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江戸・明治に学ぶ、旅の楽しみ(⑥1週間が基本の湯治の旅)

当時の人口の85%を占めた農山漁村に住む人たちも旅を楽しみました。
年貢や税金に苦しんでいただけではありません。てくてく歩いて社寺や温泉、京・大坂・江戸へと出かけたのです。
彼ら彼女らの旅を、数ヶ月間の旅、数週間の旅、日帰りの旅、湯治の順で見ています。

この記事では、湯治の旅を見ていきましょう。湯治は特別なこと。日記にも書き残されています。
ヘッダーは長野県松本市の浅間温泉(『善光寺道名所圖會』(愛知教育大学附属図書館所蔵)、 国書データベース、https://doi.org/10.20730/100072301)



1.有馬温泉への湯治旅

当時は、湯治=治療でした。
稲を刈り取って俵に詰めたら、村人たちは地域の温泉へ出かけ、傷を癒やし、痛みをとりました。

湯治は1週間単位で、2回りすれば2週間の滞在。
私たちは忙し過ぎて、温泉の治療効果には期待せず、1泊か2泊で帰ってきます。体のケアより、心のケアですね。

1866年4月に大阪府柏原市から兵庫県の有馬温泉へ湯治に行った人の日記をもとに、昔の湯治を見てみましょう。

彼の湯治は、妻と下女(炊事洗濯要員?)を連れた2週間の滞在でした。

当時の宿は、個室ではありません。
宿の2階に6組の客が襖1枚を隔てて泊まっていました。

温泉へは、宿の湯女の案内で行きます(有馬温泉は共同浴場が1ヶ所あるだけ。宿がその利用を仕切っていました)。

晴れた日は、近隣の神社仏閣へ行って宝物を拝見したり、豊臣秀吉がつくらせた岩風呂などの名所旧跡を見に行ったりしました。
ずっと温泉に浸かっているわけにはいかないので、温泉地には昔から見物場所や散策コースが整えられているのです。

見晴らしのよい場所にある料理屋から聞こえて来る三味線と笛、歌声に対して、「湯女を借り切って酒宴をしたいものだ」と書き残しています。
遊び心は今と同じですね。

また、宿の人に水引などを買ってあげたり、他の客と俳句の交換をしたりと交流も楽しんでいます。

7日目は1回り目の最終日。2回り目の宿代を払い、宿の人への心付けを渡します。7日間で5万円ぐらいでしょうか。高くはないです。
3人でひと間を借りての自炊生活ですから。

8日目は月代を剃りに行き、その後も名所を巡り、13日目には土産を買い、翌日、迎えに来ていた下僕とともに宿を出ました。
下僕は有馬温泉で2泊しましたが、「湯治見舞い」という名目で、親戚や知人がご馳走を持ってやってくることもありました。いい習慣ですね。

*私のブログで滞在について詳しく書いています:有馬温泉史料・その4

参考:風早恂編著[1988]『有馬温泉史料 下巻』名著出版会
有馬温泉では、1つの源泉を2つの建物(一の湯と二の湯)で使っていました



2.出張帰りに箱根で3泊した名主

茨城県の名主(68歳)は、1816年、近村の名主と商人の大坂屋との3人で愛知県の名主を訪ねました。
領主(旗本)の大坂屋からの借金を、愛知県にある旗本領の名主にも負担させるためです。
3月18日、愛知の名主宅に到着。しかし、交渉成果を得られないまま25日に出立。

往路8日に対し、復路は14日のゆったり旅でした。
足取りが重かったからではなく、温泉連泊など割り切って楽しんだので、時間がかかったようです。なんじゃそら、とツッコミたくなりますね。

名主は東海道を歩き、三嶋宿からは駕籠で箱根へ。
箱根で入湯。大涌谷あたりのようです。

翌日は朝から入湯。朝食をとって、箱根七湯のひとつ・塔ノ沢へ行き、また入湯。
“座頭房中山” との記載があり按摩を呼んだのでしょう。

朝ぶろ、温泉、マッサージは、間違いなく自分へのご褒美ですね。
翌日は雨天のため塔ノ沢に連泊

江ノ島で参拝してから、江戸へ戻り領主へ報告。29泊30日の旅でした。

参考:龍ケ崎市歴史民俗資料館・企画展『名主、殿様のために三河へ旅をする』(2017)

資金調達交渉を領主に押し付けられた旅なのに、帰路は観光旅行。名主は楽天的ですし、領主も高圧的ではなかったようです。
パワハラ・ボスなら「なんだと! 相手がうんと言うまで帰ってくるな!」と蹴りを入れそうですけどね。時代劇とは違い、納税者である農民たちはそれなりに大切にされたようです。私のブログでは旅の詳細を紹介しています(リンク)。



3.木曾から松本へ、女性たちの湯治旅

女性は木曾福島の関所(中山道)を通過するときに、手形を提出し、新たに手形を発行してもらいました。関所には古い手形が残りました。

下の写真は関所の南側にあった黒沢村(現木曽町三岳地区)の旅人の女手形です。左上の表は、1855年から13年間に関所が受け取った黒沢村の女手形(17件)のリスト。

11件が、なんと眼病などの治療で松本へ。3件は湯治でした。
湯治の行き先は、松本の山辺(やまべ)が2件、大野川(白骨温泉?)が1件です。

長作さんの妻は1859年1月に松本で湯治。11月には源吉さんの娘、与左衛門さんの妹を連れて再び松本へ湯治に出かけました。
手形は語ってくれますね。

松本・山辺の湯は私が借りているアパートの近くで、ほぼ毎日行っています。単純アルカリ泉のやさしいお湯です。



4.殿様の別荘からお湯をいただいた村人たち

松本・山辺には、松本藩主の温泉付き別荘・山家御殿があり、藩主が20~40日間ほど滞在しました。村人は手伝いや警護でたいへんだった模様。

ですが、山家御殿に併設した入り込み湯があり、御殿のこぼれ湯を庶民が利用していました(下の図)。ギブ&テイクの関係ですね。

当時の山辺温泉(現美ヶ原温泉)には御殿の湯守が営む宿が2軒、内湯ではなく共同風呂で湯屋を営む宿が6軒、農閑期のみ貸し間をする宿が5軒ありました。

1846年6~12月の宿帳によると、宿泊者は1,451組3,639人。60%は松本藩領からでした。まあまあの繁盛でしょうか。(出典:松本市立博物館の展示パネル、2024年)

意外なことに1泊、2泊の客が多く “短期滞在が一般化していた” とパネルに書かれていました。
山辺は松本城からわずか4km。温泉地に近い人びとは、私たちと同じように、ちょこっと出かけたのでしょうね。お城から温泉への道は、「湯道」と名付けられています。

なお、上田藩主の別所温泉の別荘でも、村人たちがこぼれ湯をいただいていました。



5.熱海の湯を運んできた村人たち

横須賀市沿岸部の富農・浅葉仁三郎(1816-1892)の日記には、熱海の湯を樽に入れて取り寄せ、義姉らを招いて入浴を楽しんだ、と書かれています。
貴重な湯です。なんと、50回以上沸かし直しています
当時は沸かし直し(立てなおし)が普通だったとはいえ、すごいですね。

徳川家康が好んだ熱海温泉には、歴代将軍が訪れただけでなく、四代家綱から十代家治まで、湯が献上されたそうです。
村人たちも熱海には行けなくても熱海の湯を楽しんでいました。
(参考:辻井善彌[2006]『幕末のスローライフ 浜浅葉日記が描く農民の暮らし』夢工房)



6.いまも健在な湯治宿

昭和までは、どこの温泉地にも湯治宿がありました。
別府温泉で宿のお女将さんに聞いたところ、「昔は、お百姓さんがたくさん湯治に来てくれたけど、段々と短い旅行になってきてね」とのこと。

しかし、今でも、別府温泉には湯治宿が残っていますし、青森県の酸ヶ湯には共同台所で食事を作れる湯治棟があります。
宿泊者同士のディープな付き合いも人気です(『ドキュメント72時間 別府 “貸間” の人生物語』、NHK、2024年1月初回放送、NHKへのリンクが切れたらすみません)。

温泉は湯治の場所ではなくなってきましたが、時間のある人なら、まだまだ昔の人たちと同じように湯治を楽しめますね。



まとめ

江戸・明治時代の湯治は、重要な治療手段でした。しかし、普通に観光として、気晴らしとして温泉地へ足を運んだ人も多かったようです。
現代との違いは、人と人とのふれあいの多さ。湯治は滞在型で一週間が基本。コミュ力が高い当時の人たちにとって、知り合いをつくるには十分な時間でした。湯治場でのおしゃべりは、温泉の楽しみを増やしてくれます。


出典:『定年後を豊かにするシンプルライフ』ごきげんビジネス出版

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■私のブログ (つたない英語に日本語を併記しています)



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