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沼るという言葉に、沼った


沼るという言葉に、これほど沼るなんて思わなかった。


職場からの帰り道。
駅までの15分。
こっそり待ち合わせて、裏通りを一緒に帰る。

たいてい、私が後からだった。


階段を駆け下りる。のんびり笑ってる彼の顔を早く見たい。…今日は何、話そうか?
気持ちが先に行くから転びそうになる。走ったら汗かいちゃうよ。途中で気になり、早歩きに戻す。


待ち合わせ場所の手前で、ゆっくり歩き、してきたふりをする。
私の顔を見ると、彼は、はにかんだように笑った。


あの頃。

雑貨屋。居酒屋。洋服屋。
所狭しと並んだ店を横目に、次から次に話が尽きない。あんな楽しみな15分って、なかった。


気がかりな仕事の悩み。
お店で飲んだお酒の話。
進路の話より、子どもとバイクの話で盛り上がったこと。
どうでもいい靴下が破れた話。

何でも話した。
どんな話にも、耳を澄ました。

駅が近づくと、段々歩幅が狭くなって、ゆっくりになった。

意味もなく、彼の横顔をちらちら見る。

その代わり映えしない道が、ただ一緒にいるだけで、秘密の香りのする散歩道になった。
明日も、彼と一緒に帰る。



職場に行く。
ささやかだけど、最大の理由だった。


時々、コンビニでデートする。

彼が車で出勤してきた時、コンビニの影に車を止めて、中で長いこと話し込んだ。

「コーヒーじゃなくて、今日はアイスなんだ?」彼はくすりと笑う。

「今からコーヒーなんか飲むと、寝られなくなるよ。明日早いし」

溶けそうなガリガリ君を、車内にこぼさないよう、
ガリガリほおばる私に、

「うわ、見てるだけで歯が痛くなる」
顔をしかめて、コーヒーをすする。
「俺、歯が悪いから」

そんなことが、どんな些細なことでも、笑いにしかならなかった。どこを切り取っても、そこはキラキラに溢れてた。


「愛してる」を多用する人だった。

愛してる。かわいい。魔性の笑顔。たくさんの言葉に埋もれた。

たぶん他には、何もないから。

手元に残る物もあげることすら、できないから。
あげた後、迷惑だけは、かけたくなかった。

この関係に、名前すらつけられない。

だから、ささやかでも、言葉がうれしかった。そんなことが全部、私にとって奇跡だった。
花束みたい。毎日が色に溢れてた。

「ずっときれいでいてね」

ある時、彼はささやいてきた。すっと泳がした視線のやり場に困り、コーヒーの紙カップで顔を隠した。さみしさを感じるたび、手を伸ばせばじんわりとした体温が、私を温めてくれた。


同じ言葉がある時、呪いになるなんて知らなかった。

彼と会いに、まんが喫茶に行くためにおしゃれする。

といっても、目ざとい家族にすぐ気づかれる。だから家を出る時間も、服装も靴も、いつもの出勤と変わらない。かわいいワンピースもスカートも、登場することはない。せめてヘアクリームと、リップにグロスを足してみる。

駅のトイレで、彼にもらったピアスにつけ変える。少し、手が震える。

その瞬間、演じるスイッチが入る。
家族とは違う世界へ。…選ばれるはずの自分。
いつもの自分を、そっと脱ぎ捨てる。


気持ちを伝え合って、彼が職場を異動して。
出会ってから2年が経っていた。

ちょうど、映画館では『天気の子』が公開されてた。

どうしても忘れられないできごと。

彼と一緒に外回りだった時。トイレ休憩で立ち寄ったショッピングモール。トイレから出てきたそのとき、テレビの大画面の『君の名は。』に、私は、思わず釘付けになった。

この映画は、好き過ぎた。 笑


見始めたら止まらなくなるから、町中で見たりしちゃダメなんだ。どう見ても、私と彼の物語だと思ってしまうから。

車に戻ると、彼が私を見て、笑う。

「さっきさ。テレビで『君の名は。』見てたでしょ。こっそり見ちゃった。だって、口開いてんだもん」

ニヤニヤした。目元が、どこまでも優しかった。

「かわいかったなぁ」とつぶやいた。


そんな忘れられない瞬間があったから。
だから新海誠 監督の次作、『天気の子』は何とかして一緒に見に行きたかった。彼と共有、したかった。たぶん、私の言葉にできない想いを。

「一緒に観に行こうよ」思い切って誘ったとき。

いいね。
そう言ってくれるかな。
それとも、さすがに少し渋るかな。

答えを、待つ間、始まる妄想。

でもさ。
同じ会場で観るだけでも、いいんだ。一緒に、観られれば別に隣同士じゃなくてもいいんだ。同じ時間なら、それで。映画館の端と端とか。マスクとか使ってもいいじゃんね。

私の頭の中では、延々おしゃべりが続く中、沈黙の時間が流れた。


彼の言葉は、さらりと避けた。

「ごめん。ああゆう場所、いろんな人いるから」

シンプルだった。
無言で見つめる私に、言葉を足していく。

あの人も、この人も、俺は映画館で密会現場、見たことあるんだ。だからさ。
うわさになったら、うちらヤバいっしょ。

並べる彼の言葉は、何一つ入ってこなかった。


こんな、ことが、続いてた。

手を伸ばしても、届かない。
届いたようで、そこに手は、あったんだろうか。

「今度、また一緒に来ようね」

気軽に交わしてたそんな約束が、宙に浮いたまま、漂ってた。

大好きだったカレー屋さんも、二人で行った思い出の神社にも、とても「今度行こうよ」なんて、言えなかった。

たぶん、同じ。
さらりと避けられる。
さらりと避けたあとの胸の痛みに、きっと今の私耐えられない気がした。

「かわいかったなぁ」
あんなふうに目を細めてた彼は、いつの間にか居なかった。

でも、きっと私もどこまでも受け身のままだったんだ。
そもそもさ。
始めから、そういう約束だったじゃん。

今は、よくそんなことを思う。


もし、私が。
彼の何らかの行動の後ろにある、彼のどうにもならない想い。彼が本当に大切に想っていた何かを、少しだけでも信じられていたら、もしかしたら、違う未来があったんだろうか。

ただ単に私は、子どもみたいに欲しがってたんだ。

もう一度だけ、駅からの道を笑ってふざけながら歩いてたあの頃に、時間を戻したかっただけだった。


「沼らせたい」

ネットに溢れた言葉が、徐々にそんな私を侵食していった。

もしかしてさ。
沼ってくれたら、一緒にカレー屋さん行ってくれる?
沼ってくれたら、あの映画、どうにか二人で観に行けるのかな。マンガ喫茶でもいいからさ。どうにか。
ひとりで調べたりした。


でも…途中でやめた。 

自分のなかの小さな子どもが、叫んでる。
私から、そんなに、離れないでよ。
そんな努力は全部、私の中で寂しさに変わってしまう。そんな努力してる私は、きっと違う。そう思った。


ギリギリのところで、踏みとどまった。
沼らせるには、私はあまりに子ども過ぎた。



駅のトイレで、彼にもらったピアスを外す。

ここで、私は家庭の顔に戻る。

「今日、どうだった?」
「別に。ふつう」

家族に、視線を合わせず、通り過ぎる。このセリフの間合いまで、何度もリハーサルした。早すぎず、遅すぎず。さらりと。目が、泣きはらして腫れてるの気づかれないか。何か言われたら、その場で立ち去ろうか。余計なことは言わない。
そんな覚悟まで、毎回自分の中で確かめてた。



そこまでして、私は、何をやっていたんだろう。




この記事は、「温度差」をテーマにした連載の3本目です。


1本目「昇格した音がした」

2本目「それでもよければ」


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