診療の内です。
——それで。詩織さん自身は、今、
どう感じてますか」
詩織「(少し考えて)……半分、ほっとしてます。
もう半分は——正直に言うと、
『もったいない』って思ってる自分が、まだいます」
真帆「……その『まだ』が言えるの、
とてもいいと思います」
詩織「治ってないってことですよね、それ」
真帆「(微笑んで)……焦らなくていいです。
何年もかけて固まったものは、
何年もかけて、ほどけていくので」
○ 高柳家・リビング・夜
結菜、ピアノを弾いている。
——アニメの主題歌。
今日は、隠れていない。
リビングの照明の下で、堂々と。
詩織、ソファで聴いている。
結菜「(弾き終えて)……ママも、弾く?」
詩織「ママ? ママは『猫ふんじゃった』しか
弾けないよ」
結菜「じゃあ、それでいい」
結菜、椅子を半分、空ける。
詩織、隣に座る。
二人、連弾で「猫ふんじゃった」。
詩織が、盛大に間違える。
結菜、吹き出す。
声を上げて笑う結菜。
その顔を、詩織は見ている。
十一年育ててきて、
初めて見る顔のような気がする。
——ピアノの上。
閉じられた課題曲の楽譜が、置かれている。
背表紙の一箇所に、セロハンテープ。
詩織は、まだ、気づいていない。
○ カフェ「TERRA」・昼(数日後)
いつもの三人。
真紀「——それでね、颯太の塾の面談で、
先生が『このままいけば御三家も狙えます』って」
香奈「すごいねえ」
真紀「まだわかんないけどね。
で、結菜ちゃんは? コンクール来月でしょ。
仕上がってるんでしょ、余裕で」
詩織、カップを、静かに置く。
詩織「うちね。コンクール、出ないことにしたの」
間。
真紀「……え?」
詩織「結菜が決めたの。ピアノは続けるけど、
コンクールは出ないって」
真紀「え、なんで? もったいない。
あんなに弾けるのに」
詩織「本人が、出たくないって」
真紀「(声のトーンが変わる)……詩織さん。
子どもの『出たくない』なんて、
その時の気分でしょ。あとで絶対、後悔するよ。
結菜ちゃんが。ああいうのは、
親がちゃんと導いてあげないと」
詩織「……」
真紀「今やめたら、今までの何年間は
何だったのってなるじゃない。ねえ?
詩織さんとこは余裕があるからいいけどさ、
普通はね——」
真紀の言葉は、続いている。
詩織、微笑んだまま、答えない。
反論もしない。頷きもしない。
ただ、微笑んでいる。
真紀、その微笑みに、一瞬、たじろぐ。
真紀「……ね、香奈さんも、そう思うでしょ?」
香奈、視線を下げて、コーヒーを一口。
香奈「(曖昧に微笑んで)……ん。どうかなあ」
詩織、伝票を手に、立ち上がる。
詩織「ごめん、私、午後から会議で。
……ここ、払っとくね」
真紀「あ、うん。……ありがと」
詩織、レジへ。
残された真紀、香奈に、小声で。
真紀「……ああいうの、降りたもん勝ちみたいで、
ずるくない?」
香奈「……」
香奈、答えずに、窓の外を見る。
会計を済ませて出ていく、詩織の背中。
その背中が、来たときより、少しだけ軽い。
カウンターの奥で、凛が、
その背中を、ちらりと見送っている。
○ 藤川家・リビング・夜
香奈、ソファでスマートフォン。
昼間のケーキの写真を選んでいる。
三枚撮ったうちの、一番きれいな一枚。
キャプションを打つ。
「気の置けない仲間と、ゆっくりお茶。
こういう時間に、救われてます」
——投稿。
廊下の奥、閉じられたドア。
娘・瑠美の部屋。
ドアの隙間から、明かりが漏れている。
香奈、そのドアを、ちらりと見る。
すぐに、スマートフォンに目を戻す。
通知は、もう来始めている。
○ 「こころの外来 つづき」・カウンセリングルーム・夜
診療後。
悠太、コートを羽織って顔を出す。
悠太「先生、お先です。
……あんまり遅くならないでくださいね」
真帆「うん。おつかれさま」
悠太「(ドアの手前で、振り返り)
……先生、最近、ちゃんと寝てます?」
真帆「(顔を上げず)寝てるよ。なんで?」
悠太「いえ。……なんでも。お先です」
悠太、出ていく。
一人になった真帆、デスクでカルテを整理している。
「高柳詩織」のカルテ。
記録のメモ。
「主語の混同。『子どものため』——」
真帆、ペンを止める。
自分の書いた文字を、しばらく見つめている。
真帆、スマートフォンを取り出す。
連絡先「お母さん」。
発信ボタンの上で、指がしばらく止まって——押す。
コール音。三回。四回。
母(声)「……もしもし? どうしたの、珍しい」
真帆「うん。……開業して一ヶ月経ったから。
一応、報告」
母(声)「ああ、そう。どうなの、
患者さん、来てるの?」
真帆「ぼちぼち。……予約も入り始めた」
母(声)「そう。よかったじゃない。
——あ、そういえばね、理央ちゃん、
こないだテレビ出てたわよ。夕方の番組。
本も出したんですって?
駅前の本屋さんで、平積みになってた」
真帆「……うん。知ってる」
母(声)「同期なんでしょう、あの子。
あんたも負けてらんないわね。
あんたは昔から、やればできる子なんだから」
真帆「……」
母(声)「もしもし? 聞いてる?」
真帆「……ねえ、お母さん」
母(声)「なに」
真帆「私が優秀じゃなかったら——
お母さんは私を、好きじゃなかった?」
長い、長い沈黙。
電話の向こうで、テレビの音だけがしている。
母(声)「……何言ってんの、急に」
——答えではない、答え。
真帆「(小さく笑って)ごめん。なんでもない。
……おやすみ」
真帆、電話を切る。
スマートフォンを持ったまま、しばらく動かない。
デスクの上、カルテの文字。
「『子どものため』」
真帆、カルテを、静かに閉じる。
○ 同・待合室・つづいて
真帆、待合室の電気を消す。
暗くなった部屋の中で、
窓からの薄明かりを受けて、
桂木理央の胡蝶蘭だけが、白く浮かんでいる。
真帆、鞄を持ったまま、
それを、しばらく見ている。
暗転。
第2話・了
