「半熟質屋」第0話 0点
【あらすじ】
大塚質店。ベージュのタイル張り、電飾看板。引き戸を開けると、ベルが鳴る。
行き詰まった末に、縁あってこの質屋に流れ着いた桃瀬信一、三十二歳。
師匠の大塚さんの下で働き始めて半年が経った。
質屋には毎日、誰かが来る。 売りたいと言いながら手放したくない人。手放したいと言いながら、値段を聞いた瞬間に表情が曇る人。
カウンターに置かれるのは、時計や指輪やバッグだけではない。 言えなかったこと、捨てられなかった時間、まだ諦めきれない誰かの暮らしも、そこに置かれる。
自分に価値があるのかもわからない男が、他人のモノの値段を決める。
大塚質店で働く桃瀬信一は、今日もベルの音に顔を上げる。
第0話 0点
「これは0点だ」と、言われたことがある。
人前で。
笑っていた奴がいた。その笑い方だけ、今も覚えている。
僕が働いているのは、質屋だ。
質屋というのは、ものを担保にお金を貸す商売だ。客が時計や指輪を持ってきて、金を借りる。期限までに返しに来れば品物は戻る。返せなければ、うちのものになる。それを売る。これを質預かりという。買取もやる。こっちは最初から売ってしまう場合だ。時計、貴金属、ブランドバッグ、スマホ、ゲーム機、骨董品、工具・・・。
あらゆるものが来る。
店の名前は、大塚質店という。
駅から歩いて十分。ベージュのタイル張りの二階建て。外壁の角が欠けていて、パテで埋めた跡がある。正面に古い電飾看板。「買取」「鑑定」「質」の三文字。砂利の駐車場が四台分。引き戸を開けると、物理的なベルが鳴る。
大塚さんが、この店のオーナーだ。
五十代。背が高い。肩幅がある。紺のシャツ。音を立てない。大きいのに静かで、声を荒げない。何を考えているのかわからない。僕にはまだ、わからない。
なぜ僕がここにいるのか、それはまた別の話だ。
最初の半年は、台帳を書いていた。
古物営業法というやつで、誰からいつ何をいくらで買ったか、全部記録する義務がある。質預かりも同じだ。品物の特徴も書く。指輪なら素材と形と重さ。18金の甲丸リング、5.6グラム、みたいに。甲丸というのは丸っこい昔ながらのやつで、印台というのは平らなやつだ。ネックレスならプラチナのグレードとダイヤのカラット数と重さ。バッグならブランドと型番と状態。
書き続けることで、物を覚えていく。
同時に、大塚さんの接客を横で見て覚えていく。大塚さんは物を見る目が、僕とはまるで違う。何がどう違うのか、言葉にできなかった。でも違うのはわかった。それだけはわかった。
そして半年が経って、今日から僕は客の前に立つことになった。
二〇一八年の、四月だった。
床をモップで拭いた。ショーケースを拭いた。ディスプレイをはたきで叩いた。玄関マットを置いた。のぼりを立てた。
手が冷たかった。体は暑いのに、手だけ冷たかった。
吐きそうだった。
接客なんて、大学のコンビニバイト以来だ。でもコンビニは値段が決まっている。ここは違う。宮本さんを客に見立ててロールプレイまでやった。宮本さんはこの店のパートで、大塚さんに物が言える数少ない人間だ。練習のとき、「信一さん、もう少し声出して」と言われた。何度も練習した。できた気がしていた。
有線放送のスイッチを入れた。ジャズが流れ始めた。
来てほしかった。来てほしくなかった。
開店して二十分後に、客が来た。
五十代の女性だった。
「買取、お願いできますか」
「いらっしゃいませ」
蚊の鳴くような声だったと思う。昨日はあまり眠れなかった。喉もカラカラだった。
布の袋から出てきたのは、ルイ・ヴィトンのキーポル55だった。大きめのボストン型の旅行バッグで、ずっとしまっていたのを片付けたら出てきたから売りたいと女性は言った。
「拝見します」
受け取った。重かった。中は空なのに、重かった。手が震えていた。気づかれていないといいと思った。
まずロゴを見る。ルイ・ヴィトンは偽物が多い。文字の太さ、間隔、刻まれ方。それから金具、縫い目、内側のタグ。大塚さんに教わった順番で、練習でも繰り返した。
ロゴを見た。
かすれて見えた。
練習で使ったサンプルと、なんか違う。あれは黒々と刻まれていた。これはぼやけている。古いとこうなるのか。それとも偽物なのか。
金具を見た。くすんでいる。これもサンプルと違う。
本物と偽物の違いを三十個メモした。全部頭に入れたつもりだった。
何も出てこなかった。本当に、何も。
かがんだまま動けなかった。バッグを持ったまま動けなかった。頭の中が真っ白で、でも変な汗だけかいていた。五分は経ったと思う。
「あの」
女性の声がした。
「大丈夫ですか」
その瞬間、聞こえた。
これは0点だ。
会議室で言われた声が来た。プロジェクターの光の中で、部長が言った声が。十人の前で言われた言葉が。そのあとひとりだけ笑っていた、あの口の端の笑い方が。
どこに行っても、同じだ。
「ちょっと待ってください」
大塚さんの声だった。
気づいたら横にいた。僕からキーポルを受け取って、テーブルに置いた。指がロゴの上を走った。内側を開けた。底の角を親指で押さえた。持ち手を手のひらで確かめた。
三十秒もかからなかった。
「お待たせしました」
大塚さんが女性に向いた。
「これ、ご自分で買われたんですか」
女性が少し驚いた顔をした。
「ええ。二十代のときに。ボーナスで」
「そうですか」と大塚さんは言った。バッグを持ち手のところでそっと持ち上げた。「大切にされてたのがわかります。保存袋に入れてたでしょう」
女性は黙って頷いた。
「当店は初めてのご来店ですか」
「ええ。ネットで調べて」
「ルイ・ヴィトンはね、今も世界中に欲しいという方がいます。使い込まれてはいますが、それはちゃんと使われてきた証拠でもある」
一拍置いた。
「ロゴは薄く、持ち手もくたびれていますし、中にシミが少し。状態としてはBランクになります。一万七千円でいかがでしょう。
ですが、初めてのご来店ですので、一万九千円にさせてください」
「……はい、それで」
それだけだった。
僕がかがんでいた時間は、どこにもなかった。
女性が帰った。
大塚さんは一度だけ僕を見た。
「まだ早かったか」
それだけ言って、奥に戻った。
膝が笑っていた。情けないという言葉の意味が、体でわかった。客に「大丈夫ですか」と言わせた。大塚さんに助けてもらった。三十秒でやられた。
何もできなかった。
また、何もできなかった。
大塚さんの背中が、奥に消えていった。僕はずっとそれを目で追っていた。
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