「半熟質屋」第3話 遠方からのお客様
【あらすじ】
大塚質店。ベージュのタイル張り、電飾看板。引き戸を開けると、ベルが鳴る。
行き詰まった末に、縁あってこの質屋に流れ着いた桃瀬信一、三十二歳。
師匠の大塚さんの下で働き始めて半年が経った。
質屋には毎日、誰かが来る。 売りたいと言いながら手放したくない人。手放したいと言いながら、値段を聞いた瞬間に表情が曇る人。
カウンターに置かれるのは、時計や指輪やバッグだけではない。 言えなかったこと、捨てられなかった時間、まだ諦めきれない誰かの暮らしも、そこに置かれる。
自分に価値があるのかもわからない男が、他人のモノの値段を決める。
大塚質店で働く桃瀬信一は、今日もベルの音に顔を上げる。
第3話 遠方からのお客様
朝、宮本さんがコートを掛けながら言った。
「今日、遠くからお客さん来るよ。予約入ってる」
「どのくらい遠くですか」と僕は聞いた。
「二時間半くらい」
僕はのぼりを持ったまま、少し止まった。
「車で?」
「車で」と宮本さんが言った。
外に出た。のぼりをポールに固定した。五月の朝の空気が冷たかった。二時間半かけて来てくれる人がいる。そのことが、うまく実感できなかった。
店に戻ると、宮本さんがカウンターを拭いていた。
「そういえば、うちの店のSNS見たことある?」と宮本さんが言った。
「ちょろっとくらいしか」
「ちゃんと見てみな」
スマートフォンで検索した。すぐ出てきた。
フォロワーが四千人いた。
買取した品物が、あらゆる角度から撮影されていた。バッグ、時計、ジュエリー、アパレル。商品名、状態、買取価格。丁寧に、わかりやすく書かれていた。写真の構図が整っていた。光の当て方が、丁寧だった。
「これ写真きれいですし、文章もわかりやすいですね。誰がやってるんですか」と僕は言った。
「大塚さんが」
僕は奥を見た。大塚さんは台帳に何かを書いていた。紺のシャツ。音を立てていなかった。
「毎晩やってるよ」と宮本さんが言った。「意外なところあるのよね、あの人」
あの無口な人が、毎晩写真を撮っている。パソコンに向かって、キャプションを書いている。それを四千人が見ている。思わず口から出た。
「なんか、笑えますね」
言ってから、まずいと思った。
宮本さんが振り向いた。笑っていた。
「いいと思うよ、それ」と宮本さんが言った。
午後二時を少し回った頃、駐車場に車が止まる音がした。
窓から見ると、県外のナンバープレートだった。
引き戸が開いた。ベルが鳴った。
五十代後半の女性だった。紺のワンピース。素材がいいのは僕にもわかった。アクセサリーは右手の指輪だけ。化粧が薄く、でも品があった。
「お電話していた者です」と女性が言った。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」と僕は答えた。
「大きな荷物、車に積んできたんですが」
「お荷物をお運びさせていただきます」
駐車場に出た。トランクを開けると、大きな紙袋が四つ、キャリーケースが一つ。どれも重かった。二往復した。
カウンターに並べると、品物の量がわかった。バッグ、財布、アパレル。ざっと見て、五十点以上はある。
宮本さんも出てきて、一緒に品物を並べた。
女性が少し照れたように言った。
「すみません、こんなに」
奥から大塚さんが出てきた。女性を見た瞬間、いつもとは違う顔をした。柔らかい。僕がここで働き始めて、初めて見る表情だった。
「篠崎さん、よく来てくださいました」と大塚さんが言った。
「また来てしまいました」と女性——篠崎さんが言った。
大塚さんがカウンターの中に入った。
手袋を、はめなかった。
大塚さんは品物には触れなかった。
椅子を勧めた。篠崎さんが座った。宮本さんがお茶を持ってきた。
「喉乾いてたのよ、ありがとう」と篠崎さんが言った。
「どうぞごゆっくり」と宮本さんが言った。
「高速で二時間半でしたか」と大塚さんが言った。
「慣れてますから。まっすぐ来ればそんなに大変じゃないわよ」と篠崎さんが答えた。
「それでも遠くからありがとうございます」
「前回は確か、去年の秋でしたか」と大塚さんが続けた。
「そうそう。コートを何枚か持ってきたのよ。覚えてる?」
「ええ。カシミアのロングコートがありましたね」と大塚さんが言った。
「あれ良いお値段ついて嬉しかったわ。好きだったんだけど、もう着ないなと思って。処分できてよかった」
「またご連絡いただければと思ってました」
篠崎さんが笑った。
「ほんとにまた来てしまいました」
僕はカウンターの端で立っていた。大塚さんの手を見た。品物の上で止まったまま、動かなかった。
いつ始まるのか。僕一人が焦っていた。
「お仕事は相変わらずお忙しいですか」と大塚さんが聞いた。
「もう、ほんとに。なかなか来られなくていつもこんな量になってしまって。申し訳ないわね」と篠崎さんが言った。
「いえ、大丈夫ですよ」
「お仕事は今もコンサルですか」と大塚さんが聞いた。
「そうなの。プロジェクトが終わったと思ったら次が始まって。自分の時間がなかなか取れなくて」
「それは大変だ」
「でも嫌いじゃないのよ、この仕事。忙しいのが性に合ってるみたいで。ひまになると逆に不安になっちゃって。おかしいでしょ」
「そういう方もいらっしゃいます」と大塚さんが言った。
「なんか最近また少し増えてきちゃってね。歳をとったら物欲なくなるって聞いてたけど、あたしは全然そんなことなくて。困ったわ」
「そういう方もいらっしゃいます」と大塚さんが言った。
「同じこと言ってる」と篠崎さんが笑った。
大塚さんも笑った。
僕はその笑い声を、横で聞いていた。大塚さんが声を出して笑うのを、初めて聞いた。
「そういえば大塚さん、SNSずっと見てますよ。あれ全部ご自分でやってるんですか」と篠崎さんが言った。
「ええ」と大塚さんが答えた。
「写真きれいだし、説明も丁寧だし。大塚さんってもともと、写真とか文章とか得意なんですか」
「得意ではないです」
「じゃあなんで始めたんですか」
少し間があった。
「昔、説明してもらえなかったことがあって」と大塚さんが言った。
「何を?」と篠崎さんが聞いた。
「値段の根拠です。モノの価値がなぜそうなのか。わからないまま終わったことがあって。だから書くようにしました」
「……なんかそれ聞いたら、余計に信用できる気がする」と篠崎さんが言った。
僕はメモ帳を持ったまま、止まっていた。
「あのね、実は一回だけ別のお店に行ったことがあって」と篠崎さんが言った。
「ええ」と大塚さんが聞いた。
「品物を全部、裏に持っていかれて。目の前で見ないのよ。スマートフォンでこそこそ写真だけ撮って、三時間待たされて。最終的に値段だけ言われて、理由は何も言わずに」
「それで」と大塚さんが言った。
「腹が立って、持って帰ってきたわよ」と篠崎さんが言った。
大塚さんが頷いた。
「正解です」
篠崎さんが笑った。さっきとは違う笑い方だった。
「大塚さんのSNSはね、たまたま見つけたのよ」と篠崎さんが続けた。「自分が持ってるのと同じバッグの投稿してる人がいて。すごい丁寧に説明してあって、この金額で買い取りましたって書いてあって。他の投稿も全部見たら、この人なら信用できそうだって思ったのよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」と大塚さんが言った。
僕は横で聞いていた。あのSNSが、この人をここに連れてきた。
「ところで大塚さん、なんで最初に話を聞くんですか。他のお店はすぐ査定するじゃないですか」と篠崎さんが聞いた。
僕は耳を立てた。
少し間があった。
「値段はモノが決まります。でもその先は、人が決める」と大塚さんが言った。
「その先?」と篠崎さんが聞き返した。
「売るかどうか、ですよ。どうされたいのかを聞かないと、的外れな値段になる。お客様が何を大切にされてるか、何を手放したいのか。それが見えてから初めて、値段の話になる」
「ああ、そういうことか」と篠崎さんが言った。
少し間があった。
「大塚さんはずっとここでやってるんですか」と篠崎さんが聞いた。
「父の代からです」と大塚さんが言った。
「お父さんから継いだの。最初からこの仕事やろうと思ってたんですか」
少し間があった。
「思ってなかったです」と大塚さんが言った。
「じゃあなんで」と篠崎さんが聞いた。
「他に戻る場所がなかったので」
篠崎さんが何か言いかけて、やめた。
カウンターに、静けさが落ちた。
有線放送のジャズが、遠くで流れていた。
しばらくして、大塚さんが言った。
「でも続けてよかったと思ってます」
篠崎さんが小さく頷いた。
「……そうよね」と篠崎さんが言った。
僕は付箋を持ったまま、どこを見ればいいかわからなかった。
「若い頃ね、少し買いすぎてしまって」と篠崎さんが言った。
「ええ」と大塚さんが聞いた。
「パリに出張で行ったとき、ヴィトンとシャネルをまとめて買ってしまって。一店舗で止まればよかったのに、両方行ってしまったのよ」
「そうですか」と大塚さんが言った。
「いくら使ったんですかって顔してるでしょ」と篠崎さんが言った。
「いえ」と大塚さんが答えた。
「言わないでおく」と篠崎さんが笑った。
大塚さんは何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「独身でしょ。自分のためだけにお金使えるから。誰かに止めてもらえれば良かったんだけど」
少し笑った。
「でも最近はね、今の自分には合わないと思うものが出てきて。少しずつ手放していこうと思って。この年になってようやくそう思えるようになったわ」
「気づくのに早いも遅いもないですから」と大塚さんが言った。
「大塚さんてたまにそういうこと言うのよね。なんか、すっと入ってくる」と篠崎さんが言った。
僕は口を開こうとした。何か言えることがあると思った。
何も出てこなかった。
話の入口が、どこにも見つからなかった。知っている言葉が、ここでは使えなかった。ただ立って、見ていた。
首の後ろが、冷えた。
来て、消えた。
篠崎さんの声がして、戻ってきた。
「あ、これね。パリで買ってきたんです。ヴィトンとシャネル爆買いしたときの一つで」と篠崎さんが言った。
バッグを一つ取り出した。大塚さんがそれを手に取った。一度、裏返した。
「ほとんど使われてないですね」と大塚さんが言った。
「そうなの。買ったときはすごく素敵で。でも帰ってきたら、何か違うなと思って」と篠崎さんが答えた。
少し間があった。
「一人でパリに行って、一人で買って、一人で帰ってきて。部屋に置いたら、急に寂しくなってしまって。それからなんとなく使えなくなってしまったのよ」
誰も何も言わなかった。
大塚さんがバッグの持ち手を、そっと手のひらで確かめた。
しばらくして、大塚さんが言った。
「保存状態がいいですね。今、このバッグの復刻版が出て値段が上がってますので。良いお値段つきますよ」
「まあ。ありがとうございます」と篠崎さんが言った。
声が、変わっていた。
三十分が経った頃、大塚さんが言った。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか」
そこからが、速かった。
宮本さんが服を広げて、傷や汚れを確認した。ブランドのタグ、素材のタグ。手際がよかった。大塚さんが次々と値段を言っていった。
僕は付箋を取り出した。大塚さんから「書いて貼っていって」と言われていた。
「シャネルのツイードジャケット」と大塚さんが言った。手に取って、裏地を確認した。「縫製がきれいだ。九万五千」
縫製。僕はジャケットを見た。自分には、そこが見えていなかった。
宮本さんがジャケットを受け取った。広げて、光に当てた。
「素敵」と宮本さんが言った。小さい声だったが、本気だった。「このツイード、好きだわ」
自然だった。知識ではなく、好きだから言っている。僕にはまだ、そういう言い方ができなかった。
僕は急いで付箋に書いて、貼った。
「バーバリーのトレンチコート、状態いいですね。二万八千」と大塚さんが言った。
次。
「グッチのスカート、タグが半分ちぎれかけてるから八千円。申し訳ない」
「あらそう」と篠崎さんが言った。「そのタグ、最初からちょっとおかしかったのよ」
次。
「エルメスのスカーフ」と大塚さんが言った。広げた。柄を確認した。「箱はないですが、発色がきれいですね。三万二千」
宮本さんが横から覗いた。
「きれい」と宮本さんが言った。「この色、好きよ」
追いつかなかった。大塚さんの手はすでに次の品物に移っていた。宮本さんはきれいにたたんで置いていく。僕はその上に付箋を貼っていく。
「シャネルのチェーンバッグ」と大塚さんが言った。手に取って、金具を確認した。チェーンを一度だけ揺らした。「最近シャネルは値上がりが続いてますので。十八万円」
「まあ」と篠崎さんが言った。「それは嬉しいわ」
宮本さんがバッグを受け取った。持ち手を確かめながら言った。
「これ、ずっと欲しかったやつだわ」
十八万円。昨夜のSNSにシャネルの値上がりのことが書いてあった。読んだ。でも今、大塚さんが言うのを聞いて初めて、それが本当のことだとわかった気がした。読んでいたのと、知っているのは、違う。
「ルイ・ヴィトンの長財布、一万八千。プラダのサングラス、ケースがないので六千」と大塚さんが続けた。
「ケース、どこ行ったかしら」と篠崎さんが笑った。
大塚さんはすでに次を手に取っていた。
「K18のネックレス、重さを量ります」
スケールに乗せた。数字を見た。
「三万八千」
「ルイ・ヴィトンの財布、こちらは二万二千。これは」
大塚さんが一つのバッグを手に取った。
「二〇一五年の限定ですね。ここの金具の色が違う」と大塚さんが言った。
「そうなんです。それ知ってる方、初めてです」と篠崎さんが言った。
「希少ですよ。四万八千円。もう使われないんですか」と大塚さんが聞いた。
「この年になって、こういうのも合わないかなと思って」と篠崎さんが答えた。
「そうですか」
大塚さんが微笑んだ。
「売り時はお客様が決めることですから」
僕は手を止めた。
いつもの大塚さんとは、違った。
すごい人だ、と思った。
査定が終わって、合計金額を出した。
大金を数えるのは、まだ慣れない。緊張する。僕は金額を用意した。大塚さんは篠崎さんと一緒に一枚ずつ確認しながら渡した。
「ほんとに遠くまで来てよかったわ。また来るわね」と篠崎さんが言った。
「お待ちしております」と大塚さんが答えた。
引き戸が開いた。ベルが鳴った。砂利を踏む音がして、エンジンがかかった。県外のナンバーが、通りに消えた。
宮本さんが動き始めた。
品物を一個一個、布で丁寧に拭いた。保存袋に入れた。持ち手を内側に折り込んで、口を丁寧に折った。それからパソコンに登録していった。
僕も登録作業を手伝った。
「大塚さん、あんなにしゃべるんですね。びっくりしました」と僕は言った。
宮本さんが少し笑った。手は止めなかった。
「あの人はね、話さないときには話さない。話すときには話す」と宮本さんが言った。
「どうやって見分けてるんですか」と僕は聞いた。
「さあ」と宮本さんが言った。
それだけだった。
しばらく二人で作業した。品物を一つ登録するたびに、パソコンの画面に数字が積み上がっていった。
「篠崎さん、いいお客さんよね」と宮本さんが言った。作業しながら、独り言のように言った。
「そうですね」と僕は答えた。
「ああいう人ってね、モノの扱いがいいのよ。大切にしてきたのが伝わってくる」
僕はシャネルのジャケットを思い出した。宮本さんが「このツイード、好きだわ」と言ったときの顔を思い出した。
「宮本さんはすぐ気づくんですね。好きとか、きれいとか」と僕は言った。
宮本さんが少し手を止めた。
「そう?」
「自然に出てくるじゃないですか。あの言い方」
「あなたも、そのうち出てくるわよ」と宮本さんが言った。
「どうやったら出てきますか」
「好きになればいいんじゃない、モノを」
それだけだった。宮本さんはまた作業に戻った。
僕は作業しながら、さっきのことを思い返していた。
あの三十分に、入れなかった。入る言葉もなければ、知識もなかった。悔しさが、じわじわと出てきた。
「今日帰ったら大塚さんのSNS、最初から全部読みます」と僕は言った。
「あら」と宮本さんが言った。
「まだ全然知識が足りないなと思い知らされました。ブランドのこととか商品のことだけじゃなくて、あんなふうに人と話せるようにも、なりたいです」
宮本さんがパソコンから目を上げた。
「良い心がけじゃない」と宮本さんが言った。
「悔しいので」と僕は言った。
「それ、大塚さんに言ったら喜ぶと思うよ」
「言いません」
宮本さんが笑った。今度は少し長かった。
帰り道、自転車を漕ぎながらスマートフォンを開いた。
大塚さんのアカウントを見た。
一週間前の投稿があった。一ヶ月前もあった。半年前もあった。一年前もあった。
まだあった。
ずっと、やっていた。
今日のパリのバッグの写真が、もうあがっていた。光の当て方が丁寧だった。復刻版との比較も書いてあった。知らないことが、また書いてあった。
家に帰って、ノートを開いた。
ペンを走らせた。
大塚さんのSNSを見ながら、知らなかったことを書き写していった。一つ書いた。また一つ書いた。
気づいたら、夢中になっていた。
知らないことを知っていく。その感覚が、悪くなかった。
ふと時計を見た。
日を跨いでいた。
次の話
マガジンで最初から読む
