HSPという「枠」を外して、本当の優しさを考え直してみた。
昔から、「感受性が豊かだね」とか「敏感だね」と言われてきました。
いわゆる、「HSP」というやつです。
「共感しすぎ」「あなたは繊細だから」
と言われるたび、それが自分の短所のような気がして苦しかった時期もありました。
だから、数年前に「HSP」という言葉を知ったときは、
長年の生きづらさに名前がついたようで、とても救われた気持ちになったのを覚えています。
でも、40年近く生きてきて最近思うのは、
「私は本当に、人に言われるほど繊細で、人の気持ちがわかる人間だったんだろうか?」
という疑問です。
「わかっているつもり」の傲慢さ
これまで、
大きな喪失を経験した人や、体に不自由さを感じている人に対して、「自分は寄り添えている」「共感できている」と思っていました。
相手の痛みが、自分の中にも流れ込んでくるような気がしていたからです。
けれど、
自分が実際に同じような状況に立たされたとき、
「あ、全然わかってなかったわ」
と思うことが増えてきました。
自分がその痛みを「自分の身体」で引き受けたとき、かつての無知を知り、情けなさと落胆が押し寄せてきました。
寄り添っていたつもりだった自分が、いかに浅く、想像力に頼った自己満足だったか。
ということに気付いてしまったから。
絶望という名の「優しさ」
結局のところ、
人は自分の身体を通してしか、世界を感じることはできません。
どれほど繊細なアンテナを持っていても、相手の心そのものになることはできないんですよね。
これは一見、突き放したような言葉に聞こえるかもしれません。
でも最近は、この「絶望」こそが「優しさ」のスタートラインなんじゃないか、と思うようになりました。
「本当の意味では、私はあなたの痛みを100%知ることはできない」
それは相手から私に対しても同じである、という現実。
そう潔く認めたところから、
ようやく「じゃあ、今の自分に何ができるだろう?」という誠実な問いが始まる気がするのです。
分かってもらえないからこそ、自分を知る
だからこそ、私はジャーナリングを続けています。
ノートに自分のドロドロした本音や、どうしようもない後悔を書き出す作業は、自分自身の「身体感覚」や「感情」を確かめる時間です。

自分が何に痛み、何に心が震えるのか。
分かってもらえない(あげられない)悲しみに暮れるのではなく、
まずは自分自身の「唯一無二の感覚」を徹底的に理解してあげる。
そうやって自分と深くつながることで、
結果的に、他人に対しても
「全ては分からないけれど、大切にしたい」という、一段深い敬意を持って向き合えるようになるのだと感じています。
ずっと抱えていく「誠実な後悔」
きっと私はこれからも、年齢を重ねるたびに
「あのとき、もっと寄り添えたんじゃないか」
という後悔を抱き続ける気がします。
人はそれを「優しさ」と呼んでくれるかもしれません。
けれど私は、この割り切れない後悔と、これからも静かに折り合いをつけながら生きていくのだと思います。
取扱いがちょっと厄介、でも愛おしい「自分」という体を通して。
あー、歳を重ねるって、こういうことなのかな。(遠い目)
▼私がHSPを知るきっかけになった本
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