#42 モラハラの手口は、謝罪と涙で支配を繰り返すこと
仕事を辞めた年の秋。
その日の午前、家事を終えてスマホを手に取ると
出勤した元夫からメールが届いていた。
「水筒のパッキン外したやろ?!
電車でお茶が漏れてトラブルになった。
専業主婦のくせに、旦那陥れて楽しいか?
余計なことすんな。
絶対許さんからな。
顔も見たくないわ」
え…?
刃物みたいな言葉に、胸がギュッとした。
その日、私は寝坊した。
いつもは私が夜の間に元夫のカバンから水筒を出し、分解して洗ってパッキンを付け直し、キッチンに置いておく。
朝、お茶を詰めるのは元夫。
その日は自分で乾燥機から出して、そのまま――パッキンを付けなかったようだ。
それが“私を攻撃する理由”になるん?
⸻
怖くてたまらず、メールを母に転送した。
即答だった。
「帰って来なさい。何されるか分からんよ」
私は当座の荷物をまとめ、逃げるように実家へ。
昼、着信音が鳴った。
画面に元夫の名前。
思わず悲鳴を上げてスマホを放り投げた。
母は低い声で「帰ったらあかん」と繰り返した。
夜、仕事から帰宅した父は静かに言った。
「イラッとするのは分かる。
けど、こんな文面を送るのは“異常”や」
私はようやく呼吸を取り戻した。
⸻
翌日の夜。元夫が実家へ来た。
私は2階に続く階段で様子を伺っていた。
「お騒がせして、すみません〜」と
どこか軽い芝居口調。
父の声は低かった。
「何の用やろか」
事の重大性に気付いたのか元夫はしおらしくなり、涙ながらに事情を述べたらしい。
「カバンが濡れて、他人のスーツまで…怒鳴られて恥ずかしくて…」
父は言い切った。
「出世に関わる書類でも入っとったん?」
――いいえ、の返事。
「絶対許さんのやろ?
許さん相手とは暮らせんやろ」
やがて元夫は畳に頭を付けて土下座したという。
「申し訳ありませんでした…アズちゃんに可哀そうなことをして…」
母は一歩退いて見ていた。
「アズは2階におるから、話したいならどうぞ」
階段の足音。
ドアが開き、彼は崩れ落ちるように泣いた。
「ごめん、ごめん、ごめん…アズちゃんを失いたくない。帰ってきて…」
私は――騙された。
大の男に泣かれると、罪悪感が芽生えた。
謎の感覚に包まれ、判断を誤った。
後から知る。
これは、モラハラ加害者が
「涙や土下座で、相手を揺さぶる手口」
だということを。
⸻
父は最後に釘を刺した。
「今回は水に流すわ。けど次があれば――
アズは返してもらうから」
母は、元夫の「週末に迎えに行く」という申し出を断った。
「アズはうちの娘やし、こちらから送り届けます」
「アズちゃんの家族は僕やで」と言い続け
実家から私を切り離そうとしていた人の前で
親は「うちの娘」と線を引いた。
⸻
なのに、私は、檻に戻る道を選んだ。
週末までの二日間、元夫からは頻繁にメールが来た。
「アズちゃんへの感謝が足りなかった」
「いつのまにか当たり前になっていた」
「本当にごめん」
「帰ってきてくれたら京都へ行こう」
「いいカフェを見つけたから」
「早く会いたい」
母は「次こそ暴力やったらどうする」
と何度も心配した。
兄の車でマンションへ戻ると
元夫はエントランスで待っていた。
母はスモーク越しに一瞥し、降りなかった。
兄は荷物を渡しながら私にだけ言った。
「なんかあったら、すぐ電話せえ」
部屋に入るのは少し怖かった。
しかし、元夫は涙を流した。
「帰ってきてくれて、ありがとう」と。
暴言メールを送ってきた人と、同じ人物とは思えない優しさ。
私はすごく安心した。
けれど、今なら分かる。
あれは、支配対象を取り戻せた安堵だった。
翌週末、約束どおり京都へ。
阪急の京とれいん、下鴨神社、わらび餅、御所。
「アズちゃんを喜ばせたくて」
――元夫はそう繰り返した。
楽しい出来事で、都合の悪い事実を上書きする。水筒事件の話は一度も口にしなかった。
当時の私は、それを「気まずいだけかな」
と思っていた。
これが、モラハラの典型的な“手口”だと気づくのは、ずっと後になる。
⸻
今も母は言う。
「あの時、“別れなさい”と言うべきやった」と。
母は十分すぎるほど戦ってくれた。
父も、盾になってくれた。
問題は、暴言が“たった一通のメール”
だと私が自分に言い聞かせたこと。
そして、元夫が演出する“楽しい記憶”の幻想に
私が吸い込まれてしまったこと。
突発事項でパニック
→怒りでターゲットを威圧
→ 逃げられる
→ 涙と謝罪で回収
→ 楽しいイベントで上書き
→ なかったことにする
このサイクルこそが、元夫のモラハラ性の
中核。
元夫にとって“支配”は、日常の一部だった。
———
枇杷を母のバッグに忍ばせたあの日から、
私には“帰れる場所”があった。
でも、そこに本当の意味で手を伸ばせたのは——
さらに年月が経ってからの
「朝逃げ」の瞬間になる。
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