見出し画像

「半熟質屋」第1話 ピアス

【あらすじ】
大塚質店。ベージュのタイル張り、電飾看板。引き戸を開けると、ベルが鳴る。
行き詰まった末に、縁あってこの質屋に流れ着いた桃瀬信一、三十二歳。
師匠の大塚さんの下で働き始めて半年が経った。

質屋には毎日、誰かが来る。 売りたいと言いながら手放したくない人。手放したいと言いながら、値段を聞いた瞬間に表情が曇る人。

カウンターに置かれるのは、時計や指輪やバッグだけではない。 言えなかったこと、捨てられなかった時間、まだ諦めきれない誰かの暮らしも、そこに置かれる。

自分に価値があるのかもわからない男が、他人のモノの値段を決める。
大塚質店で働く桃瀬信一は、今日もベルの音に顔を上げる。


第1話 ピアス



自転車を漕ぎながら、行きたくないと思った。

思ってはいけないと思いながら、思った。

五月の朝の空気が冷たかった。坂を下りながら、ペダルを踏む足が少し重かった。店まであと十分。わかっていた。でも足が重かった。

あの朝のことを、まだ引きずっていた。

まだ早かったか。それだけ言って、奥に戻っていった、あの背中を、ずっと目で追っていた。

それ以来、また客が来るたびに宮本さんか大塚さんが対応していた。僕はカウンターの端で台帳を書きながら、横目で見ていた。見ていた。でも次にいつ自分が立つのか、誰も何も言わなかった。

宮本さんが、ある日の帰り際に言った。

「信一さん、最近声出てきたね」

振り向くと、もう上着を羽織っていた。こっちを見てなかった。ハンガーに上着をかけながら言った言葉だった。

「そうですか」

「うん。最初の頃と全然違う」

それだけだった。宮本さんはカバンを持って「お先」と言って帰っていった。

あの一言が、しばらく頭の中にあった。

もう一度だけあった。別の日、宮本さんが常連のおばあちゃんの対応をしていた。僕が台帳の整理をしていると、宮本さんがさりげなく言った。「信一さん、あのおばあちゃん、刻印の確認うまくなったって大塚さん言ってたよ」。

えっと思った。

大塚さんが、そんなことを言うのか。

「いつ言ってたんですか」

「んー、先週?」

それだけだった。話題は別のことに変わった。宮本さんはそういう人だ。助けた顔をしない。でも、確かに言っていた。

自転車のペダルを踏んだ。店が見えてきた。

ベージュのタイル。古い電飾看板。「買取」「鑑定」「質」。

行きたくない、とまた思った。

でも足は止まらなかった。

 

のぼりを立てた。金具をポールに固定した。風が少しあって、旗が膨らんだ。砂利の駐車場に、朝の光が斜めに落ちていた。

店に戻って、ショーケースを拭いた。指紋の跡を、一枚ずつ消した。時計、指輪、バッグ。並んでいる。値段がついている。三週間前より、その根拠が少し見えるようになっていた。

少しだけ。

有線放送のスイッチを入れた。ジャズが流れ始めた。大塚さんはすでに奥にいた。台帳を開いていた。宮本さんは今日は来ない日だ。

吐きそうな感覚は、なかった。

あの朝の前はあった。今日はない。それだけ違う。でも、それだけだった。

 

午前十時半を過ぎた頃、引き戸が開いた。ベルが鳴った。

三十代くらいの女性だった。黒いトートバッグを下げていた。口が少し開いていて、中に役所の封筒が見えた。紺色のカーディガン。くたびれているわけではないが、よそ行きでもない。爪に何も塗っていなかった。アクセサリーは何もつけていなかった。

入口で一瞬立ち止まった。初めて来た人に、よくある間だ。視線が店の中を泳いで、カウンターに落ち着いた。

「あの……買取、お願いできますか」

「いらっしゃいませ。はい、もちろんです」

カウンターに近づいてきた。足が少し早かった。トートバッグの中をごそごそと探って、小さなポーチを取り出した。

ポーチは布製だった。花柄の古いもの。ファスナーのつまみが片方、折れていた。

「こんなもので、申し訳ないんですが」

「いえ、全然大丈夫ですよ」

女性はポーチをカウンターに置いた。両手でそっと押し出すような置き方だった。

「本当に恥ずかしいんですけど」

「はい、拝見しますね」

ポーチのファスナーを開けた。

ピアスが出てきた。

一個、二個——。

次々と出てきた。

数えたくなかった。でも数えた。

十個あった。

全部、片方だった。

 

「なくしてしまったものばかりで。こんなもの持ってきてすみません」

「いえ、よくあることですよ」

「そうなんですか?」

「はい、けっこうあります」

本当のことを言った。片方だけのピアスは、よく来る。なくしたわけじゃなく、最初から一個だけのものもある。でも多くは、どこかでなくした。残った一個だけが、手元に残る。

「ずっとポーチに入れてて。使わないけど、捨てられなくて」

女性は笑った。謝っているような笑い方だった。

「こんなに集まっちゃって。集めてたわけじゃないんですけど」

「大丈夫ですよ」

手袋をはめた。

カウンターの上に並べた。十個。一列に。

バラバラだった。シンプルな丸いもの。小さな花の形。細いフープ状のもの。大きさも、厚みも、デザインも全部違う。共通点は一つだった。全部、片方だけ。

「やっぱり、たいしたことないですよね」

「まず確認させてください」

ルーペを取った。

刻印を探した。ピアスの軸の付け根、あるいは金具の裏側。小さく彫られている。

一個目。K18。

二個目。K18。

三個目。K14。

四個目——。

探した。どこだ。軸を回した。見えた。K18。

「なんかみんな古くて、ごめんなさい」

「いえ」

五個目。K18。

ここで止まった。

石がついていた。

小さな石だった。赤みがかっている。ガーネットか、あるいは別の何かか。

頭の中で、声がした。石がついてる場合どうすんだっけ。

練習でやった。確かにやった。でも今、出てこなかった。石の価値は別に計算する。でも小さすぎる石はほぼ値段に影響しない。これは——どのくらいだ。

「少し確認させてください」と言いそうになって、やめた。

まだ全部見終わっていない。

続けた。六個目。K18。七個目。K18。石なし。八個目。K14。九個目。K18。石なし。

十個目。刻印が読めなかった。金具が細すぎて、ルーペを当てても輪郭がぼやけた。角度を変えた。もう一度。やっぱり読めなかった。

深呼吸した。気づかれていないといいと思った。

整理した。K18が七個。K14が二個。刻印不明が一個。

石のついたK18が一個。

K18は十八金だ。金の含有率が75パーセントある。素材としての価値は重さで決まる。これは覚えている。

石は——。小さい。本当に小さい。爪が二本で留めてあるだけの、細かいもの。鑑定書もない。こういう場合は石の価値は計上しない、と習った気がした。習ったはずだ。

でも「気がした」と「はずだ」で値段を出していいのか。

スケールを出した。K18の七個を乗せた。数字が出た。

計算した。頭の中で。その日の地金相場を引っ張り出した。

数字が出た。

「少し確認させてください」

 

奥に向かった。

大塚さんは台帳に何かを書いていた。顔を上げなかった。

メモを差し出した。数字だけ書いたものだ。石のついたピアスを一個、一緒に持っていった。

大塚さんは手を止めた。メモを一度見た。ピアスを手に取った。石を光にかざした。三秒もかからなかった。ピアスを返してきた。

頷いた。

それだけだった。

よかった。

そう思った瞬間、本当に合っていたのかまだわからないと思い直した。でも頷いた。それは確かだった。

カウンターに戻った。

 

女性はカウンターの前に立っていた。スマートフォンを触っていたが、戻ってくる気配を感じて顔を上げた。

表情が読めた。

どうせ大したことない、と思っている顔だった。

覚えがある顔だった。

何を言われるかを、もう知っている人間の顔だ。期待していない。諦めてきた。そういう顔だ。

「お待たせしました」

「いえ」

「K18のものが七点ございまして」

女性が静かに聞いていた。

「重さをもとに計算させていただきました」

一拍置いた。

「一万円でいかがでしょう」

 

一秒、間があった。

女性の顔が、止まった。

「……え?」

「一万円です」

「……一万円、ですか」

「はい」

もう一秒、あった。

それから。

「ありがとうございます!」

大きかった。

店内に、声が響いた。

「すごい助かります。本当に。こんなになるとは全然思ってなくて」

女性は何度も頷いた。目が少し潤んでいた。

こっちが、驚いた。

声の大きさに。表情の変わり方に。暗かったものが、一度にあんなに変わることに。

「よかったです」

声が出た。でも自分の声が少しおかしかった。喜んでもらえたのに、こっちの方が戸惑っていた。

「本当にありがとうございます。助かりました」

女性はもう一度言った。さっきより声は小さかった。でも本気の声だった。

 

買取票を書いてもらった。住所と名前と電話番号。身分証を確認した。免許証を受け取って、番号を控えた。

一万円をトレーに乗せた。渡した。

女性はお金を受け取った。財布に入れた。また「ありがとうございます」と言った。

「またお越しください」

「はい」

引き戸を開けた。ベルが鳴った。外の光が一瞬入って、閉まった。

砂利を踏む音がした。

遠ざかっていった。

 

買取台帳を開いた。

品名を書いた。K18ピアス片耳×7点、K14ピアス片耳×2点、素材不明×1点。状態。金額。

ペンを置いた。

カウンターの上に、もうピアスはなかった。さっきまで一列に並んでいた十個が、今はない。

片方だけのピアス。

残った方だけ。

もう片方のことは、考えなかった。考えなかったのに、なんとなく、どこかにある気がした。

 

あの顔が、まだそこにあった。

暗かったものが、一度に変わった。あの一瞬が。

「こんなものしかなくて恥ずかしい」と何度も言っていた人が。

自分が出した数字で、あんな顔になった。

これは0点だ。

あの声が、ふっと来た。

来て、また消えた。

今日、あの声は最後まで来なかった。正確には——来たけど、それだけだった。

それだけで違った。

 

気配があった。

振り返ると、大塚さんがカウンターの中央に立っていた。

何も言わなかった。台帳を手に取った。開いた。僕が書いた行を、一度だけ見た。

台帳を戻した。

奥に戻っていった。

何も言われなかった。

よかったのかも、悪かったのかも、わからなかった。

でも来た。

わざわざ来た。

それだけは確かだった。

 

帰り道、ペダルが軽かった。

気づいたら、鼻歌が出ていた。



次の話

マガジンで最初から読む






いいなと思ったら応援しよう!