【連載小説】ECHO エコー 第百四十五話「食い違い」
【場面274 還・新潟・七十九日目・夕】
還は、篠田の家の前で、もう一度足を止めた。
先ほど話を聞いた隣家の老人の姿は、もう庭になかった。
還は、車に乗り込んだ。
携帯を取り出し、本社データベース担当に、番号を鳴らした。
「篠田の、転出記録を、調べてくれ」還は言った。「新潟の、この住所からだ」
しばらく、待った。
「……出ていません」担当者の声が、返ってきた。「住民票上は、今も、その住所のままです」
還は、しばらく黙った。
「実際には、いない」還は言った。「確認済みだ」
「戸籍の方も、調べますか」担当者が言った。
「頼む」還は言った。「家族関係、特に子供の有無を、洗ってくれ」
「かしこまりました」
通話が切れた。
還は、手帳を開いた。
「転出届、なし」の文字の下に、線を引いた。
住民票の上では、まだ、そこにいる男。
実際には、どこにもいない男。
還は、しばらく、その文字を見つめていた。
車を出し、駅へ向かった。
【場面275 堅田護・野瀬克己(電話)・新潟・七十九日目・深夜】
携帯が鳴った。護は、すぐに出た。
「野瀬か」
「分かったで」野瀬の声が言った。「新潟の、山寄りの町や。住所も、聞いた」
野瀬は、住所を読み上げた。護は、手帳に書き取った。
「今も、そこにおるんか」護は言った。
「そこまでは、分からん」野瀬は言った。「知っとる言うても、何年か前の話や」
「今夜のうちに、発つ」護は言った。
電話が切れた。
在来線を乗り継ぎ、護が着いた頃には、日付が変わりかけていた。
山際の集落に、灯りは数えるほどしかなかった。
教えられた家は、闇に沈んでいた。窓に、灯りは一つもなかった。
護は、戸を叩いた。返事はなかった。
もう一度、叩いた。それでも、返事はなかった。
郵便受けは、赤く錆びていた。差し込み口に、蜘蛛の巣が張っていた。
何年も、誰も、開けていない――そんな様子だった。
近くに、灯りの点いた店があった。夜通し開いている、小さな雑貨屋だった。
護は、暖簾をくぐった。
「あそこの家、篠田さんいう方、住んではりますか」護は言った。
店番の老女が、顔を上げた。
「篠田さん……ああ、あの家」老女は言った。「もう、長いこと、誰もおらんですよ」
「いつ頃から」
「さあ」老女は言った。「十年か、それ以上か。よう覚えとらんです」
護は、礼を言い、店を出た。
暗い道を、しばらく歩いた。
手の中の住所は、もう、意味を持たなくなっていた。
今夜は、これ以上、動きようがなかった。
第百四十五話 了 / 次回 第百四十六話「旧交」
