【山行記録】桜コンテンツの対極 — 秦野・南はだの村で「掘られた水」と「100年の釜」を歩く
【3行要約】
・「まーたパイプ盗まれたわ」——若竹の泉の屋根に上がってパイプを差し直すオッチャンの一言から、この一日は始まった。
・渋沢丘陵を横断し、頭高山の苔石塔、宇主山の地震の龍、震生湖の東京軽石層、白笹稲荷神社の白狐伝承を経て、水の履歴を読んで歩いた。
・桜コンテンツの対極にある実存経済の証言を記録した。
ヤマレコ:
過去記事との接続:
桜コンテンツに価値はない(やまきた桜まつり): https://note.com/gilles1974/n/n3daf8942f069
イセハライチ100周年: https://note.com/gilles1974/n/n38b22675ab73
七沢里山づくりの会: https://note.com/gilles1974/n/n863d88f2717d
終の地は、住んだ場所ではなく掘った場所にある(ニッカフロンティア): https://note.com/gilles1974/n/n62636e2e03fe
はじめに — このコースの主題
「まーたパイプ盗まれたわ」
その一言で、このコースのすべてが説明できてしまう。
今回歩いたのは、渋沢駅から秦野駅へ抜ける、渋沢丘陵横断の里山ハイクである。距離は短い。標高も高くない。だがこのコースは、水が湧く盆地の縁を歩き、信仰の痕跡をたどり、最後に地震が生んだ湖へ達する、という土地の履歴を読むコースだ。
秦野盆地は、断層活動と古い河川が運んだ砂礫、火山灰の堆積でできている。厚い砂礫層が良好な帯水層になり、これが秦野の湧水文化の土台になった。尾根に立てば丹沢が見え、富士山も視野に入る。一方で足元には湧水があり、谷戸には農地と集落が残る。
「高みの眺望」と「低みの水」の往復運動。それが、このコースの骨格である。
そして、この日歩いたのは、山ではなく「水の履歴」だった。
Ⅰ. 朝の儀式 — 水と直売所、白山神社の大杉
朝、秦野に入る。曲松セブンを探したが見当たらず、結局とうまさんの無人直売所で挨拶することになった。OK牧場。朝どれ野菜が瑞々しい。


とうま農園:
サニーレタス 100円
絹さやスナップ 150円
ねぎぼうず 100円
新玉ねぎ 200円
ニンニクの芽 100円(値札に「豚肉と一緒に炒めると美味しいです」の手書きメモ)
ニラ 100円
大根 50円
ニンニクの芽の手書きメモがいい。値段の隣に、調理法までそっと書き添えてある。これは「商品」を売っているのではなく、「食卓」を渡している。
矢倉沢往還を歩く。京から鎌倉に向かった旅人たちが、何百年も前にこの道を踏んだ。古道標が今も残る。表丹沢の山並みが立ち上がる。




寺山さんの無人直売所:
こまつ菜 50円
新タマネギ 100円
たけのこ 400円
エスコルチアのオレンジが効いている

50円のこまつ菜。原価割れに見える価格設定だが、これは経済合理性の話ではない。土地と人の時間が、そのまま値段になっている。
道沿いには、たい肥の無人直売所もあった。「たい肥 牛ふん・完熟堆肥 100円」「鶏糞 100円(15Kg入り)」「もみ殻 10リットル入り 100円」。一袋100円。代金は赤い箱に入れる。

野菜だけじゃない。土を作る素材まで、無人で売っている。これが秦野の地続きの経済。
若竹の泉 — 30年前に地域が掘った水

説明板を読むと、この泉が30年前に地域の農家による村おこしから始まっていることがわかる。「秦野=名水」という看板の前に、もうひとつの物語があった。
正面の渋沢丘陵の右手60度の方向、白山神社近くの山の中腹に、先代が掘った横穴がある。そこから若竹の泉まで800m、皆の労力奉仕でパイプを埋めて水を引いた。「たけのこ」の竹と、皆さん老人会に近い年齢だったが「気持ちは若く末永く元気で」の意味の若、を組み合わせて「若竹の泉」と命名された。
水の出口の石碑には、柏木幹夫元市長の筆跡。
つまり若竹の泉は、自噴ではない。白山神社の山の中腹の横穴から、800mの埋設パイプを経て、ここに湧き出ている。これは自然ではなく、地域が掘った痕跡である。

私は持参した白笹鼓 若水のビンに汲むため、その辺に落ちていたホースに突っ込んだ。なかなかシュール。秦野の人、これあってます?
ちなみにこの水は、昼に頭高山の休憩所で沸かして、AFURI柚子塩らーめんのスープになる。歩いた土地の水で、その日の食事を作る。

そこに堆肥の強烈な匂いを連れたオッチャンがやって来た。手にはパイプを持っている。
「まーたパイプ盗まれたわ」

言いながら、若竹の泉の屋根に上がる。慣れた手つきで、屋根の上から内部を確認していく。地元の方らしいもう一人が、石碑の側面を覗き込んで一緒に点検している。

30年で築いた水道は、今も誰かに荒らされる。それでも、こうやって毎日のように、誰かが屋根に上がってパイプを差し直している。
「路上洗車お辞め下さい」と手書きの看板がある。「公道での洗車は、気が付いただけでも 2〜5人/日拝見します。洗車は、ご自宅か?洗車場でお願いします」。運営している側は、ちゃんと現場を見ている。観光客が水を汲みに来る場所ではなく、地域の人が日々管理している現場なのだ。
足元には、頭高山から風に乗って運ばれてきたであろう、八重桜の散り花がピンクの斑点を作っている。
令和7年度の募金は、令和8年1月6日に秦野市へ寄付された。30年の運営は、まだ続いている。
白山神社 — 千村の鎮守、樹齢600年の大杉

若竹の泉の水源として参照される山の麓に、白山神社が鎮座する。千村の鎮守である。
由緒は古い。天正19年(1591年)に朱印地1石5斗を受け、本殿は江戸時代後期、拝殿は1857年に再建されたと伝わる。鳥居脇の杉は高さ46メートル、幹回り5メートル、推定樹齢600年。市指定天然記念物であり、「かながわの名木100選」に選ばれている。
石段を登る。空気が変わる。樹齢600年の大杉は、見上げると首が痛くなる。室町時代から、この杉はここに立っていた。
朝の儀式として、ここで挨拶しないと始まらない。若竹の泉の水を引いた山の神様だ。今日一日の安全と、土地への敬意を、ここで一度立ち止まって整える。
泉蔵寺 — チューリップと石造十王像


登山口の手前、泉蔵寺に立ち寄る。1481年開創、1649年に寺領13石の朱印を受けた古刹。春はチューリップの名所として知られる。
本堂には中世作とみられる石造十王像が安置されている。十王とは、人が死後に裁きを受けるとされる十人の王のこと。閻魔大王はその一人。これらの像が中世から残っているという事実だけで、この寺の時間軸が見える。
水(若竹の泉)、神(白山神社の大杉)、仏(泉蔵寺の十王像)が、登山口に至る前の数百メートルに密集している。「登山口前の文化密度」とでも呼ぶべき、秦野の南縁の濃さである。
千村の里のホタル — 水質が信仰と暮らしを束ねている
そして、泉蔵寺の近くには「千村の里のホタル」の名所がある。

ホタルは、清流でしか生きられない。湧水が安定して流れ、農薬や生活排水で水質が汚れない環境でしか、幼虫が育たない。ホタルが棲み続けているという事実が、千村の水質を保証している。
ここまでで、千村に何が集まっているか、整理がつく。
水: 若竹の泉(山の中腹から800mのパイプで引かれた地域の水)
神: 白山神社(樹齢600年の大杉、千村の鎮守)
仏: 泉蔵寺(中世の石造十王像、1481年から続く古刹)
生態: 千村の里のホタル(清流の指標生物)
これは「登山口前の文化密度」というより、「水の文化密度」と呼ぶべきものだ。
千村の山から湧いた水が、暮らし(若竹の泉・無人直売所)を成り立たせ、信仰(白山神社・泉蔵寺)を支え、ホタルが棲む生態系を維持している。水質という単一の条件が、これらすべてを束ねている。

水が劣化すれば、ホタルから消える。次に農作物の質が落ちる。最後に信仰の場の意味が薄れる。逆に言えば、ホタルがまだ飛ぶうちは、千村のこの構造はまだ生きている。

Ⅱ. 千村わかされの民話空間 — 頭高山から八国見山へ
頭高山(ずっこうやま) 303.4m — 花の山と生業の山
千村は、かつて宿場だった。京から大山参りに向かう旅人で賑わった土地。「ちむらわかされ」と呼ばれる辻があった。
道に散った八重桜の花。風と時間が、登山道をピンクに染めている。

かりがねの松の民話

説明板によると、寒い西風が吹くある日、京から大山に向かっていた美しい姫様が、この辻で西風に吹き上げられて気を失って倒れていた。村人が抱き起こして話を聞こうとしたが、姫様は「わたくしは都の者でございます。故あって……」と言ったまま、抱かれたまま小さくなっていってしまった。
村人たちは悲しんで、姫様の墓に一本の松を植えた。「かりがね」と名付けた。松は雁の羽を広げたように大きく育ったという。
ただ「昔、大きな松があった」「そこに苔むした石塔があった」とだけ伝わる。

頭高山の山頂近くに、小さな社がある。雁音神社。姫様を祀ったとされる場所。
民話は伝承で、伝承は人の口を経て薄れていく。だが石は残る。令和の今、苔の生えた石に手を触れて、500年前か800年前か、いつかの誰かの悲しみがここにあったことを確認する。
AIは民話を要約できる。だが、苔の冷たさは手にしか届かない。
「畠山」と呼ばれた山 — 八重桜と生業の歴史
頭高山は、近世末までは山頂の祠にちなみ秋葉山と呼ばれていた。のちに頭高山の名が定着した。


そして、ここは花の山であり、生業の山でもある。
頭高山周辺の八重桜は約2,500本。全国シェア7〜8割を占める食用八重桜の産地である。江戸末期、地域の祭礼費用を賄うために、八重桜の栽培が広がった。山腹はかつて「畠山」と呼ばれ、段々畑で葉たばこ・菜種・麦が育てられていた。
つまり頭高山は、観光地ではなく、経済の山だった。祭りを続けるための花を植え、暮らしを支える畑を切り開いた。今もその痕跡が地形に残る。
私が歩いた道に散っていた八重桜の花びら——あれは、江戸末期から続く2,500本のうちの一部である。4月末、八重桜が散り終わる、その最後の名残を踏んでいた。

カナヘビの一言
休憩所のあずまやで、AFURI柚子塩らーめんを開ける。Snow Peakのチタン220、朝に若竹の泉から汲んだ水、新緑、大山丹沢山塊。GWなのに人がいない。表丹沢の主稜線は今ごろカオスだろうな、と思いながら、こちらは静かに昼を取る。
スープは、3時間前に渋沢の山から引かれた水でできている。30年前に地域が掘ったあの水だ。

カナヘビが目の前に出てきて言った。

「背骨が折れてよかったんじゃないの? 槍ヶ岳に登るヤツはいくらでもいるけど、こういうのはお前にしかできない」
いろいろあったが、結局は自分次第だと思う。
野鳥36種と生態系

頭高山の野鳥案内板によれば、ここでは年間36種の鳥が観察される。春から夏のオオルリ、ホトトギス、キビタキ、サンショウクイ、マヒワ、ウソ、クロツグミ、アオバト、アマツバメ。秋冬のジョウビタキ、トラツグミ、エゾビタキ、コサメビタキ、アオジ、イカル、シメ、モズ、ビンズイ。年中いるメジロ、エナガ、コゲラ、アオゲラ、ヤマガラ、カワラヒワ、ガビチョウ、ホオジロ。ワシタカでオオタカ、ノスリ、トビ。
低い山ほど、生態は濃い。




サワガニの里入口
八国見山(やくにみやま) 319m — 名が眺望を保存している山

頭高山から渋沢丘陵へ少し歩いた先。標識に「八国見山」と書かれている。八国とは、駿河・甲斐・武蔵・上総・伊豆・相模・安房・下総。かつて、この山頂から八つの国が見渡せた。

現在は樹林の成長で、山頂展望は限定的である。だが樹間から富士山が見える。遠く相模湾、伊豆大島まで見える。

つまりこの山は、「見晴らしが良い山」というより「名が昔の眺望を保存している山」だ。山名そのものが、土地の記憶を現代に運んでいる。


山頂には三角点がある。標石の上面に、三角点の十字の刻印。八州を見渡したと言われる地点の、現代の測量基準。

地元の人が手描きの標識を、何種類も作っている。富士山の絵入りの「のんびりひと休み 15分」の看板。黄色地のカラフルな手描き。木に直接彫った看板。それぞれ作者が違う。誰かに頼まれたわけでもなく、ただ「ここに来る人に分かりやすくしてあげたい」という気持ちで、それぞれが作っている。
これも「桜コンテンツ」の対極にある。再現可能な観光資源ではなく、誰かが手で作った、その人にしかない仕事。


宇主山(うしゅやま、薄山)の幡龍王様 — 地震を起こす龍


平成13年(2001年)11月11日、天忍部長老 豊秋津彦氏が建立した小さな祠。説明板にこうある。
地中深くに潜む龍王様は、秦野一帯の地震守護神である。お怒りになると地震を起こし、泰山を鳴動させる。
これは民話以上のものだ。秦野の人は、地震を「龍が怒っているのだ」と理解してきた。そしてその龍が怒って起こした地震が、震生湖を生んだ。
Ⅲ. 栃窪神社 — 街道の鎮守、里に降りる門
八国見山と宇主山を抜けて稜線から下りると、栃窪に入る。


栃窪神社は、もとは御嶽社だった。街道の要地にあったため、村の鎮守として崇敬され、明治に栃窪神社へ改称した。
毎年7月初旬には天王山祭りが行われる。直径2.5メートルの茅の輪をくぐって、地区の安全祈願を続けている。境内の拝殿には、千社札が無数に貼られている。古い納札もあれば、新しいものもある。地域の人が長年通ってきた痕跡そのものだ。
朝の白山神社が「山に入る前の鎮守」だったとすれば、ここ栃窪神社は「山から里に降りる時の鎮守」である。山岳信仰の空間(雁音神社・幡龍王)から、人里の生活圏へ戻る精神的なゲート。


近くの栃窪スポーツ広場は、丹沢一望のビューポイント。古い信仰の場のすぐそばに、現代の憩いの場が並んでいる。

Ⅳ. 渋沢丘陵から震生湖へ — 地震が生んだ風景
渋沢丘陵から相模湾
緩やかな尾根道。表丹沢の主稜線が左手に並走する。
眼下に秦野の町が広がる。遠く相模湾、伊豆大島のシルエット。

視野が一気に開ける場所。八国見山では「八州が見える」と言葉で確認したが、ここでは身体が確認する。

丹沢自然薯(じねんじょ)の看板


「秦野特産 山芋の王様 丹沢自然薯 出荷期間11月〜2月」
今は季節外。「ふる里の味はいかがですか、御贈答にもどうぞ」と書かれている。電話番号 0463-84-5660 丹沢自然薯会。
冬に再訪する理由ができた。
震生湖 — 地震がつくった地形そのものが景観化している



説明板を読む。
震生湖は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の時、渋沢丘陵の一部が崩落し、その土砂が谷川をせき止めてできた自然湖です。 海抜150m、面積13,000m²、最大幅85m、長径325m、周囲1,000m、平均水深4m、最大水深10m。
100年前の9月1日、渋沢丘陵は崩れた。宇主山の龍王が怒ったのか、フィリピン海プレートの活動だったのか、説明は二つある。どちらも事実の表現として、間違っていない。
東京軽石層 — 崩落の科学的記憶
震生湖の成立には、地質的な必然があった。
地下約17メートルには東京軽石層がある。火砕流堆積物。これがすべり面となって、その上の火山灰土と火砕流堆積物が、地震のときに一気に動いた。厚い火山灰層が崩壊のきっかけになる「弱線」となったのだ。
現地には、露頭や崩壊崖が今もよく残っている。湖畔を歩くと、白い軽石片が混じった崖を見ることができる。100年経っても、地震の証拠が生々しく残っている場所は珍しい。
文化遺産データベースは、地震にともなう「湖面」「崩落地」「堰止地」を一体で確認できる希少性を評価し、震生湖を2021年に登録記念物としている。
寺田寅彦の現地調査と俳句
1930年、寺田寅彦が震生湖を訪れた。物理学者であり、随筆家であり、関東大震災後の地震研究で知られる人物。
彼はここで、こう詠んだ。
山裂けて 成しける池や 水すまし
句碑は1955年に建てられた。
「山裂けて」というのが、寺田寅彦らしい。地震学者として、山が物理的に裂けたことを知っている。その裂け目に水が溜まり、水すまし(アメンボ)が静かに浮いている。災害と日常が、十七音の中で同居している。
二人の少女の供養塔
湖畔のもう一隅には、震災時に行方不明となった二人の少女を悼む供養塔がある。
明るい湖畔景観の背後に、人的被害の記憶が確かに残っている。震生湖を「美しい」「きれい」だけで書いてはいけない。あの時、二人の子どもが、ここに来なかった。だからこの湖は、彼女たちの墓所でもある。
釣り人と100年の時間軸

湖畔に釣り人がいた。100年前に生まれた湖で、今、釣り糸を垂れている。
震生湖は、誕生直後から災害遺構であると同時に地域資源でもあった。地元有志は1924年ごろに「震生湖」と命名して供楽会を結成し、魚を放して釣魚会を催した。災害がもたらしたものを、人は速やかに生活に取り込む。
時間軸が深い場所だ。
Ⅴ. 福と鶴亀の通過、そして水源信仰の本宮へ
福寿弁財天

朱塗りの社殿に、奉納の紅幟が並ぶ。「福寿弁財天 奉納 小笠原聡司・郷子」「宮本なる」「喜多里昌代」「高野内美妃子」「木場清一」「宇都宮紀子」。


砂岩で彫られた蛇身の弁財天像。蛇のお守りの絵馬。弁財天は本来、水の神であり、芸能の神であり、財福の神。ここでは蛇神として祀られている。
峯坂(みねさか)の道標

平成期に建てられた石柱。地名としての坂道。

太岳院 — 曹洞宗 亀王山

山号に「亀」が入る寺。福禄寿と亀のセット。「南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」の幟が境内にも立つ。
この周遊ルートは、地元の「南はだの村七福神と鶴亀めぐりの会」が運営している。誰の指示でもなく、地元発信で組み立てられた信仰経路。
白笹稲荷神社 — 水源の神聖化、関東三大稲荷


朱の大鳥居をくぐる。一の鳥居、二の鳥居。社殿の彫刻は精緻で、夜叉のような獅子鼻と龍が屋根を守っている。



「白笹」と書かれた酒樽が三段に積まれている。芳香酷烈。金井醸造。

「関東三大稲荷」の本質は、稲荷信仰の前にある
白笹稲荷神社は、関東三大稲荷の一つに数えられる。だが、その名声だけでこの神社を捉えると、本質を見落とす。
社の由緒書によれば、創立年代は不詳。水田耕作に不可欠な水源への信仰から、稲魂・穀霊を祀る小祠が前身になった。江戸前期には「白篠」の字を用いていた。1774年、由来を明らかにするために新たに稲荷を祀って再建された。
つまりこの神社は、稲荷信仰である前に、まず「水源の神聖化」と「農耕共同体の祈り」の場所だった。
朝の若竹の泉から始まって、白山神社の山の水を確認し、栃窪神社で里に降り、震生湖で地震が生んだ水を見て、最後に白笹稲荷神社で水源信仰の本宮に至る。この一日は、最初から「水の物語」だった。
水は、生活から始まり、信仰へ、そして地形そのものへと変わっていく。
拝殿天井の龍神図、ヒカリモの池、一貫田湧水
拝殿の天井には、龍神図と宝尽くし図が描かれている。龍は水の神。宝尽くしは農耕共同体の願い。
境内の周辺にはヒカリモの池がある。光る藻のことで、希少な水生生物。そして、近くの一貫田湧水は、白笹稲荷の信仰圏に連なる秦野盆地湧水群の一つ。湧水と稲荷信仰は、空間的にも地続きだ。
白笹の泉 — 白狐が運んだ霊水

白笹うどん多奈加の店先には、「白笹の泉」の縁起が書かれた看板がある。
初午祭の前夜、白笹稲荷神社の使者である白狐が金色に輝く稲穂を口にくわえて夢枕に現れ、「この地に筒を差し込めば、こんこんと湧く霊水出る」とお告げをした。筒を差したら、本当に水が湧き出た。
つまり白笹稲荷神社の御神水と、白笹うどんの仕込み水は、同じ水脈。神社で頂いて、店で味わう。これは観光地の演出ではなく、地理と信仰と商売が同じ水で繋がっている事実。
白笹うどん多奈加 — 大正生まれ100歳の釜
店先に「釜乃守茹之助 大正生まれ 100歳」と書かれた、本物の釜が祀られている。100年使われ続けた釜。
朝の若竹の泉(白笹鼓のビンに水を汲む) → 白山神社(山の神に挨拶) → 頭高山(汲んだ水でAFURI昼食) → 八国見山(消えた眺望の名残) → 宇主山(地震の龍) → 栃窪神社(里に降りる) → 震生湖(地震が生んだ水) → 白笹稲荷神社(水源信仰の本宮) → 白笹うどん多奈加(その水で打つうどん)
「白笹で開いて、白笹で閉める」——この構造は、後付けではない。土地の物語そのものに、最初から組み込まれていた。
秦野南小の無人直売所 — ときがわベースで気持ちの経済をやっていた頃

帰り道、小学校の脇の小さな棚。緑のプラケースが積まれている。
「ポン菓子 100えん」手書きの段ボール。白米、黒糖玄米、カレーの3種。ブリキのコインボックスがそのまま置かれている。誰も見ていない。
この風景に、ときがわベース時代を思い出した。
あの頃、店先に子ども向けのお菓子を置いていた。価格は設定しなかった。気持ちを置いていってもらう、それだけの運用。
秦野南小のポン菓子は100円という最低限の価格がついている。ときがわでは価格すらなかった。
どちらも、顔が見える前提で成立する経済。評価経済の射程の外で、土地に張り付いた信頼の履歴が動いている。
ヒルちゃんに3ヶ所やられた

「ヒル下がりのジョニー」もなんのその。沢やジメジメしたところでは目視できるくらい。年々早くなっている。
やられたくなければ、山に行かない。やられる前提なら、血だらけになっても目立たない黒系の着用を勧める。これは現場で得た知識で、AIには教えられない。
Ⅵ. 帰還 — Bar Uribō で一日を閉じる
本日もおつかレーベンブロイ de 呑むぽよビーーール

Benvenuti al Bar Uribō!
県央テロワール・マーレ&ヴェルデ — タコとニンニクの芽のガリバタ炒め, カプレーゼ添え —
秦野ニンニクの芽(とうま農園)
飯山オバチャン畑ズッキーニ
七沢オッチャン山タケノコ
うりぼー農園産バジル

余韻はニッカ フロンティア。

一皿の上に、県央4箇所のテロワールが集合している。秦野・飯山・七沢・うりぼー農園。これは「県央テロワール」というレトリックではなく、4人の生産者の顔が見える集合体。
Bar Uribōは、歩き回った県央地域の点を、ひとつの皿に統合する場所だ。
そして締めのニッカ フロンティア。先日の記事「終の地は、住んだ場所ではなく掘った場所にある」で書いた、あの一本。箱には「あなたの地図に、まだない場所へ」と書かれている。
秦野の南はだの村は、自分の地図にはすでにあった。だが、若竹の泉の30年の物語、白山神社の樹齢600年の杉、頭高山に2,500本の八重桜が植えられた江戸末期の経済史、宇主山の地震の龍、震生湖の東京軽石層と寺田寅彦の俳句、二人の少女の供養塔、白篠と書かれた稲荷の起源、そしてポン菓子100円の小学校 — これらは、まだ知らなかった土地の履歴だった。
テーブルの下には、その日もらってきた「はだのガイド」(秦野市観光ガイドブック)が敷かれていた。ガイドブックは、観光地の表面しか書かない。だが今日歩いた一日は、ガイドブックの索引には入っていない。「まーたパイプ盗まれたわ」のオッチャンも、苔むした十字石塔も、どのガイドにも出てこない。
地図にあったのに、知らなかった場所。歩いて初めて、地図に書き込まれる場所。
「あなたの地図に、まだない場所へ」というコピーは、根無し草の私に刺さるだけではない。一日かけて土地を歩いた人にも、刺さる。
Ⅶ. 桜コンテンツの対極にあるもの — 実存経済の証言
先日「桜コンテンツに価値はない」という記事を書いた。コモディティ化した観光資源としての桜は、評価経済が消費するための背景でしかない、という話。続く「寄しだれ桜まつり」では、祭りの「外側」——中津川に降りて、桜のない渓谷から桜並木に出会い直すリバートレッキングを書いた。
今日歩いた南はだの村は、その対極にある場所だ。
30年前に先代が山に横穴を掘り、地域の人が800mのパイプを埋設して引いた水
「パイプまた盗まれたわ」とボヤきながら、それでも泉を守り続けるオッチャン
50円のこまつ菜と100円のサニーレタスを並べる無人直売所
「豚肉と一緒に炒めると美味しいです」の手書きメモ
樹齢600年の杉の下で続いてきた、千村の鎮守の祈り
1481年から続く泉蔵寺と、中世の石造十王像
千村の里に今もホタルが棲み続けている、その水質
江戸末期、祭礼費用を賄うために2,500本植えられた八重桜
何百年も語り継がれてきた、千村わかされの姫様の民話
苔むした石塔が、令和の今も残っている事実
富士山の絵を描いた、誰かの手作り標識
関東一帯で語り継がれる、地震を起こす龍の伝承
1923年9月1日に山が裂けて生まれた湖と、行方不明になった二人の少女の供養塔
1930年に寺田寅彦が詠んだ「山裂けて 成しける池や 水すまし」
関東三大稲荷の白狐が運んだ霊水で打つ、うどん
100年使われた釜が、今もうどんを茹でている
性善説で成立する、コインボックスのポン菓子100円
これらはすべて、再現可能なテンプレではない。
AIに「秦野の良さを書いて」と振っても、「パイプ盗まれた」のオッチャンの一言は出てこない。手書きメモのインクの掠れも、苔の冷たさも、寺田寅彦が地震学者として山に何を見ていたかも、出てこない。
評価経済では拾えない。承認では数えられない。
だが、これらが実存経済だ。誰かが現場で時間を引き受け、土を掘り、水を引き、祠を立て、姫様を祀り、八重桜を植え、龍を畏れ、釜を100年守り、コインボックスを置いた、その積層。
桜は来年も咲く。だが、若竹の泉のオッチャンは、いつかいなくなる。100年の釜も、いつかは割れる。
それでも私は、評価ではなく、引き受けられた履歴の方を信じる。
桜のように散る承認ではなく、若竹の泉のように湧き続ける実存。秦野の名水は、評価経済の射程の外で、今日も湧き続けている。
本日の報酬

秦野名水
若竹の泉
とうまさんの無人直売所
サニーレタス
長ネギ
ニンニクの芽
寺山さんの無人直売所
玉ねぎ
こまつ菜
秦野南小の無人直売所
ポン菓子(白米, 黒糖玄米, カレー)
※無人直売所マップ、オススメです。
10年ほど前、埼玉のときがわベースでやった事を思い出しました。

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