「半熟質屋」第2話 渡せなかった指輪の青年
【あらすじ】
大塚質店。ベージュのタイル張り、電飾看板。引き戸を開けると、ベルが鳴る。
行き詰まった末に、縁あってこの質屋に流れ着いた桃瀬信一、三十二歳。
師匠の大塚さんの下で働き始めて半年が経った。
質屋には毎日、誰かが来る。 売りたいと言いながら手放したくない人。手放したいと言いながら、値段を聞いた瞬間に表情が曇る人。
カウンターに置かれるのは、時計や指輪やバッグだけではない。 言えなかったこと、捨てられなかった時間、まだ諦めきれない誰かの暮らしも、そこに置かれる。
自分に価値があるのかもわからない男が、他人のモノの値段を決める。
大塚質店で働く桃瀬信一は、今日もベルの音に顔を上げる。
第2話 渡せなかった指輪の青年
モップを絞った。バケツの水が、薄く濁っていた。
のぼりを持って外に出た。五月になっても、朝だけはまだ上着がいる。金具をポールに固定した。ショーケースを拭いた。時計、指輪、バッグ。値段がついている。その根拠が、少しだけわかるようになっていた。
有線放送のスイッチを入れた。ジャズが流れ始めた。
あの日から、一ヶ月が経った。吐きそうな感覚は、もうなかった。
午前中に、常連さんが来た。
五十代の男だった。自転車で来て、コンビニの袋を下げていた。袋の中から黒い長財布を出して、カウンターに置いた。
「利息だけ、お願いします」
質札を出した。品物はシチズンの腕時計だ。五千円を借りて、一年以上が経つ。利息だけを、毎月払い続けている。
大塚さんが奥から出てきた。金額を言った。男は黙って払った。
「また来月」
「お待ちしております」
男が帰った。時計は蔵の中にある。五千円が戻ってくる見込みは、今のところない。でも男は来月もここに来る。それだけは確かだ。
カウンターに戻りながら、思った。前の会社にいた頃、給料日が来るたびに何も考えずに使っていたお金のことを。
昼過ぎに、常連さんが来た。
小柄で、髪が白い。持ってくるのはいつも同じ細身の金のネックレスだ。ベロアのケースに大事そうにしまって、両手で抱えてくる。
「またお願いします」
宮本さんが対応した。大塚さんは奥から出てきて、静かに査定した。ネックレスを手に取り、刻印を確認して、重さを量った。
宮本さんとおばあちゃんは話していた。孫がどうとか、最近スーパーの物価が高いとか。よく笑った。
大塚さんが三万円を封筒に入れて、質札と一緒に渡した。
おばあちゃんは封筒を受け取って、深く頭を下げた。
「年金生活が苦しくてね。でも年金入ったら必ず取りに来ます。ほんといつもありがとうございます。助かってます」
大塚さんは静かに言った。
「大丈夫ですよ。わかってますよ。こちらこそ、いつもありがとうございます」
おばあちゃんは笑って、また少し話して帰っていった。最近カラオケ教室にはまっているらしい。宮本さんが楽しそうに聞いていた。
僕はまだ、このおばあちゃんと二言三言しか話したことがない。どんな歌声なのか、少し気になった。
宮本さんが上がり際に言った。
「最初はどうなることかと思ったけど、だんだんできるようになってきたね」
それだけだった。でも少し、肩が軽くなった。
六時に宮本さんが帰った。大塚さんは奥にいる。僕はカウンターで、自分でまとめたノートを開いた。教わったこと、気づいたことを書き移す。大塚さんに言われた通りにやっている。前の会社では、こういう勉強をほとんどしてこなかった。知らないことを知っていくのは、悪くなかった。
平日の夜は、客層が変わる。
仕事帰りのスーツ姿が増える。ブランドバッグを持ち込む女性、スマートフォンを数台まとめて持ってくる男性。昼間とは違う急ぎ足で来て、査定が終わると足早に帰っていく。
大塚さんが平日を九時まで開けているのは、そのためだ。
八時を過ぎると、外の通りが静かになる。駐車場の砂利が、街灯に薄く光り始める。
八時五十分に、引き戸が開いた。ベルが鳴った。
紺のスーツを着た青年だった。二十代後半だと思った。顔が少し赤かった。カウンターに近づいてくると、酒の匂いがした。
「いらっしゃいませ。お仕事帰りですか?」
「……え」
「初めてご来店ですか」
「はい、そうです」
「ありがとうございます」
青年はジャケットのポケットから、小さな箱を取り出した。ジュエリーショップの箱だった。カウンターに置いた。
開けると、指輪が入っていた。
プラチナの一粒ダイヤ。シンプルな甲丸。スポットライトに照らされた。
「これ、買い取れますか」
「はい、もちろんです。拝見します」
受け取った。
手袋をはめた。ルーペを取った。
まず枠の素材を確認する。内側の刻印を見た。PT900。プラチナだ。その横に数字。0.30ct。ダイヤの重さだ。
そしてその横に、別の刻印があった。
小さく、丁寧に彫られていた。でも削られていた。ルーペの焦点を合わせた。
消えていなかった。光の角度を変えると、輪郭が浮き上がった。
Y&M 2017.12.13
顔を上げた。
青年は、どこか遠くを見ていた。
何も言わなかった。青年も、何も言わなかった。
次にダイヤを確認した。光にかざした。透き通っている。ブラックライトを当てた。青く強くは光らない。悪くない石だ。爪が四本。少し緩い。
「鑑定書はお持ちですか」
「ないです」
最後に重さを量った。枠のプラチナの重量から価値が出る。ダイヤの価値と合わせれば、この指輪の値段が見えてくる。
数字が出た。
青年の顔を、もう一度見た。
電卓に、少しだけ足した数字を打った。
「少々お待ちください」
カウンターを離れて、奥に向かった。
大塚さんは台帳を開いていた。顔を上げた。
電卓を差し出した。指輪も一緒に渡した。
大塚さんが指輪を受け取った。手袋をはめた。刻印を確認した。ダイヤを光にかざした。重さを確かめた。素早かった。
電卓を打った。
28,000と出た。
「それ以上は出せない」
静かに言った。指輪を返してきた。
僕が出した数字より、七千円低かった。
カウンターに戻った。青年がこちらを見た。
口が、一瞬だけ動かなかった。
「二万八千円でいかがでしょう」
沈黙があった。
「ははっ」
乾いた音だった。笑いとも、ため息ともつかなかった。
「……それだけですか」
青年が指輪に手を伸ばした。箱から取り上げて、自分の方に少し引き寄せた。
一秒か、二秒か。
それから、箱に戻した。音がしなかった。
「……わかりました」
間があった。
「もう使うことはないんで、それで結構です」
諦めた声ではなかった。最初からそう決めてきた人間の声だった。
買取票を記入してもらった。身分証を確認した。
二万八千円をトレーに乗せて渡した。
青年はお金をしばらく見ていた。それから、ジャケットのポケットにそのまま入れた。財布には入れなかった。数えなかった。
「ありがとうございました」
青年は頷いた。振り返らなかった。
引き戸が開いた。ベルが鳴った。外は暗かった。
砂利を踏む音がした。街灯に照らされた背中が、駐車場を横切っていった。足が遅かった。
曲がり角の手前で、一瞬だけ立ち止まった。
それから、曲がった。
買取ができた。でも達成感は、来なかった。
これも仕事だ。
買取台帳を開いた。品名、状態、金額を書いた。
内側の刻印の欄で、ペンが止まった。
ルーペの中で見た輪郭が、まだそこにあった。
Y&M 2017.12.13
ペンを走らせた。
イニシャル刻印あり
それだけ書いた。買取台帳を閉じた。
今日また来ると言った人間がいた。必ず来ると言った人間もいた。
だが、きっと彼はもう来ない。
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