経理担当者を、追放できなかった。
業務は引き継げても、その人の価値は簡単には引き継げない
「あの人がいるから、会社に締まりが出るんだよね」
社長は、経理担当のAさんのことを、冗談で「社長」と呼んでいた。社長自身が経費のレシートを持っていくときにも、かなり気を遣う。「これ、本当に会社の経費ですか」。そう言って、Aさんに弾かれることもあったらしい。
経理担当者なのだから、レシートを渡せば処理してくれる、というわけではない。必要なものは必要。おかしいものは、おかしい。相手が社長でも関係ない。だから「社長」だった。
そんなAさんに、会社を辞めてもらうことになった。
前社長の懐刀だった
少し複雑な事情があった。社内で大きな混乱があり、当時の社長Bが株主の反感を買って解任された。会社は新たに社長Cを立て、組織も大きく作り直すことになった。
Aさんは、解任された前社長Bの懐刀だった。働きは非常に良い。一方で、経理という仕事柄、会社の重要な情報が集まるポジションにいる。新しい経営体制からすれば、前社長とのつながりをどこかで遮断する必要がある。そこで、Aさんにも会社を辞めてもらう。そういう方針だった。
株主側からすれば、それなりに合理的な判断だったのだと思う。経理の仕事なんて、代わりがきくだろう。振込をする。入金を管理する。帳簿をつける。給与を計算する。Aさんが辞めたとしても、人を採用するなり、外部に委託するなりすれば、経理部門はすぐに再構築できる。
それよりも心配だったのは、Aさんと前社長Bとの関係だった。きっとBと連絡を取り合うだろう。場合によっては、新体制への嫌がらせをするかもしれない。最悪の場合、Bと手を組んで、社内を分断するような動きをするのではないか。そんな憶測まであった。
だから、新しい会社をつくるなら、Aさんにも辞めてもらう。当時の判断としては、理解できる。
経理なら、全部引き継げると思っていた
そして、Aさんの仕事を引き継ぐ役目が、当時まだ若かった私に回ってきた。
実はこのとき、私はかなり前のめりだった。少し前に、別の会社で社長が緊急入院し、その人が抱えていた財務や経理の仕事を、ほとんど引き継ぐという経験をしていた。引き継ぎ期間もない。何が仕事なのかも分からない。通帳を見て、支払日から逆算し、資料を探し、資金繰りをつなぎながら、どうにか会社を止めないようにする。そんな案件を一度乗り切った直後だった。
だから、不謹慎ながら少し自信がついていた。一つの会社の経理くらいなら、全部自分で引き継げる。そんな気持ちがあった。
Aさんが協力してくれれば、それでいい。もし協力してくれなくても、何とかする。前社長Bの懐刀だったAさんと、新体制側の私。場合によっては、対立することもあるだろうと思っていた。それも、別に厭わなかった。極端に言えば、喧嘩になっても構わない。こちらの後ろには、新社長Cがいる。当時の私は、そんなふうに考えていた。
今思えば、ずいぶん若かったと思う。事情をよく知らない若者が、少し前の成功体験だけを持って、「経理なら全部引き継げる」と乗り込んでいった。
ところが、Aさんの横に座って仕事を始めると、その想定は少しずつ崩れていった。
Aさんが、異様なくらい協力的だった
振込。売掛金の入金消し込み。会計記帳。日々の経理業務を、一つずつ引き継いでいった。
ところが、仕事を隠すこともない。出し惜しみもしない。「これは私にしかできない」と抱え込むこともない。むしろ、「これ、こうした方が楽じゃないですか」「こういうやり方に変えられませんか」と私が話すと、「そうそう。こういうふうにやりたかったんだ」と喜んで一緒に考えてくれる。
引き継ぎをしているはずなのに、仕事がどんどん改善されていった。振込のやり方を見直す。売掛金の消し込みを整理する。記帳方法も変える。それぞれの仕事が、少しずつレベルアップしていった。
私は当時、それなりに新しいツールややり方を知っていた。でも、今振り返ると、私がAさんの仕事を改革した、という感じではない。Aさんの中には、もともと「こうしたい」があった。長くその会社にいるから、何が面倒なのかも、どこに無駄があるのかも分かっている。ただ、それを実現するきっかけや、手段がなかった。私は横から、少し道具を渡しただけだったのだと思う。
そして、一緒に仕事をすればするほど、私はだんだん分からなくなっていった。
この人、本当に辞めてもらっていいんだろうか。
追放は、なくなった
実際には、心配されていたようなことは起きなかった。Aさんが前社長Bと手を組んで新体制を邪魔することも、組織を分断することもなかった。むしろ逆だった。Aさんは新しいやり方を受け入れ、新しい体制を喜んでいるようにさえ見えた。
そして結局、Aさんの追放はなくなった。
私も、当初予定していた業務をすべて引き継ぐことはしなかった。感覚的には、半分くらいだったと思う。途中から、目的が変わっていた。Aさんの仕事を私に移すことではなく、Aさんと一緒に、経理の仕事をより良い形に作り直す。そんな協調体制になっていた。
考えてみれば、少し不思議な話である。私は、Aさんに辞めてもらうための引き継ぎ要員として入った。Aさんも、おそらく自分がどういう立場に置かれているのか、分かっていたはずだ。それでも仕事を隠さず、新しいやり方にも抵抗せず、一緒になって仕事を変えていった。
結果として、Aさんは新しい体制に残った。前社長Bの懐刀だった人が、今度は新社長Cを支える人になった。しかも、以前より切れ味を増して。
あれから時間が経ったが、Aさんは今もその会社で生き生きと働いている。会社の業績も伸びている。
経理とは、こうやるのか
そして今振り返ると、Aさんから何かを引き継いだのは、会社だけではなかったのだと思う。私自身も、Aさんからかなり多くのものを教わった。
当時の私は、一つの会社の経理くらいなら全部引き継げる、と少し躍起になっていた。ところが、Aさんの横で仕事をしていると、単に「経理ができる」ということとは少し違うものが見えてきた。
経理とは、こうやるのか。
そう思うことが何度もあった。
数字をきちんと合わせる。期限を守る。お金の動きを曖昧にしない。必要なものと、そうでないものを分ける。相手が社員でも、取引先でも、社長でも、おかしいものはおかしいと言う。
一方で、仕事そのものは驚くほど整っていた。何を、いつ、どの順番で処理するのか。どこを確認するのか。どこで間違いが起きやすいのか。長く仕事をしてきた人なりの、美しく整った型があった。
そして、その型に固執するわけでもなかった。新しい方法が良ければ変える。私が新しいツールや方法を持ち込むと、「昔からこうしているから」と拒むのではなく、「それならこうできる」「そういうふうにやりたかった」と、一緒になって仕事を作り直していく。
守るところは守る。変えるところは、躊躇なく変える。それでも、経理として譲ってはいけないところは譲らない。
若かった私は、その姿を間近で見ることになった。
その後、テクノロジーはずいぶん進化した。クラウド会計が普及し、銀行取引も、経費精算も、請求も、当時とは仕事の環境そのものが変わっている。だから、Aさんから教わった具体的な「やり方」の中には、もう使わなくなったものも多い。
でも、Aさんの仕事に対する心構えは、不思議なくらい今も自分の中に残っている。仕事をきれいに整えること。数字やお金を曖昧にしないこと。必要なら相手が誰であっても言うこと。一方で、より良いやり方があるなら、過去の方法には固執しないこと。
経理の仕事を引き継ぎに行ったはずが、私はそこで、自分なりの経理の「型」のようなものを教わったのだと思う。
社長が変わっても、会社は伸びた
この案件では、もう一つ考えさせられたことがある。社長とは、何なのだろう。
前社長Bが解任され、新社長Cになった。経営体制は大きく変わった。それでも会社は動き続けた。そして、業績は伸びた。
もちろん、社長は重要である。最終的に意思決定をする。方向を示す。責任を負う。でも、会社は社長一人で動いているわけではない。
Aさんのように、表立って経営をしているわけではないけれど、会社のお金を守り、人を律し、情報を集め、組織に締まりをつくっている人がいる。社長が経費のレシートを持っていくときに、「これ、Aさんに怒られないかな」と少し考える。たったそれだけのことかもしれない。でも、その小さな緊張感が会社全体にあるのと、ないのとでは、ずいぶん違う。
社長は冗談で、Aさんのことを「社長」と呼んでいた。でも、あながち冗談でもなかったのかもしれない。
Aさんがいると、会社に締まりが生まれる。
そんな役割は、業務引き継ぎ表のどこにも書いていなかった。
簡単には引き継げない価値を、どう承継するか
振込は引き継げる。売掛金の管理も、記帳のやり方も引き継げる。そういう意味では、経理業務の多くは、誰かに渡すことができる。
でも、長くその会社で仕事をし、周囲から信頼され、ときには煙たがられながらも、少しずつ築いてきたものは違う。Aさんがいることで会社に生まれる締まり。何がおかしいかを見抜く判断。社長に対しても言うべきことを言える関係性。こういうものは、引き継ぎ表には書けない。そして、数か月横に座ったからといって、簡単に次の人へ移せるものでもない。
だからといって、Aさんにずっと依存していればいい、という話でもない。Aさんにも、いつか定年が来る。そのときになって、「来月からこの仕事をお願いします」と誰かに渡しても、たぶん遅い。
誰に、何を、どう残していくのか。何年かかけて、一緒に仕事をする。判断の仕方を見てもらう。なぜそこで止めるのか。なぜそこは許すのか。どうして社長にまで言えるのか。そういうものを、少しずつ次の人に渡していく。
それは「業務引き継ぎ」というより、もう少し長い時間をかけた「承継」なのだと思う。
そして考えてみれば、私自身がその一部をすでに受け取っていた。Aさんの具体的な業務を全部引き継いだわけではない。それでも、一緒に仕事をした期間に見たもの、学んだものは、その後の自分の仕事の中に残っている。
会社には、ときどきこういう人がいる。その人がやっている仕事を一覧にしても、その人の価値を説明しきれない。効率化してはいけない、という話ではない。属人化を放置していい、という話でもない。
簡単には引き継げない価値だからこそ、時間をかけて、意識して承継していかなければならない。
Aさんは今も、その会社で生き生きと働いている。会社の業績も伸びている。まだ時間はある。
だから今度は、あのときのような慌ただしい引き継ぎではなく、Aさんが会社につくってきたものを、じっくりと次へつないでいけばいい。
あの案件から時間が経った今は、そんなふうに思っている。
まとめ
・振込や記帳、消し込みといった業務そのものは、仕組みにすれば引き継ぐことができる。
・一方で、長い時間をかけて築いた信頼、判断力、規律、会社に生まれる「締まり」は、短期間では引き継げない。
・属人化をなくせばいいわけでも、古参社員をそのまま残せばいいわけでもない。会社に残すべき価値を見極めることが重要になる。
・簡単には引き継げない価値だからこそ、退職直前に慌てて渡すのではなく、何年もかけて次の人へ承継していく必要がある。
会社には、業務一覧には載らない価値がある。それを見つけ、時間をかけて次へつなぐことも、事業承継なのだと思う。
経営改善や事業承継の現場で経験したことを、守秘義務に配慮して再構成しています。
同じ経理の現場でも、人がいなくなったことで、反対に「なくてもよかった仕事」が見えてきたことがあります。
私が、こうした現場で「価値」をどう捉えているかについては、こちらに書きました。
