小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 第9話 出会い
緩やかに巡っていた思考がプツリと切れて、急に竹籠の編地から飛び出たささくれが指先を突き刺した。丸い球状の血が皮膚を覆い、痛みがまた心をささくれ立たせる。
今日はこれ以上、他の家を回らない。
血の粒を舌先で舐め、冷えた空気に当てられた傷口を他の指で押さえる。夢から醒めた心地で辺りを見回すと、パラパラに砕けた枯葉の塊が、木の根元に、家々の四壁の出っ張りに降り積もっている。枯葉は、全て褐色ではない。若葉色の混ざった黄味色に枯れたものや、フライパンの焦げのような墨色のものもある。なぜ今気づいたのだろう。本当にこの村が現実だと、遠い昔から知っていたのに。春夏秋冬を十五と四分の二も繰り返したのに。たった今、ナミは知った。
夢から醒めて、どこかへ向かう自分の足裏が痛むのを感じる。傷ついているのではなく、足が冷えている。簡単な現実を確かめるべく、足がそちら側へ……山へと向かった。
熊の冬眠時期の始まったせいか、山にかなり近い家々の壁にだけ猟銃があった。獣の足跡は、微かに残されてある。……冬ごもりの季節が、始まろうとしている。
首が痛くなるほど天上に顔を傾け、山を見据える。山の中腹辺りから頂上までの、枯葉のない樹木の裸体を眺めていくと、山は冬ごもるのではなく、死に向き合おうとしているように思えた。生きていない……生きていない山の向こうに、生きている『異国』が存在する。……詩的な想像が、とりとめもなく頭を巡る。
きっと『異国』を思う時が、ナミの精神世界が年老いる瞬間なのだ。……ナミが、ちゃんと生きている証。ジェリービーンズが恋しい。
黒く陰気な裸木たちは、日差しを通さず反射させている。太陽の白い輪のような日差しが、木々の間をさまよって、山の中身を剥き出しにする。……すると、ナミは見つけた。
黒い枝木の合間に、枯葉色のあばら屋があった。あばら屋の四方に外壁はなく、わずかに開けた箇所に、花壇があった。花壇には、握り拳ほどの橙色の花が一輪咲いていた。ニコラの花によく似ている……ナミは、無我夢中であばら家へと駆けていった。傾斜のある道なき道を太腿で踏ん張って、登っていく。気が急いて、何度も落ち葉に足を取られそうになりながら、目線はずっと花を捉えていた。
あれは、ニコラじゃない。イオレの鉢植えは、まだ花が咲いていない。お母さん、お母さん、あれはあたしのお母さんの花……。
とうとう爪先を傾斜に引っかけ、強かに膝小僧を打ちつける。籠の中にあった風呂敷包みがコロコロと坂を転がり落ちていく。皮膚が浅く裂けたのがわかったが、ナミは籠も膝の怪我も無視して、這うように前方へと進んでいった。
腕を伸ばせば花弁に届くほどの距離になった時、
「誰」
しゃがれ声が、聞こえた。ナミは、視線を上げなかった。花から目を逸らせば、お母さんの花が消えてしまう気がした。その代わりに、「あたしは、ナミ。ルドの娘」と言葉を返した。
「ルドって……もしかして、リザさんの旦那?」
「そうよ」
一言で返事をする。落ち葉を踏む乾いた音が、近づいてくる。その間に、ナミは「失礼」と軽く断ってから、花弁に鼻先を近づけた。
一瞬の甘さの後に、鼻腔を突き抜ける爽やかな辛み。予想通り、ニコラの花と〝別種〟だったが、花の起源は〝同一〟だ、とナミは直感した。
ようやく興奮が落ち着くと、ふっと先程の言葉が引っかかった。
「リザさんの旦那」
リザの方をよく知っているかのような口ぶりだ。ナミは、ようやく視線を上げた。
ナミより頭一つ分上背のある一本の樹木のような体つきの少女が立っていた。ごわごわとした黒髪が額にぺったりと張り付き、大きな眼は不愉快気に細められている。感情を豊かに乗せた面差しを観察していると、ナミは彼女が周辺の裸木そのものに感じられるようになった。
あなたは誰、村の人間なの、なんで山に住んでいるの、危険じゃないの、この人を知らない、村人だろうか――。
「うちは、ヨウコ。ジークとルナの娘」
尋ねる前に、彼女の方からこたえた。風邪引き独特の、男と女の境を滲ますしゃがれ声が、余計に上背を大きく見せた。
ジークと言う響きを聞いたことがある気がして、記憶を辿ってみると昨日のトールの話を思い出した。
内気なリザが珍しく仲の良かった友達の一人だった。リザは結局、ルドと結婚して今のリザになった……そういう話だったような。
「ジーク……さんは、父ちゃんとも仲が良かったって聞いていたけど。あなたは、父ちゃんを知らないの?」
「だって」
何かを言いかけた唇をすぼめ、ヨウコは視線を花壇に向けた。
「うちの父親は、ルナ……うちの母親と結婚したから」
「……から?」
聞き返すと、すぼめた唇を今度は突き出し、「詳しくは知らないけど」と呟いた。
「結婚する時、リザさんと色恋のごたごたがあったんだって。……うちの父親が言うには。それで現状、父娘揃って村八分に近い感じ」
へえ、とナミは平静さを保ったまま考えた。養母は当時、ジークに好意を持っていたのか。あくまでもヨウコの父親側の主張だが、かなり筋が通っている。思い返せば、義兄と夫の間で、どっちともつかずに双方の機嫌に合わせて行動するリザの思考回路の一つに、ごたごたがあるような気がするのだ。
「リザさんに娘がいたなんて、知らなかったな」
「あたしは、養女なの」
「養女?」
ヨウコの眼が卵のように大きく見開かれた。
「実の親は、どうしたの?」
「二人とも風習でコロされた」
口走った後、反射的に口元に手をやった。
「ふうん」
ヨウコの表情に大きな変化はない。目を大きく開いたまま、どこか遠くを見つめている。少し時が経つと、大股で落ち葉を蹴飛ばしながら、花壇の前に立った。ナミは、隣で屈んでいたため、ヨウコの影法師に全身を覆われた。
「じゃあ、うちと同じなんだ」
「同じ」の意味がわからず、逆光で見えない彼女の顔をぼんやりと見上げる。表情が見えないのに、一瞬の光の加減でその口元が微笑んでいることに気づいた。
「この花はね、うちの母親の花なの」
先程までナミの内側にあった興奮の欠片が、跡形もなく消失する。
「あなたのお母さんも……風習で?」
「九年前に死んだ」
ナミが、六歳の年だ。
考えるより先に、声に出していた。
「あたしのお母さんも、九年前に……選ばれた」
「何人人柱を選ぶかは、森のヌシの気分次第だしね」
気分次第。その響きが、胸にこつんと当たって、軽く弾かれる。
「その気まぐれで、『異国』への道をあたしにも開いてくれたらいいのに……」
気分次第で村を豊かにして、人を喰らい、そうしてセミョルのような“少数派”が嘆くのだ。『森』が『異国』と『村』との間にそびえる限り、村人はめでてぇ顔をする。不愉快な社会制度だ。
「仕方ないよ」
ヨウコが笑みを深くする。泣いているかのように目尻に皺を寄せた。
「この狭い世界から、誰も逃れられないんだから」
ナミと同じくらい低く屈んで、その骨太な鼻をルナの形見に近づける。
「うちには、この花があれば……十分」
そう呟いた後、花弁に触れないよう注意しつつ、そっと花の香りを吸った。母の香りやね、とひとりごちる。
「どんな香りがするの?」
一瞬、己の発した声かと思った。
何かの情を映した目が、ナミを見ていた。
「あなたも母親の花を持っているんでしょう」
無意識のうちに呻くような返事をしていた。
「わからない」
ナミは、母の香りを知らない、母のかなしい腕を知っている――。
(つづく)
↓ 前後の話のリンクを貼っておきました。
小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 第8話 村人との語らいとリザ(下)|鷺沼 新
小説連載 森の子~ある少女と、フウシュウ~ 第10話 ソヨンとの会話(上)|鷺沼 新
