完全には理解し合えない。それでも、どう人を理解するのか
ここ最近、娘とのある出来事をきっかけに、「人を理解する」ということについて考えてきた。
最初の記事では、
「弟なんて生まれなければよかった」
という娘の言葉から、
人が口にした言葉と、その人の内側にあるものは、同じとは限らない
ということを考えた。
前回の記事では、小学3年生の頃の自分が父に、
「どうやってるの?」
と聞いた記憶から、
言葉の内容と、その言葉を使った目的も、同じとは限らない
ということを考えた。
すると最後に、一つの疑問が残った。
表面の言葉だけでは、相手のことは分からない。
でも、
「きっと本当はこう思っている」
と、言葉の奥をこちらが勝手に決めるのも違う。
では、
僕たちはどうやって人を理解すればいいのだろう。
僕たちは、自分というフィルターを通して人を見ている
娘から、
「弟なんて生まれなければよかった」
と言われた瞬間、僕は強く反応した。
僕には、
「人の存在そのものを、他人が否定してはいけない」
という価値観がある。
だから僕には、あの言葉が「弟の存在そのものを否定している」ように聞こえた。
でも、同じ言葉を聞いても、
「兄弟喧嘩ならよくあること」
「弟に嫉妬しているのかな」
と受け取る人もいると思う。
同じ言葉なのに、解釈が違う。
僕たちは目の前の人をそのまま見ているようで、
自分の経験や価値観、育ってきた環境を通して見ている。
つまり、
自分というフィルターを通して、相手を見ている。
そして、そのフィルターそのものをなくすことは、たぶんできない。
問題なのは、
自分の解釈を、いつの間にか「事実」にしてしまうこと
なのかもしれない。
理解とは、「当てること」ではなく「更新すること」なのかもしれない
娘と話したとき、僕は、
「もしかして、寂しい?」
と聞いた。
娘は「うん」と答えた。
でも、それで、
「娘の本心は寂しさだった」
と確定することもできない。
僕が「寂しい?」と聞いたから、そう答えただけかもしれない。
寂しさ以外にも、いろいろな感情があったのかもしれない。
だから「寂しい?」は、答えではなく、
「もしかしたら、こういうこと?」という仮説
くらいに考えた方がいいのだと思う。
違ったら修正する。
別の話が出てきたら、また考え直す。
最近は、
理解とは、相手の本心を一度で正確に当てることではなく、自分の解釈を更新し続けることなのではないか
と思っている。
「この人はこういう人だ」
と完成させるのではなく、
「今の自分には、こう見えている」
くらいにしておく。
人は変わる。
状況も変わる。
自分自身も変わる。
ならば、相手への理解も変わって当然なのだと思う。
でも今は、「更新する時間」が減っているのかもしれない
ここまで考えて、もう一つ気になった。
今はとても便利な時代になった。
インフラは発達し、便利なサービスが次々に生まれる。
SNSでは誰でもすぐに意見を発信できる。
AIに聞けば、何時間も一人で考えなくても、すぐに答えらしきものが返ってくる。
僕自身も、かなりその恩恵を受けている。
ただ、その一方で、
「分からないまま考える時間」は減っているのかもしれない。
タイパ。
コスパ。
できるだけ短い時間で、できるだけ大きな成果を得る。
もちろん合理的だし、仕事ではとても大切だと思う。
でも、人間関係まで同じ尺度で見始めたらどうなるのだろう。
「あの人とは合わない」
「価値観が違う」
そう判断して離れる。
それも必要な場合はある。
無理にすべての人と付き合う必要はない。
ただ、
一度「この人はこういう人だ」と判断して、その理解を更新しなくなったとき、関係はそこで止まってしまうのかもしれない。
人間関係には、「無駄」が必要なのかもしれない
人との関係は効率が悪い。
誤解する。
聞き直す。
話してみたら、思っていたことと違う。
また考え直す。
時間もかかる。
タイパだけで見れば、かなり悪い。
でも、このことを考えていたとき、平田オリザさんの『わかりあえないことから』を紹介しているnoteの記事で、こんな言葉を見つけた。
「この『無駄』こそが、他者との距離を測り衝突を避けるための緩衝材として機能しています。」
会話には、
「えーと」
「まあ」
という、一見すると情報としては必要のない時間がある。
でも、その間に相手の表情を見たり、言い方を変えたり、距離を測ったりしている。
そう考えると、
効率だけを求めたら削られてしまうものの中に、関係をつくるために必要なものがあるのかもしれない。
オリバー・バークマンの『不完全主義 限りある人生を上手に過ごす方法』を読んだときにも、似たことを考えた。
「全部終わったら、本当にやりたいことをしよう」
と思っても、全部終わる日はたぶん来ない。
一つ終われば、また次のことが出てくる。
時間ができれば、そこにまた何かを入れる。
僕自身も、そうなりがちだ。
だとすれば、
「時間ができたら大切なことをやる」のではなく、大切なことに今、時間を使うしかないのかもしれない。
それは、人との関係も同じなのだと思う。
今必要なのは、「関係をつくる姿勢」なのかもしれない
ここまで考えてきて、
大切なのは「相手を正確に理解する能力」だけではない気がしている。
むしろ、その手前にある、
関係をつくろうとする姿勢
なのかもしれない。
自分の理解は間違っているかもしれない。
相手も昨日とは変わっているかもしれない。
一度「この人はこういう人だ」と思っても、
その理解を更新する余白を残しておく。
分からないから聞く。
違ったら直す。
また分からなくなったら、また話す。
効率は悪い。
でも、
その効率の悪い繰り返しの中で、関係は少しずつ形づくられていくのかもしれない。
人は、完全には理解し合えないのだと思う。
でも、完全には理解し合えないからこそ、
分かったつもりにならず、話し続けることができる。
僕にとって「人を理解する」ということは、
相手の本心を言い当てることではなく、
分かったつもりにならず、理解し続けようとすること。
今のところ、そんなふうに考えている。
「弟なんて生まれなければよかった」
という娘の一言から始まったこの問いも、また何かあれば変わると思う。
それでいいのだと思う。
もし皆さんが、
「人と分かり合うこと」
「関係をつくること」
について考えていることがあれば、コメントで聞かせてもらえたら嬉しいです(^^♪
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#頑張ってるのに安心できない
