モネは料理をしていたのか?クロード・モネの料理ノートにまつわる誤解
印象派の巨匠、クロード・モネ。
数多くの作品を残し、1926年に86歳でこの世を去りました。今年2026年はモネ没後100年にあたります。
この記事では、クロード・モネの料理ノートと、日本の一部で広まっている「モネは料理をしていた」という説について、その誤解と広まってしまった理由について考察します。
美食家モネと、モネの料理ノート
前回の記事にも書いた通り、クロード・モネには美食家という一面がありました。
そんなモネの美食家のイメージは、1989年、モネの料理ノートが書籍として出版されたことで広く知られるようになりました。
モネの料理ノートとは?
クロード・モネとその妻アリスが所有していたとされる、複数の料理ノート。そのノートの中には、膨大な数のレシピが手書きで記録されています。
レシピの中には、料理名の後にカッコで名前が記されているものがいくつかあります。
Bouillabaisse de morue(Cézanne)
タラのブイヤベース(セザンヌ)
Conserves de cèpes(Durand-Ruel)
ポルチーニのコンセルブ(デュラン=リュエル)
Recette de girolles(Mallarmé)
ジロール茸のレシピ(マラルメ)
Oignons blancs farcis(Charlotte Lysès)
白玉ねぎのファルシ(シャルロット・リゼ)
印象派の画家ポール・セザンヌ。画商ポール・デュラン=リュエル。詩人ステファヌ・マラルメ。女優のシャルロット・リゼは有名なギトリー一家の一員。いずれもモネと深い付き合いがありました。
モネは、友人の家やレストランで気に入った料理があると、作り方を聞き出していたそうです。これらの名前付きレシピは、友人達に振る舞われた料理が美味しくて、彼らから聞き出したレシピをノートに書き留めたものだと思われます。
実際に、モネの書簡集に収録されているマラルメへの手紙に、ジロール茸のレシピを尋ねる内容のものがあるそうです。
他にもどんなレシピが書かれているのか、気になる方はこちらの記事をご覧ください。
これらのモネの料理ノートは、美術史と印象派の専門家であるクレア・ジョイス(Claire Joyes)によって「Les carnets de cuisine de Monet(モネの料理ノート)」として編纂され、1989年に出版されました。序文はフランス料理の巨匠ジョエル・ロブション氏。2020年には「Les carnets de cuisine de Monet à Giverny」として再出版されています。

「モネ自身が料理をしていた」という誤解
モネの料理やレシピについて調べていると、なぜか日本では「モネ自ら調理をして友人に振る舞った」「モネの趣味の1つが料理だった」「モネ自ら猟に出かけ(?!)、捌いて調理をした」というように、あたかもモネ自身が料理をしていた、料理をすることが好きだったととれる説明をしている記事やサイトが非常に多いことに気がつきました。
実は、「モネ自身が料理をした」というのは誤解で、ジヴェルニーのモネの家公式ホームページのコラムでもはっきり否定されています。
While Monet was a dining afficionado, he never did the actual cooking!
訳)モネは食通だったが、決して実際の料理はしなかった!
フランス語や英語で調べると「モネ自身が料理した」という説は見つけられなかったので、この誤解は主に日本で広まってしまったのだと思われます。
なぜ日本で誤解が広まったのか?
なぜ日本では「モネ自身が料理をする人だった」という誤解が生じてしまったのか考えてみました。
複数の要因が重なった結果だと思いますが、まずはモネの料理ノートに関する書籍を記したクレア・ジョイスの著書の中で、唯一の日本語訳本「モネの食卓」(2004,日本テレビ放送網)の中の一文。
ジヴェルニーの食卓によく招かれたのはクレモンソー、ルノワール、ピサロ、デュラン・リュエル、そして彼の家族。モネは自らの手で猟肉や家禽を捌き、調理した。
これは、ジョエル・ロブション氏による序文の一部です。
この日本語訳では「モネは自らの手で肉を捌き、調理した」と書かれています。しかし、このロブション氏の序文、フランス語の原文を読むと少しニュアンスが異なることに気が付きました。
Pour ses nombreux des invités ー Clemenceau, Renoir, Pissarro,Durand-Ruelー bein sûr sa famille, il découpait lui-même à table les gibiers, rôtis et volailles.
訳)彼(モネ)の数々の招待客ークレマンソーやルノワール、ピサロ、デュラン・ルュエルーそしてもちろん彼(モネ)の家族のために、モネは自ら食卓でジビエ料理やロースト料理、家禽料理を切り分けた。
≪il decoupait à table ≫モネは"食卓で"切り分けたのであって、「捌いて調理した」だと意味が少し変わってしまいます。その後に続く≪les gibiers, rôtis et volailles ≫は、ジビエ、ロースト、そして家禽。つまり、丸ごとサーブして食卓で切り分ける必要のある料理の列挙です。
ある日のモネ家の食卓。友人のルノワールやピサロが招待されていて、メイン料理として鶏の丸焼きが出てくる。それを主人であるモネが切り分け、客人達に振る舞う… ロブション氏の序文からは、そんな光景がイメージされます。
◆印象派の巨匠クロード・モネは「膨大なレシピをノートに書き残すほどグルメだった」というエピソードの意外性と強さから、料理もしたのでは?と飛躍してしまった。
◆日本語での資料が極端に少ない。
◆私が調べた限り唯一のフランス語原本の日本語訳本での、原文とのニュアンスのズレ。
これらが重なって、日本で「料理をするモネ像」が広まってしまったのだと思われます。
モネの家では誰が料理していたのか?
美食家モネの家の台所を、実際に支えていたのは誰だったのか?これも、ジヴェルニーのモネの家公式サイトに答えが載っています。
料理人マルグリット
モネは料理人マルグリットに絶大な信頼を置いていたそうです。彼女が結婚する際は、仕事を辞めてしまわないように彼女の夫となるポールを給仕長として雇ったほど。
マルグリットは、シンプルなピューレからとろけるようなメレンゲ、熟成させた肉のパテ、「ガトー・ヴェール・ヴェール」、そしてyankees(アメリカ風)レシピに至るまで、この料理上手の女性は料理芸術を隅々まで身につけていた。
夜になると、この完璧主義者は料理書を読みふけったり、自分のレシピ帳を書き直したりしていた。
モネは多くの友人知人を自宅に招いて食事を振る舞っていました。その食卓を支え、美食家達の舌を唸らせる料理を作り続けたマルグリットは、本当に素晴らしい料理人だったのでしょう。

Dr. Avishai Teicher, House of Claude Monet (Giverny) (7), Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
おわりに
今回この記事を書くにあたり、迷いがありました。
日本で広まっている「料理をするモネの物語」。
これをわざわざ私が否定する必要はあるのか、翻訳のズレを今更指摘するのは良いことなのか…
けれど、モネの料理ノートを読み込んで、モネの食卓について考えているうちに、考えが変わりました。
モネとモネの周りの人々が、19世紀末から20世紀初頭のジヴェルニーでどのように暮らしていたのか。詳しく想像すればするほど、ワクワクしました。
しかし、そこに誤解である「料理するモネの物語」があると、その解像度が下がってしまう。
日本語ではその誤解の物語が広まってしまっていて、それはとても勿体無いことだと思ったのです。
そしてもう一つ。
モネが心の底から信頼して、モネ家の食事を支えていたマルグリットについて、日本ではあまり語られておらず、透明化されてしまっていること。
これも、この記事を書こうと思った理由です。
モネの料理ノート、読めば読むほど様々なことが見えてきて面白いです。
次回は、モネの料理ノートはどのようにして現代まで残ったのか?について、このノートを実際に書いたのは誰だったのかを含めて考察していきたいと思っています。
2026/3/21 モネの料理ノートにはどんな料理のレシピが書かれているのか?ノートに書かれた184の料理名とレシピから、クロード・モネの食卓の特徴を考察した記事を書きました。
実際にモネのレシピで「苺ムース」を作ってみた記事。レシピありです。
