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外側に従って生きてきた私が、自分の中心に戻り始めた日

わたしはずっと、外側を見て生きてきた。

相手はどう思うだろう。

怒らせないだろうか。

嫌われないだろうか。

これをしたら、どうなるだろう。

そんなふうに、

周りの様子を見ながら、自分の行動を決めてきた。

それが私にとっては、いつの間にか「普通」になっていた。

これまで私は、自分の気持ちや身体の感覚を、少しずつ見てきた。

怖かったこと。

悲しかったこと。

どうして私は、こんなふうに生きてきたんだろう。

私は、自分の人生を生きているようで、

ずっと外側に従っていたのかもしれない。


「怖い」の奥にあったもの

離婚をして、これからの暮らしを考える中で、

元夫とのLINEを整理したり、住所を移したりすることを考えていた。

頭では、必要なことだと分かっている。

でも、なぜか怖かった。

LINEを抜けると、元夫と息子たちの三人が結束して、

私だけ外に置かれるような気がする。

この怖さには、子どもの頃の

「みんながあちら側にいて、私だけが置いていかれた」

という感覚が重なっていた。 

それと、住所を移すことを考えると、見つかるのが怖い。

「また探し出されたらどうしよう」

そんな感覚が身体に出てきた。

私は最初、それを今の出来事への不安だと思っていた。

でも、身体を感じながら少しずつ過去をたどっていくと、

違うものが見えてきた。


私のいる場所に、突然ショベルカーが入ってくる

子どもの頃、母に探し出されたことが何度もあった。

高校生の頃、夜に探しに来た母が、歩道で仁王立ちしていた。

アパートにも突然探しに来た。

そのときの私は、ショックが大きすぎて、記憶が抜けているところもある。

今になって思った。

あのとき、母には私が見えていなかったんだと思う。

私の行動も、私の気持ちも、まるごと無視されていた。

私がどうしたいのか。

何を感じているのか。

そこにいる私が、何を望んでいるのか。 

そんなことは、考えられていなかった。

そこにいる「私」という一人の人間を見ていたのではなく、

自分の目的だけを持って、私のいる場所へ入ってきた。 

まるで、

私のいる場所に、突然ショベルカーで侵入されるような感じ。

「そこに人がいる」ことを考えずに、ただ進んでくる。

そう考えたら、ずっと感じていた怖さが少し分かった。

私は、ただ「見つかるのが怖かった」だけじゃなかった。

自分の領域に、

自分の意思とは関係なく入ってこられることが怖かったんだ。


私はずっと「わからない」の中にいた

母には、言葉で説明されることがほとんどなかった。

怖がらせるような行動はある。

でも、

「なぜ?」

が分からない。

私は悪いことをしたの?

何がいけなかったの?

どうしてこんなことをされるの?

分からない。

分からないまま、怖いことだけが起きる。

子どもの私は、きっと、

「私が悪いのかもしれない」

そう考えるしかなかった。

だって、理由が分からないから。

そして、次に同じことが起きないようにするために、

私は外側を見るようになった。

相手の顔色を見る。

空気を見る。

何をしたら怒られるのか考える。

先回りする。

相手が困らないようにする。

自分が我慢すれば済むなら、我慢する。

そうすれば、少しは安全になるかもしれない。


「先回りする私」は、私を守ってくれていた

今まで私は、

「どうして私はこんなに先回りするんだろう」

「どうして人の気持ちを考えすぎるんだろう」

と思っていた。

でも、少し見方が変わった。

これは、私が弱かったからでも、

面倒な性格だったからでもない。

分からない怖さの中で、

生きるために身につけた方法だったんだ。

先回りすれば、突然の怖さを少し減らせる。

相手をよく見ていれば、何か起こる前に気づける。

自分を合わせれば、怒らせずに済む。

そうやって私は、自分を守ってきた。

だから、今までの自分を責めなくていい。

「ああ、あのときの私は、そうやって私を生かしてくれたんだ」

そう思えるようになった。

でも、今の私はもう「従うしかない子ども」ではない。


朝、身体に向かって、ゆっくり声をかけてみた。

過去のことを思い出しながら、怖かったね、と話しかけた。

すると最後に、お腹の真ん中が少し痛くなった。

その瞬間、ふっと思った。

ああ、私は外側に従っていたんだ。

ずっと、外側を見ていた。

相手がどうするか。

誰が何を言うか。

何が起きるか。

どうすれば安全か。

でも、

もう外側に揺れなくてもいいよ。

そう思った。

そして、

中心にいれば大丈夫かもしれない。

そんな感覚が、ふっと出てきた。

「中心にいる」ということ

中心にいるというのは、

何も怖くなくなることではないと思う。

誰にも傷つけられなくなることでもない。

外側で何も起きなくなることでもない。

きっと、

外側で何かが起きても、

自分の中心に戻ってこられること。

なんだと思う。


怖くなったら、

「怖いね」

と自分に気づいてあげる。

悲しかったら、

「悲しかったね」

と分かってあげる。

そして、

「私はどうしたい?」

と、自分に聞く。

昔は、それができなかった。

「従うしかない」ことが、生きるための方法だったから。

でも今は違う。

私はもう、自分で選べる。



私は、息子を見ているようで見ていなかった

そして、このことに気づいたあと、もう一つのことにも気づいた。

私も息子を見ているようで、見ていなかったのかもしれない。

息子の苦しさを見ているつもりで、

そこに昔の自分の怖さを重ねていた。

「助けなきゃ」

「何とかしなきゃ」

「このままではいけない」

そう思っていた。

でもそれは、息子を見ているというより、

息子の中に、

昔の私が感じていた怖さを重ねて見ていたのかもしれない。

私が助けてもらえなかったときの怖さ。

「どうしたらいいか分からない」という怖さ。

その怖さを、息子の姿を通して感じていたのかもしれない。

このことに気づいたとき、少しずつ、

「息子はどうしたいんだろう」

と考えられるようになった。

私の怖さと、息子の人生は同じではない。

私は私。

息子は息子。

それぞれの中心がある。

それもまた、「中心に戻る」ということなのかもしれない。



命が、少しずつ暮らし始めている

生き延びるためには、外側を見る必要があった。

相手を見る。

空気を見る。

危険を探す。

先回りする。

そうやって私は、私を守ってきた。

だから、その自分を責めるつもりはない。

むしろ、

よく私を守ってくれたね。

と思う。

でも、これからは少し違ってもいい。

外側を見続けなくてもいい。

怖さを感じたら、感じていい。

悲しかったら、悲しかったと言っていい。

そして、

「私はどうしたい?」

と、自分の中心に戻ってくる。

それが少しずつできるようになると、

今まで「生きるため」に使っていた力が、

「暮らすため」に使えるようになるのかもしれない。


誰かに合わせるためではなく。

誰かに認めてもらうためでもなく。

ただ、

私がここにいるために。

そんなふうに、

私の命が少しずつ、私の暮らしの中に戻ってきている。


最後まで読んで下さり、ありがとうございました🍃

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