「半熟質屋」第4話 止まったままの時計
【あらすじ】
大塚質店。ベージュのタイル張り、電飾看板。引き戸を開けると、ベルが鳴る。
行き詰まった末に、縁あってこの質屋に流れ着いた桃瀬信一、三十二歳。
師匠の大塚さんの下で働き始めて半年が経った。
質屋には毎日、誰かが来る。 売りたいと言いながら手放したくない人。手放したいと言いながら、値段を聞いた瞬間に表情が曇る人。
カウンターに置かれるのは、時計や指輪やバッグだけではない。 言えなかったこと、捨てられなかった時間、まだ諦めきれない誰かの暮らしも、そこに置かれる。
自分に価値があるのかもわからない男が、他人のモノの値段を決める。
大塚質店で働く桃瀬信一は、今日もベルの音に顔を上げる。
第4話 止まったままの時計
五月に入ってから、夜が長くなった。
平日の八時でも、外はまだ薄明るい。砂利の駐車場に街灯の光が落ち始める時間が、少しずつ遅くなっていた。
宮本さんは六時に上がっていた。大塚さんは奥にいる。
僕はカウンターで、ノートを開いていた。
自分でまとめた鑑定ノートだ。時計のムーブメントの種類、ブランドごとの刻印の場所、コンディションと相場の関係。半年分の気づきが、びっしり書き込まれている。線を引いて項目を分けて、見やすく整理した。大塚さんに教わったことだけじゃなく、自分で調べたことも加えた。ネットの相場、業界誌の記事。読めるものは全部読んだ。
半年前の自分とは、違う。
キーポルを持ったまま動けなかった。頭が白くなった。客に「大丈夫ですか」と言わせた。あの日のことは今でも覚えている。でも今は、動ける。
少なくとも、動ける気がしていた。
八時十分過ぎに、引き戸が開いた。ベルが鳴った。
男だった。六十代だと思った。紺のジャケット。白髪が混じっている。背筋が伸びていた。体格はよくない。でも足音が静かで、迷いがなかった。
入口で一度、店の中を見回した。
初めて来た人によくある戸惑いの間ではなかった。何かを確かめている間だった。ショーケースを見た。値札を見た。カウンターを見た。僕を見た。
視線が、一瞬だけ止まった。
僕はその視線の意味がわかった。「この人間に任せていいのか」という確認だった。値踏みではない。もっと根っこにある何かだった。この店を、信用していいのか。
「買取、お願いできますか」
「いらっしゃいませ。はい、どうぞ」
男はゆっくりカウンターに近づいてきた。急がなかった。周りを見ながら歩いた。棚の上の参考書を見た。カウンターの上の手袋とルーペを見た。何かを確認し続けていた。
手に、紺色の布袋を持っていた。使い込まれた巾着だ。口のひもが少し解れている。
カウンターの前に立って、しばらく袋を置かなかった。
それから、ゆっくり取り出した。
袋から出てきたのは、時計だった。
カウンターの上に置いた。そっと置いた。音がしなかった。
「年齢的にね、少しずつ手放していこうかと思いまして。これが最初の一本です」
「そうですか」
僕は答えた。でも次の瞬間には、もう時計に目が向いていた。
丸いケース。文字盤は紺色。白いインデックスが細く入っている。三時位置に日付窓がある。針は止まっていた。日付の数字は、ずいぶん前のままだった。
セイコーだった。
手袋をはめた。裏蓋を返すと刻印が見えた。縁に沿って円を描くようにテキストが並んでいる。WATER RESISTANT。STAINLESS STEEL。中央にSEIKOの刻印。その下に型番が小さく打たれていた。MADE IN JAPAN。縁のノッチに、工具を当てた跡が薄くついていた。過去に誰かが開けた跡だ。縁に小さな傷が散っている。保管傷ではない。使ってきた傷だ。丁寧に使ってきた、その跡だ。
文字盤の縁がほんのわずかに日焼けしている。それ以外は綺麗だった。
リューズを引いてみた。固くなかった。少し巻いてみた。針がわずかに動いた。ムーブメントは生きている。巻き上げが足りないだけだ。自動巻きは、腕につけていれば錘が振れて動き続ける。つけていなければ、止まる。
「自動巻きの機械式時計ですね」
「ええ」
「セイコーの、おそらく七十年代のモデルかと思います」
答えられた。
それだけのことだった。でも、それだけのことだった。ノートに書き写して、何度も読んだ。自動巻きのムーブメントの構造、セイコーの年代別の型番の見分け方、裏蓋の刻印のパターン。覚えた。今日、それが出てきた。
声に張りが出た。自分でわかった。
「実はセイコーさん、1969年に世界初のクォーツ時計を出されてまして。それまでの機械式の時代を終わらせた、非常に革新的な会社なんですね」
男は黙って聞いていた。
「この時計はちょうどその移行期のモデルになります。コレクターの方には馴染みのある時代だと思うんですが、現在の買取市場では、こういった国産の機械式よりも、どちらかというとスイス系のスポーツウォッチへの需要がシフトしていまして」
男の目が、少し動いた。
「——ですので、こちらのモデルは国産の機械式になりますので、先ほど申し上げた市場の状況もございますので——」
頭の中で数字が出た。古い。使用感がある。需要がない。
「二千円になります」
言ってしまってから、早かったかもしれないと思った。でももう口から出ていた。
沈黙が来た。
三秒。四秒。
「……二千円」
男が繰り返した。声は平らだった。怒っていなかった。でも動かなかった。
「申し訳ないんですが、市場の相場として——」
「そんなはずはないですよ」
静かだった。でも内側に、何か固いものがあった。
「このモデルが今、海外でいくらついてるか、ご存じですか」
僕は答えられなかった。
「知らないなら、調べてから値段を出してください」
言い方は穏やかだった。でも一ミリも動かない声だった。
これは0点だ。
来た。あの口の端の笑い方まで、来た。
来て、消えた。
男はまだカウンターの前に立っていた。
僕は電卓を持ったまま、何もできなかった。
調べる、と言われても、何を調べればいいのかわからなかった。男はカウンターの前に立っている。検索している時間はない。大塚さんを呼ぶべきか。でも呼べば、また助けてもらうことになる。
知識はあった。ノートに書いた。覚えた。でも男が求めていたのは、そこじゃなかった。
あの日とは、違う失敗だった。でも結果は同じだった。
その考えが頭をよぎった瞬間、気配があった。
足音もなく、大塚さんが奥から出てきた。
カウンターの内側に入った。僕から時計を受け取った。手袋をはめた。
まず裏蓋を見た。刻印を確認した。それから表に返して、文字盤を正面から見た。光の角度を変えた。インデックスを一つずつ目で追った。ケースの縁を親指でゆっくりなぞった。傷の一本一本を確かめるように。
リューズを引いた。抵抗を確かめた。ゆっくり巻いた。針が動き始めた。文字盤を耳に近づけた。音を聞いた。
僕には聞こえなかった。でも大塚さんには聞こえているものがあった。
時計を持ち上げた。光にかざした。角度を変えた。また変えた。
一分もかからなかった。
電卓を取った。叩いた。
僕に画面を向けた。
20,000と出ていた。
声が出なかった。さっき自分が出した数字を思い出した。二千円。今、二万円になっていた。
同じ時計を、同じカウンターで見た。それだけのことだった。
「これ、今、海外のコレクターにすごく人気があるんですよ」
大塚さんが男に向かって言った。
「ほう」
「特にアメリカとヨーロッパで、この年代のセイコーの自動巻きを探してる人が多くて。状態がいいものはネットのオークションでかなりの値段がついてます」
「そうですか」
男の顔が、初めて少し緩んだ。
「スポーツウォッチブームの流れで見直されたんですよ。日本製の品質の高さを、改めて評価する人が増えて」
「それは知りませんでした」
「状態もいいですよ、これ。大切にされてたのがわかります」
大塚さんが電卓を男に向けた。
「二万円でいかがでしょう」
少し間があった。
「……そうですか」
怒っていなかった。でも何かが、すっと解けたような顔だった。
「二千円と言われたんで」と男が言った。静かな声だった。
「申し訳ないです」と大塚さんが言った。
男が首を振った。
「いえ。それで、二万円ですか」
「はい」
また間があった。
「……わかりました」
男が少し黙った。
「まあ、しばらくつけてなかったんですけどね」
「そうですか」
「入院しておりまして」
「それは——」
「ちょっと体を悪くして。退院してからも、しばらくはなんやかんや続いて」
大塚さんは時計を手の中で静かに持っていた。
「それで今日、持ってこられたんですか」
男はカウンターの端に目を落とした。
「まあ……そうですね。いつまでも持っていても、という気もしてきて」
「そうですか」
一拍あった。
「私も若い頃、同じ時計してましたよ」
男が顔を上げた。
「これを、ですか」
「ええ。給料をためて買いました。当時はセイコーかシチズンか、くらいの時代で」
「そうそう、そうでしたね」
男が笑った。
「よく動いてましたよ。長いこと使いました」
「丈夫ですよねえ、セイコーは」
「丈夫です。安心感があった」
二人が話していた。
僕はカウンターの端に立っていた。
何かをするふりがしたかった。伝票を整理するとか、台帳を確認するとか。でもそれが見え透いた動作になると思って、やめた。ただ立っていた。
時計の話だった。でも僕が調べた時計の話ではなかった。
「当時、自動巻きが出てきたときはびっくりしましたよ」と男が言った。
「親父も同じこと言ってました」と大塚さんが言った。
「そうでしたね。でも一回つけたら、もう戻れなくて」
「そうそう」
大塚さんが頷いた。
「そのわずか13年後にクォーツを出すんですよ、セイコーは」と男が言った。「しかも特許を解放した」
「世界中がクォーツだらけになって」と大塚さんが言った。
「スイスが震えた。あれだけ栄えていたのに」と男が続けた。
僕のノートに、この会話は一行もなかった。いや、違う。同じことをさっき話した。でも男は黙って聞いていた。
今は違った。男が自分から返していた。
「精度だけ言ったらクォーツの方が全然上なんですよね」と男が言った。
「桁が違いますから」と大塚さんが言った。「自動巻きは1日に数十秒ズレることもある。クォーツは1ヶ月でやっと数秒」
「それでも機械式を選ぶ人がいる」
「腕につけていないと止まるから」と大塚さんが言った。「生きてる感じがするんでしょうね」
男が小さく頷いた。
「正確じゃないけど、一緒にいる感じがする」
しばらく間があった。
「セイコーってね、自分のところで競い合ってたんですよ」と男が言った。「諏訪と亀戸。同じ会社なのに、設計図も共有しなかった」
「身内で真剣勝負してたんですね」
「それで1967年、ニューシャテルのコンクールでスイスの名門を抑えて上位に食い込んだ。機械式の精度で、世界一になったんです」
「そこからさらにクォーツに行くんですよね」
「その判断もすごい」と男の声が上がった。「自分たちが極めた機械式を、自分たちで時代遅れにした。しかも特許を解放した」
前のめりになっていた。カウンターに両手をついていた。入ってきたときの、あの値踏みするような目はもうなかった。
「あそこは戦略ですよね」と大塚さんが言った。「世界標準を獲るために」
「そうそう。理想とか善意とかじゃなくて、冷徹な計算だった。でもその結果、世界中の時計がセイコーの設計で動くようになった。スイスが震えた」
男がカウンターを軽く叩いた。
「自分たちで世界を変えて、自分たちで業界をひっくり返して——」
男の目が、光っていた。
少し間があった。
「……すみません」と男が言った。急に声が小さくなった。「つい、熱くなってしまって」
照れていた。
六十代の男が、時計の話で照れていた。でも口元が緩んでいた。隠しきれていなかった。
「いえ」と大塚さんが言った。「好きなんですね、セイコーが」
「まあ」と男が言った。「恥ずかしいですけど」
「でもスイスも、そこから盛り返しましたよね」と大塚さんが言った。
「あれも不思議な話で」と男が言った。「クォーツで追い詰めたはずが、今や機械式の値段は圧倒的にスイスが上で。ロレックスもパテックも、クォーツなんて作らない」
「熱狂的なファンがいる」
「そうなんですよ」と男が言った。少し遠くを見るような顔をした。「時代遅れになったはずのものが、一番価値を持つようになった。歴史って、わからないもんですよ」
男が笑った。さっきとは違う笑い方だった。入口で店を値踏みしていた男と、同じ人間だとは思えなかった。
大塚さんがカウンターの上の時計を、一度だけ見た。
何も言わなかった。
その言葉が、どこかに引っかかった。
どこに引っかかったのか、わからなかった。でも引っかかった。
僕は時計を見た。それから、目をそらした。
僕はカウンターの端で、動けなかった。
ノートに書いた。覚えた。でもそういうことではなかった。
「お仕事は?」と大塚さんが聞いた。
「自動車の整備工場をやってましてね」と男が言った。「もう四十年近くになります」
「それでまた、機械式時計に」
「そうそう」と男が笑った。「エンジンもムーブメントも、突き詰めると同じなんですよ。無駄な部品が一個もない。全部に意味がある。そういうものを見てると、落ち着くんです」
大塚さんが頷いた。
「職人仕事ですね」
「まあ、そうなりますかね」と男が言った。少し照れた顔をした。「整備も時計も、最後は手の感覚ですから」
「このモデル、友人も持っててね」と男が続けた。「当時は珍しくなかったんですが、そういえばあいつも同じのをしてた」
「そうですか」
「もうずいぶん前に亡くなってしまいましたが」
大塚さんが何も言わなかった。
「使わない自分が持っているより、使ってくれる誰かに託したいと思って」
男が時計を見た。
「あいつも、そう思うんじゃないかと」
間が、店の中に落ちた。
有線放送だけが、低く流れていた。
しばらくして、大塚さんが言った。
「大切にされてたんですね、この時計」
男が小さく頷いた。
「まあ。いろいろ思い出がありましてね」
僕はカウンターの端で、手の置き場がなかった。
大塚さんの口元が、柔らかくなっていた。
僕には、それが笑いなのかどうか、わからなかった。
手続きをした。
男は金額を確認して、静かに頷いた。買取票に名前と住所を書いた。丁寧な字だった。身分証を出した。受け取った紙幣を、財布の中に一枚ずつ入れた。
「いやあ」
男は財布をしまいながら言った。
「ほかにも持ってくるものがあったら、また来ます」
「お待ちしております」
「あんたのとこに持ってきてよかった」
大塚さんを見て言っていた。
男がジャケットの内ポケットに手を入れた。名刺を一枚取り出した。両手で大塚さんに差し出した。
「武藤と申します。またお世話になるかもしれませんので」
大塚さんが両手で受け取った。一度だけ見た。
「ありがとうございます。お待ちしております」
僕は横で、その名刺の渡し方を見ていた。
信用していなかった男が、自分から名前を渡していた。
砂利を踏む音がした。駐車場を横切って、男の背中が通りに出ていった。
足音が遠ざかった。
大塚さんがカウンターの上の時計を見た。
僕を一度だけ見た。
「客の方が、よく知ってることもある」
それだけ言って、奥に戻った。
僕はひとりになった。
カウンターの上に、時計があった。
大塚さんが巻いたリューズは、また止まっていた。誰も腕につけていないから、また止まっていた。
僕はそれをしばらく見ていた。
調べた。読んだ。ノートにまとめた。セイコーのことも、市場のことも、クォーツ革命のことも。全部、知っていた。
武藤さんは何も聞いていなかった。
僕の言葉を、武藤さんは一秒も必要としていなかった。
ふと思った。大塚さんは、いつから見ていたのだろう。
武藤さんが来たときから、かもしれない。
僕が話し始めたときから、かもしれない。
二千円を言ってしまったときも、黙って見ていたのかもしれない。
それでも出てこなかった。
僕が完全に詰まるまで、待っていた。
ずっと来ていた。あの声が。最初の日も、今日も。来るたびに固まった。頭が白くなった。動けなくなった。
でも今夜は違った。うるさい、と思った。もういい加減にしてほしかった。
0点と言われた人間が、人のものに値段をつけている。
考えてみれば、おこがましい話だった。
武藤さんが何を持ってきたのか、僕にはわかった。止まったセイコーだ。自動巻き、七十年代のモデル。全部わかっていた。
武藤さんがなぜ持ってきたのか、それは最後までわからなかった。
大塚さんとの会話の中で初めて出てきた。入院のこと。亡くなった友人のこと。年齢のこと。整理を始めようと思ったこと。僕は一度も聞かなかった。聞こうとしなかった。時計のことだけを見ていた。
カウンターの上の時計を、もう一度見た。
武藤さんの友人も、同じ時計をしていたと言っていた。ずいぶん前に亡くなった、と。それを聞いたとき、大塚さんは黙った。何も言わなかった。ただ、聞いた。
僕にはその沈黙の意味が、その場ではわからなかった。
今もわからなかった。でも、何かがあった。そこには確かに何かがあった。
でも、それが選んだ道だった。誰かに押しつけられたわけじゃない。半ばやけくそで飛び込んだ場所だったが、今も来ている。それは自分で選んでいることだった。
できるようになれるかどうか、わからなかった。
今日みたいなことが、また起きると思った。また固まる。また間違える。また助けてもらう。
カウンターの向こうに、さっきまで大塚さんがいた。武藤さんと話していた。時計の話をして、同じ時代を生きてきた者同士として、静かに向き合っていた。
ああいうふうに、なれるだろうか。
なれない気がした。でも、なりたかった。
初めて、そう思った。
……なら、やるしかないじゃないか。
今度は止まるわけにはいかない……
有線放送が流れていた。ジャズだった。誰かのトランペットが、低く鳴っていた。
時計は、まだ止まったままだった。
次の話
マガジンで最初から読む
