気の迷いは、歩きながら断ち切る【50代】
この道は、どこに続いているのだろう。
こちらの方角で、本当に合っているのだろうか。
人生という迷路に入り込み、出口が見えないまま、長い時間をもがき続けている感覚がある。
それでも私は、立ち止まらない。
立ち止まったところで、誰かが助けてくれるわけではないと知っているからだ。
答えを探すより先に、足を出す。
それが、私がたどり着いた「気の迷いの断ち切り方」だった。
人生は、こちらの準備を無視して進んでいく
人生のどこかで、誰もが迷う。
この道でいいのか。そもそも、道は合っているのか。
問いは静かに、だが執拗に胸の内を叩く。
社会に出てから、私はずっと歩き続けてきた。
立ち止まる余裕がなかった、と言ったほうが正確かもしれない。仕事、家族、責任。
どれも「考えがまとまるまで待ってはくれない」
人生は、いつもこちらの準備を無視して進んでいく。
立ち止まれば、答えが見えると思っていた
かつてはそう信じていた時期もある。
だが現実は違った。
止まった瞬間、問いは増える。
不安は濃くなり、足元はさらに見えなくなる。
静かになった。
気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。
人生の迷路には、「立ち止まって考えるための広場」は用意されていない。
あるのは、進みながら考えるか、考えすぎて動けなくなるか、その二択だけだった。
誰も、立ち止まって途方に暮れている人に、積極的に手を差し伸べようとはしない。
冷たい話だが、現実だ。
一方で、必死に歩いている人の背中には、不思議と誰かの視線が集まることがある。フォローされるのは、頑張って歩いている途中だったりする。
私も、そうやって生きてきた一人だ
迷いながら、疑いながら、それでも足を止めずに。
50歳を過ぎたあたりから、問いの質が変わった。
このままでいいのか。
頑張り続けることに、意味はあるのか。
人生とは、いったい何なのか。
若い頃の迷いは、「どれを選ぶか」だった。
50代の迷いは、「選び続けること自体に意味があるのか」という問いに変わる。深く、重く、答えのない問いだ。
考えすぎる前に、現実が一歩を要求してくる
私の場合、介護や家庭の事情、仕事が重なり、立ち止まって思索に沈む時間すら取れなかった。
ある意味、それが救いだったのかもしれない。
考えすぎる前に、現実が次の一歩を要求してくる。
選択の余地はなく、ただ進むしかない日々。
胸の奥で、何かが軋んだ。
それでも、ふとした瞬間に問いは顔を出す。
夜の静けさの中で。
疲れ切った身体を横たえたときに。
そんなとき、私は思考を断ち切る
答えを出そうとしない。
意味を定義しようとしない。
代わりに、「今日やるべき一歩」だけを見る。
人生の意味は、立ち止まって考え抜いた末に突然見えるものではなかった。歩いた距離の分だけ、あとから滲み出てくるものだった。
振り返ったとき、ああ、ここまで来たのか、と分かる。
そのとき初めて、この道も悪くなかったと思える。
気の迷いは、考えすぎた頭の中で育つ
だが、歩き続ける身体は、迷いを静かに削っていく。
私は今日も、答えのない道を歩いている。
だが、それでいい。
歩いている限り、人生はまだ続いている。
それが、私がたどり着いた結論だ。
読者の皆さまへ 今日できる一手
人生の答えではなく、「今日の一歩」だけを決めてみてください。
迷いが出たら、まず身体を動かす。
立ち止まっている自分を責めず、再び歩き出す。
それだけで、迷路は少しずつ、抜けられる。
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EX-FAX-CE | NOTE執筆家
「ロスジェネ氷河期的視点 ― 情に生き、言葉で立ち上がる」
「ゆるぎなく、まっすぐに」
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