小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 第12話 夢の国
「知ってる。『えんでお逃げ』でしょう?」
ヨウコは、両眼で花壇に積もった雪を捉えたまま、こたえた。
「南方にある大帝国で一時期流行った歌よ。歌い手の女はその後、皇帝お抱えの歌姫になって……しまいには〝コウショウ〟になったはず」
「コウショウ?」
「帝国じゃ、宗教上離縁が認められないの。だから、皇帝とか身分の高い男たちは、妻以外の女と恋愛する時、相手を『公式』に認められた『妾』にするわけ」
ヨウコは人差し指で、「公妾」と『異国』の文字で雪面に書いた。
「『妾』だなんて……人を馬鹿にした制度ね」
セミョルのいう「大陸北部の共和制の国」だったら、男も女も自由恋愛が許されるだろうに。自由に恋に落ち、自由に恋に破れ……その共和国なら、貴族も平民も関係ないのだろうか?
「そう? ……理にかなっていると思うけど」
ヨウコは顔面をぷるぷると震わせる。
「大帝国でも、この村でも、自由に風を吹かすと、『多数派』にとって都合が悪い事実が千も万も湧いて出てくる。大小変わりなく、集団には被害者にされがちな『少数派』がいるわけ。公妾は」
そこで言葉を区切る。彼女の前髪に小さい雪の粒が乗っていて、溶けた粒が髪の先から鷲鼻へと垂れた。
「一番わかりやすい弱者と強者の両方を併せ持つ『象徴』よ。権力ある男の寵愛に喜ぶか嘆くかは本人次第。でも、うちなら、相手に決められてしまった地位は利用するしかないと思う」
「理にかなっているから?」
「その社会に生まれついたら、生まれついたなりに、『強かに生きる方が勝ち』だからよ」
前髪から垂れた水滴が、ヨウコの睫毛を濡らし、目尻へと伝う。冬に染まった白い山の中で、彼女はまるで冬眠しそびれた熊のようだった。
「ねえ」
たとえようのないみすぼらしい姿を見ているせいなのかわからないが、ナミは彼女に尋ねていた。
「この世界に、『夢の国』ってあると思う?」
「夢?」
ヨウコの目が、静かに閉じられた。
「男も女も関係ない。『村の中のあたし』じゃなくて、『あたし』が『あたし』として認められて、がむしゃらに働けて、恋をしてもしなくても説教されなくて、友達がいてもいなくても『悪い子』と言われなくて、思いっきり喧嘩できて、本当にダメなことだけ注意されて……」
ヨウコは、動かない。音を立てず舞う雪花の中で、雪の重みに耐える「母親の花」と同じ低さまで屈んでいる。
「続けて」
わずかに震わせた唇で先を促された。唇から漏れた息が、刺すような冷気を一瞬曇らせる。
「……相手の都合でコロされない国」
ヨウコは、「待つ」人だ。
無口な人ではないのに。彼女の前だと、自然と忌み言葉も、『外』の世界のことも、ナミの望む「夢の国」も、全てが明らかにされる。それが自分の意思とは、どうしても思えないのだ。
「『夢』だと思いたいの?」
その問いに、ナミの思考は止まる。
「そんなわけないでしょ……」
「なら、どうして三年後なの」
ヨウコの閉じられた瞼の先端で、睫毛が細かく震えた。
「村を出る計画は、どうして三年後に決行するの」
ヨウコと三度しか会っていないが、ナミは既に『外』への脱出計画を話していた。話すなら彼女だ、と何かに急きたてられて告白していた。ヨウコは、山の向こうの北方と、『森』の向こうの南方の『異国人』と何度か会ったことがあるらしい。『異国人』は自由に『森』を通り抜けできる権利があるから、彼らの話題は南北の国々の入り交じったフレッシュな内容であるらしい。「〝フレッシュ〟という単語は、数年前に大国から独立した『北西にある民主共和国』の公用語だ」と『異国人』と交流のあるヨウコが説明してくれた。ナミは、セミョルに民主主義を教わっていなかった。おそらく、「民」の字が入っているから、国民全員を尊重する国なのだろう……新しくできた「民主共和国」には夢が、パンパンに詰まっている気がした。
「『夢の国』は、存在すると思う。一例に挙げるなら、『民主共和国』とか」
ヨウコは、体に纏った雪片を乱暴に手の平で払い、ゆっくりと立ち上がった。
「でも、夢と言っている時点で駄目。夢は、心の持ちようで、簡単に作って壊せる。そんな不確かなものを信じているなら、存在しないんじゃない?」
そう問いかけると、雪に押し潰されそうな住み家の中へ入っていった。
ヨウコの主張を聞いて、ナミは吹き出しそうになった。
彼女にわかりっこない――だって、彼女はジェリービーンズの味を知らない。「民主主義」や「公妾」といったフレッシュな伝聞に詳しいのに、実際には、味わっていない。実体験のない心に老いは訪れない。夢を舐めたことのない精神は、若い――と同い年の自分がいうのもなんだけど。
ジェリービーンズを舌で転がした時、ナミの『異国』は、初めて「実体」を帯びた。「実体」はじわじわとナミの心に絡みつき……その後ヨウコと出会って、ナミはすっかり変わってしまった。
(つづく)
↓ 前後の話のリンクを貼っておきました。
小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 第11話 ソヨンとの会話(下)|鷺沼 新
小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 第13話 ヨウコとジーク|鷺沼 新
