なぜ産業保健職は労働判例を学ぶべきなのか
はじめに
産業保健職として、労働者と企業のあいだで争いになった実例である「労働判例」は、極めて重要な勉強資料となります。産業保健の講義・セミナーでも、労働判例が根拠として示されることが多いですよね。産業保健を学ぶ中で、自然と触れる機会が多いと思いますし、なにをいまさらと思う方もいるかもしれません。しかし、「なぜ重要なのか」を明確に言語化しておくことは、学ぶ動機や学ぶポイントを掴むことにもつながると思いますし、改めて記事にしてみたいと思います。
特に重要な労働判例をピックアップしていますので、以下の記事もご参照ください。
また、この記事の続きとして、労働判例と向き合う際の注意点も書いております(有料記事設定しています)。
労働判例とは
労働判例とは、労働に関する争いが裁判に発展し、最終的に裁判所が下した判断(判決や和解、命令など)が記録・公表されたものです。たとえば、解雇の有効性(不当解雇に当たるかどうか)、パワハラ・セクハラに対する損害賠償請求、事故や労災に関連する事業者の安全配慮義務の適用(不法行為や債務不履行があったかどうか)などが含まれます。
なお、「判例」とは通常、裁判所が法律上の争点について判断を下した「判決」を指します。したがって、当事者間の合意により終結する和解や調停で解決した事件の多くは、法的判断を含まないため、一般に判例には含まれません。和解・調停が含まれないのはけっこう大事なポイントです。
コモンローとシビルロー
あまり産業保健現場では、「コモンロー,common law」と「シビルロー, civil law」の用語は使われませんが、労働判例と向き合うためには、知っておくべき概念だと思います(教養的にも)。
日本の法体系は、フランスやドイツに由来するシビルローに基づいており、法律は原則として国が定めた成文法(条文)を中心に運用されます。一方、イギリスやアメリカのコモンローでは、裁判所の判決そのものが“法”として拘束力を持ち、過去の判例がルールの基礎となっています。
しかし日本の実務の現場では、過去の裁判例(判例)に大きく依拠した判断が行われることが多く、実質的にはコモンロー的な運用がなされているのが現状です。その理由の一つは、成文法の抽象性です。たとえば「合理的な解雇」や「必要な配慮」といった条文だけでは、現場で何をすべきかがはっきりしません(というか混乱しています)。解釈もさまざまだったり、形骸化していたり、実施されていたりされていなかったりします。全て法令通りに物事が運ぶほど簡単なものではないんですよね。そのため、そのギャップを埋めるのが、実際に裁判所が判断した事例=労働判例です。企業の対応も「過去にこの対応で問題とされたかどうか」という判例ベースのリスク判断になっています。最高裁判例には実質的な拘束力があり、裁判所自身も「先例」に基づいて判断を下す傾向があります。
そのため、労働判例を知らずに産業保健や労務対応を行うことは、落とし穴を知らずに迷路を挑戦するようなものになっているのが現状です。判例を学ぶことは、条文の意味を現場レベルで解釈し、どこまでが許容され、どこからがアウトっぽいのか(裁判になったら負けそうなのか)を判断することができ、現場での実践力につながります。
いうなれば、出るところに出たら負けるのか負けないのか、といったことです(言い方によっては「非弁行為」と扱われうるため注意が必要です!)
つまり、シビルローでありながら「判例重視型社会」である日本では、労働判例が実務上の目安の一つになっています。それは法務担当者だけでなく、現場で職場の健康と安全を支える産業保健職にも求められる視点となっているんですよね。
安全配慮義務の線引きが見えてくる
過去記事「安全配慮義務の落とし穴」でも示した通り、「安全配慮義務」の概念は過去の労働判例によって構築されてきましたし、これからも左右されていくでしょう。
職場の健康管理では、「どこまで対応すればよいのか?」という線引きが非常に難しい場面が多々あります。特にメンタルヘルスや復職対応、ハラスメントなどの領域では、医学的判断と労務管理が交差し、グレーゾーンも広がります。
このとき、労働判例を通じて、「このような対応が不十分とみなされた」「ここまで配慮すれば企業の責任は問われなかった」といった具体的な基準や判断例を知っておくことで、企業として、ここまでやっておけば概ね安全配慮を尽くしたと言えるようになります(とは言え、労働判例を一般化したりするのは危険です。あくまで"概ね"というレベルです)。
実際のいくつかの事例
実際の労働判例で考えたときに、残業はどこまでさせてよいのか?、在宅勤務は認めるべき?、なにをもってハラスメントとされうるのか?転勤命令はいいのか?といったことは、線引きが非常に難しいため、最新の労働判例が注目されがちです。関連するニュースをいくつか示します。
判例は労働トラブルの発展形
労働判例は、ある企業・ある職場で起きた問題が、最終的に訴訟へと発展したものです。つまり言うなれば、現場で起きたトラブルの発展形のようなものです。産業保健職には、同じような事例が生じないように過去のトラブル事例から学ぶことが求められます(→予防実務・予防法務)。たとえば、次のような問いを持って判例に向き合うと、現場の目線での学びがより多く得られると思いますよ。
・なぜ問題がこじれたのか?
・初期段階でどんな対応がされていたのか?
特に、産業保健職の対応は?
・もし自分がその立場だったら、どう動いていただろうか?
特に重要な概念として「手続的理性」があります。その言葉の示す通り、事例の対応のプロセス(手続き)が理性的に実行されていたかが問われます。以下の記事を読むと、またさらに労働判例を読みこむ力が身につくと思います。
労災も裁判も職業病も因果関係の有無を検討する
私たち産業保健職は、体調不良を見た時にそれが仕事に起因するかどうかを考えますよね。つまり、仕事と疾病との因果関係があるのかないのか、ということです。
労働災害でも同様です。労災の要件は次のようになっており、業務起因性が問われ、労働基準監督署は、それをジャッジします。
要件1 労働の場に有害因子が存在していること
要件2 健康障害を起こしうるほどの有害因子にさらされたこと
要件3 発症の経過及び病態が医学的にみて妥当であること
そして、裁判所でも同様です。原告である労働者は自身の体調不良が仕事によって起きたことを訴えるのがよくある構図です。そして、裁判所はそれをジャッジします。
産業保健職は労基署や裁判所ではないものの、疾病の予防や再発を防ぐためにも、因果関係を検討した上で、原因の除去や改善を行うことになります。そのため、労災として認定されるのか、裁判所でどう扱われるのかは、専門家としても把握しておかなければならないということになるんです。
労働問題は訴訟でしか解決できないこともある
職場で起きる労働トラブルの多くは、話し合いや社内調整で解決されることが理想です。しかし現実には、当事者間の信頼関係がすでに破綻していたり、ホットラインを含む社内の手続きが十分に機能していなかったりするからこそ、訴訟にまで至るケースが往々にしてあります。
たとえば、不当な解雇や退職勧奨とか、ハラスメントを訴えたにもかかわらず組織からずさんに対応された場合には、労働者が最後の手段として裁判を選ぶことも選択肢です。本人にとっては、「尊厳を回復するため」「不当を記録として残すため」など、経済的な理由だけでは済まない事情があることもあります。
また、会社側が「正当な処分だった」と考えていても、その判断が社会通念に照らして妥当だったかを最終的に示せるのは裁判所だけです(労働基準監督署もその機能がありますが)。つまり、労働問題の中には、法的な手続き=訴訟でしか決着がつかないものがあるということです。これは社会の中で公正性を担保するために必要な手続きです。
産業保健職としては、我々が扱っているのは単なる「健康問題」ではなく、「人生の問題」であったり、「お金の問題」「労働者の尊厳の問題」を扱っているのだ、という認識も必要でしょう。人にとって「働く」ということにはそういうことも含まれます。そして、なにやらキワモノ扱いする人もいますが、訴訟や訴訟した人を「極端な例」と捉えるべきではないことも注意してください。そもそも、「裁判を受ける権利」は「国民の権利」です。それを安易に非難するべきではありません。裁判に至った背景や経緯を丁寧に読み解くことは、私たちが扱っている問題に真摯に向き合うためのきっかけにもなるのだと思います。
学びの資源
産業保健21
押さえておきたい基本判例シリーズが無料で読めますよ。
模擬裁判
最近では、日本産業衛生学会や日本産業保健法学会で「模擬裁判」のシンポジウムが開催されることがデフォルトになってきました。これらも学びの題材としてとても良いのでおすすめですよ。人気すぎて満席で見れないこともありますが・・・(第98回日本産業衛生学会ではオンデマンドで視聴可能でしたね)。
産業保健法学会
「産業保健法務主任者資格」を取るのもおすすめです。
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西川暢春 弁護士法人咲くやこの花法律事務所さん
弁護士リチャードソンさん
高橋正俊さん
本当は法務関連の雑誌も追加したいのですが、有料で高いんですよね・・・
私も読めていないです。。。
おわりに
労働判例は、職場で起きたトラブルがどのように評価され、どのように決着したかを示す重要な記録です。安全配慮義務の境界線の目安を過去の労働判例から読みとることができます。最初は、裁判記録は文章が少し特殊なので、読み取りにくいかもしれませんが、少しずつ慣れてきますので、読む力を養っていきましょう!
続き
労働判例と向き合う際の注意点は、次の記事に書いております。
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