スナイパー|つながる寓話「笑いの調べ」第35話
男は、常に周囲の目を恐れて生きていた。猫背気味の背中、伏せがちな目線。昼の顔は、中堅の広告代理店でデータ分析を担う、目立たない会社員だ。そして夜の顔は、組織からの依頼をこなすスナイパー。彼にとって、どちらの場所も自分の居場所とは思えなかった。
初めて夜の任務に就いた時、男はターゲットを仕留めた直後、路地裏のゴミ溜めで胃液をすべて吐き出した。引き金を引いた指の震えは翌朝まで止まらず、会社でキーボードを叩くことすらままならなかった。
しかし、生き延びるためには感覚を麻痺させるしかなかった。風を読み、気配を消し、スコープの向こうの人間をただの肉塊と割り切る。いつしか標的は一発で崩れ落ちるようになり、翌朝の朝食も残さず平らげられるようになった。スマートフォンの画面に表示される報酬の預金残高は、桁を一つずつ増やしていく。男は無機質な目でその数字を見つめ、ただ指先で画面を閉じた。
昼のオフィスには、眩しいほどの光があった。先輩社員のHは、いつもひまわりのように明るく、誰に対しても分け隔てなく接する人だった。
男が数日かけて仕上げた分析レポートを渡した時、Hは両手を叩いて喜んだ。
「すごいじゃない! 前はグラフの作り方もおどおど聞いてきたのに、今じゃこんな完璧な資料が作れるようになったんだね。本当に頼りにしてるよ!」
その言葉に、男は小さく口元を緩め、何度も頭を下げた。胸の奥がじんわりと熱くなり、その日は夜遅くまで自分のデスクから離れたくなかった。
ある夜、暗号化された端末に送られてきた次の標高データを開いた瞬間、男の指先が凍りついた。
画面に映っていたのは、昼間、オフィスで自分に書類を渡しながら「お疲れ様」と笑いかけてくれたHの横顔だった。
深夜、男はビルの屋上で冷たいコンクリートに這いつくばっていた。数百メートル先、自宅の窓辺でマグカップを手にしているHが、スコープの十字線の中心に重なる。
指をトリガーにかけた。その瞬間、かつて路地裏で吐き散らしたあの夜の記憶が、濁流のように押し寄せた。
Hの「頼りにしてるよ」という声が耳の奥でリフレインする。この指をあと数ミリ動かせば、自分を「ここにいていい人間」として認めてくれた唯一の光が消える。それを消し去った自分が、明日からどんな顔をして生きていけばいいのか、男には分からなかった。
男はゆっくりと指を戻し、ライフルのボルトを引き抜いた。銃をケースに収めると、重い足取りで屋上を後にした。それが、組織において何を意味するかは、誰よりも男自身が熟知していた。
翌日の夕暮れ。男はいつも通りの退勤ルートを歩いていた。家路を急ぐ人々でごった返すスクランブル交差点。男は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
その瞬間、胸の真ん中に強烈な衝撃が走った。
「あ……」
衝撃のあとから、じわじわと熱い塊が溢れてくる。視界がゆっくりと傾き、アスファルトが目前に迫る。周囲で湧き起こった悲鳴が、まるで遠くの水底から聞こえるかのように曇っていく。
男はコンクリートに身を横たえながら、ビルの上層階を見上げた。夕闇のどこか。かつての自分と同じように、一切の感情を殺し、ただ淡々と任務を遂行した次の誰かの冷徹な視線を、男の皮膚は確かに感じ取っていた。
自分の体を蝕んでいく冷たさを感じながら、男の唇は、かすかに笑みの形を結んだ。
もう、明日の朝怯えながら目を覚ます必要はない。誰の目を気にする必要もない。人を殺せるようになった自分と、資料を作れるようになった自分の狭間で、引き裂かれそうになりながら怯える日々は、今ここで終わったのだ。
男は静かにまぶたを閉じ、訪れた深い静寂の中に、身を委ねた。
小さな問い
・犯罪の能力が高まることも、成長と言えるのか?
・良心を失い、罪悪感を感じなくなることで犯罪ができるようになることは、成長と言えるのか?
・あなたは何を基準に、その変化を「成長」と判断しますか?
