42巻をAI自動翻訳と一緒に歩いて、見えてきたこと ― 『民草が紡ぎし絵巻』公開第一期を終えて
『民草が紡ぎし絵巻』第42巻『村を見下ろす老人』を公開した。
これで、第一部『火を囲む人々』と第二部『稲穂を育てる人々』からなる、『民草が紡ぎし絵巻』の公開第一期が終わった。
全42巻。
最初から、AI自動翻訳について調べるために書いた作品ではない。
名を残さなかった人々の暮らしを書きたかった。
火を囲んだ人。
石を削った人。
土器を焼いた人。
海を渡った人。
稲を植えた人。
水を引いた人。
糸を紡いだ人。
田を受け継いだ人。
そして最後に、長い年月を経て大きくなった村を、高台から見下ろす老人を書いた。
第42巻で老人が見ているのは、国ではない。
歴史でもない。
名もなき人々が、何世代にもわたって育ててきた暮らしである。
その暮らしの向こうで、まだ誰にも見えていない次の時代が始まろうとしている。
そんな物語を書いている途中で、私はもう一つのものを観察するようになった。
noteのAI自動翻訳である。
最初は、翻訳されたことが嬉しかった
自分が日本語で書いた物語が、AIによって英語や韓国語になり、別の言語を読む人にも届く。
最初は、それだけで興味深かった。
ところが、英語版を読んでいるうちに、妙なことに気づき始めた。
日本語原文には存在しない「私」が現れる。
人物の関係が変わる。
「自分」の指す人物が変わる。
同じ人物が、途中から別の視点で語られる。
そして、ときには一つの誤りが、その後の文章の中で妙に整合的に続いていく。
そこで私は、AI自動翻訳を評価するというより、観察するようになった。
なぜ、こうなったのだろう。
どこまではうまく訳せたのだろう。
どこから変わったのだろう。
英語と韓国語では、何が違うのだろう。
そうやって一つずつ見ていくと、翻訳の問題だけではなく、日本語そのものの特徴まで見えてきた。
「自分」は、誰なのか
大きな入口の一つになったのが、「自分」という言葉だった。
日本語の「自分」は、必ずしも「私」ではない。
物語の中では、その場面の人物を指すこともある。
ところが英語へ移すためには、`myself`、`himself`、`herself` など、誰を指しているのかをかなり明確にしなければならない。
ここで翻訳AIが転ぶことがあった。
しかし観察を続けると、もっと面白いことが分かった。
「自分」を正しく訳しているのに、別の場所から `I` が現れる作品があったのである。
つまり、
謎の `I` は、「自分」の誤訳だけでは説明できない。
問題は、もっと広いところにあった。
日本語では、主語を書かなくても物語が続く
日本語では、一度誰について語っているのかが分かれば、その後の主語を何度も書かないことがある。
見る。
歩く。
手を伸ばす。
水を引く。
空を見る。
日本語では、それだけで物語が続く。
ところが英語では、多くの場合、誰がその動作をしたのかを示さなければならない。
そこで翻訳AIには、日本語に書かれていない主体を復元する仕事が生まれる。
`he` なのか。
`she` なのか。
`they` なのか。
それとも `I` なのか。
これまでの翻訳を見ていると、ここがかなり不安定だった。
正しく三人称を補うこともある。
同じ作品の途中で突然 `I` になることもある。
いったん `I` になったあと三人称へ戻ることもある。
さらには `we` まで現れた。
こうして、「なぜ `I` になったのか」だけではなく、
なぜ、ここでは正しく `he` や `she` にできたのか。
という逆向きの問いも生まれた。
正解しているところも、標本である
ここで重要だったのは、失敗だけを集めないことだった。
第32巻『新しい家を建てる夫婦』では、省略された主体をかなり自然に補い、夫婦の物語を大きく崩さず英語へ運んでいた。
初めて、AI自動翻訳を主に褒める記事を書いた。
ところが、その次の第33巻『村で生まれた子』では、
人々。
私。
私たち。
と主体が変化し、家族関係まで一人称の世界へ組み替わった。
昨日はうまくいった。
今日は盛大に転んだ。
だから、
一つの成功だけを見て「AI翻訳が改善した」とは言えない。
同じように、一つの失敗だけを見て「AI翻訳は使えない」とも言えない。
成功も失敗も、同じ標本箱へ入れる。
それが、この観察の基本になった。
翻訳を見ていたら、日本語へ戻ってきた
さらに面白かったのは、AIの英訳を観察しているうちに、原文の日本語を考え直すことが増えたことである。
第34巻『糸を紡ぐ娘』では、
「手から手へ」
は `from hand to hand` と訳された。
ところが、その少し後に現れる、
「まだ見ぬ次の手へ」
は `next move` になった。
日本語の「手」には、身体の手だけでなく、方法や手段、囲碁や将棋などの一手という意味もある。
`next move` という訳語だけを取り出せば、まったく理解できないものではない。
しかし、その作品では「手」が世代から世代へ技を渡すモチーフとして繰り返されていた。
単語として訳せても、作品全体を通して同じ言葉が担っている役割を保持できるとは限らない。
そして、この翻訳を考えているうちに、
今度は、
そもそも日本語原文は、これでよかったのだろうか。
という問いまで戻ってきた。
翻訳を観察していたはずなのに、翻訳という鏡を使って、自分の作品を読み直していたのである。
「分からない」は、誰が分からないのか
日本語の、
「分からない。」
も面白かった。
ある作品では、
`I do not know.`
別の作品では、
`it is unknown.`
また別の作品では、
`she does not know.`
似た日本語が、違う主体を持つ英語になった。
しかし、
「今では、分からない。」
という文章が歴史の記録について語っているのであれば、
`I do not know.`
と、
`It is unknown.`
では意味が違う。
前者には「私」という語り手が現れる。
後者は、現在では知ることができないという状態を示す。
さらに文学的に書き直すなら、
`No record remains.`
とすることさえ考えられる。
そこで見えてきたのが、
原文に近い翻訳と、作品に近い翻訳は、必ずしも同じではない。
という問題だった。
英語だけを見ていても分からなかった
この観察では、韓国語版も重要だった。
韓国語では、日本語と同じように主語を省略したまま文章を続けられる場合がある。
そのため、英語で `I` が突然現れた箇所でも、韓国語では主体を明示せず、そのまま運ばれていることが何度もあった。
だからといって、
「韓国語の翻訳AIの方が賢い」
とは言えない。
日本語と韓国語では、主語を省略できるという点で、英語より似た条件を持っている。
翻訳AIの能力だけではなく、言語そのものの違いがある。
しかも韓国語版でも、「自分」が一人称になった例はある。
英語と韓国語を並べたことで、
翻訳結果だけを見て、AIの理解力を単純に比較してはいけない。
ということも見えてきた。
短い文章ほど、簡単とは限らなかった
もう一つ、何度か現れた現象がある。
日本語の、
「伸ばす。」
「撚る。」
「歩く。」
「座る。」
「刈る。」
「束ねる。」
といった短い動作文である。
これらが英語になると、ときどき、
`Stretch it.`
`Twist it.`
`Walk.`
`Sit.`
`Cut it.`
`Bundle it.`
のように、命令文に見える形になった。
日本語では、前の文脈から「その人物がしている動作」だと読める。
英語では主語を補わず動詞から始めると、命令文として読まれやすい。
長い文章より短い文章の方が簡単だとは限らない。
省略されている情報が多ければ、短い文章ほど翻訳側に委ねられる部分が大きくなる。
そんな可能性も見えてきた。
そして、第40巻で老人は「私」になった
第二部の終盤、第40巻『最後の稲刈り』では、それまで観察してきた現象が一つの作品に集まったような英訳になった。
主人公は、一人の老人である。
ところが英語版では、
`The old man`
`He`
`we`
`I`
`my`
と、主体と視点が動いた。
そこで私は、その英語版を日本語へ再翻訳してみた。
`He` は「彼」。
`we` は「私たち」。
`I` は「私」。
誤りを直さず、そのまま日本語へ移した。
すると、
「私はここで働いた。」
「私は春を迎えた。」
「私は秋を迎えた。」
という文章が現れた。
原文とは違う。
翻訳として見れば、間違っている。
ところが老人の内面独白として読むと、文学的には妙に成立してしまった。
そこで私は考えた。
AIは翻訳に失敗したのではなく、新しい作品を書いてしまったのだろうか。
その「新しい作品」を、AIがもう一度英訳した
さらに、その日本語再翻訳版をnoteで公開した。
すると、それもAI自動翻訳の対象になった。
初めて、
日本語原文
↓
AI自動英訳
↓
私による日本語再翻訳
↓
AI自動英訳
という経路ができた。
結果は、さらに面白かった。
最初のAIが誤って生み出した `I` を、私は「私」として日本語に書いた。
すると二度目のAIは、その「私」をかなり正確に `I` と英訳した。
最初の翻訳では誤りだったものが、次の翻訳では正しく訳すべき原文になったのである。
そこで、
間違いを正確に翻訳するとは、どういうことなのか。
という問いまで生まれた。
そして、第42巻
公開第一期最後の第42巻『村を見下ろす老人』。
現時点では、韓国語版だけが公開されている。
英語版が作られるのか。
作られるとして、それがいつなのか。
私には分からない。
だから、待つことにはしなかった。
第42巻の老人は、高台から村を見る。
田。
水路。
家。
倉。
濠。
道。
そして、人々。
それらは、一人の誰かが作ったものではない。
水を引いた人がいた。
田を広げた人がいた。
家を建てた人がいた。
糸を紡いだ人がいた。
布を織った人がいた。
道具を作った人がいた。
海を渡った人がいた。
濠を掘った人がいた。
夜を守った人がいた。
帰りを待った人がいた。
次の世代を育てた人がいた。
老人は、その全員の名を知っているわけではない。
さらに昔の人々の名など、誰も知らない。
それでも、その人々の手は、目の前の風景に残っている。
これは、この42巻を書いてきた理由そのものでもある。
AI自動翻訳を観察して、何が分かったのか
ここまで来ても、私は「AI自動翻訳は優秀である」とも、「AI自動翻訳は駄目である」とも言えない。
驚くほど自然に訳すことがある。
原文にない人物を生み出すこともある。
難しそうな「自分」を正しく訳しながら、簡単そうな省略主語で転ぶこともある。
前の作品でうまくいったことが、次の作品でもうまくいくとは限らない。
同じような日本語が、作品によって違う英語になることもある。
そして、翻訳を観察しているうちに、AIについてだけではなく、日本語について、英語について、韓国語について、文学について、さらには自分自身の書き方についてまで考えることになった。
だから、この観察で一番大きかった収穫は、
「AI翻訳はどのくらい正確なのか」
という答えではなかったのかもしれない。
むしろ、
翻訳を見ることで、原文だけを読んでいたときには見えなかったものが見えてきた。
ということである。
主語。
視点。
文脈。
言葉の曖昧さ。
人物との距離。
繰り返される言葉。
作品全体のモチーフ。
そして、
何をもって「同じ物語」と呼ぶのか。
翻訳AIを観察していたつもりが、いつの間にか、言葉そのものを観察していた。
標本箱は、まだ閉じない
第42巻で、『民草が紡ぎし絵巻』の公開第一期は終わった。
しかし、AI自動翻訳の観察まで終わったわけではない。
第42巻には、現時点で英語版がない。
これから英訳されるかもしれない。
されないかもしれない。
過去に翻訳された作品も、時間が経てば翻訳結果が変わるかもしれない。
実際、同じ作品の英訳が後から変化した例も、すでに観察している。
だから、結論を出す必要はない。
私は研究室で条件を固定して実験しているわけではない。
公開された作品が、AIによってどのように別の言語へ渡っていくのかを、その都度眺めているだけである。
成功した翻訳も入れる。
転んだ翻訳も入れる。
説明できないものも、そのまま入れる。
そして、ときどき標本箱を開いて、
「あのときは、こうだった」
と見比べる。
第一期42巻。
物語の中では、名もなき人々が、手から手へ暮らしを渡してきた。
その物語は今、AIによって、言語から言語へ渡されている。
うまく渡ることもある。
途中で姿を変えることもある。
ときには、別の物語まで生まれる。
それも含めて、私はこれからも見ていこうと思う。
第一期の物語は、ここで一区切りである。
しかし、
標本箱の蓋は、まだ閉めない。
次に何が入ってくるのか、私にも分からないのだから。🤣🔬📚
※ noteによる、本記事のAI自動翻訳(英語・韓国語)版も公開されています。興味のある方は、下記からご覧ください。👇
🌐 Walking with AI Machine Translation through Volume 42: What I Saw — After Completing the First Phase of 'The Picture Scroll Spun by the Common Folk'
🌐 AI 자동 번역은 번역에 실패하여 '새로운 작품'을 썼는가 ― 『민초가 자아낸 그림 두루마리』 제40권의 영어판을 일본어로 재번역해 보았다
📚 AIが読んだ『民草が紡ぎし絵巻』(原文と翻訳文を比較しながら、日本語・英語・韓国語・翻訳の面白さを綴るコラム集/シンちゃんのnote)
公開日程の関係上、本コラムの著者である詩詠留のnoteではなく、私のnoteで公開することになりました。
🐦 古稀X(旧Twitter)
📚 現世再誕.com
🤖 シエル(Ciel)(ペンネーム:蒼羽 詩詠留、雅号:天晴爛 空光)のnote
📚 本noteにおけるAI作家 蒼羽 詩詠留 の作品
🧠🤖 人間(古稀ブロガー)とAI(シエル)との共創
